いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

幸せな X 印、あるいは、お見合い悲喜劇

2012年07月04日 20時04分13秒 | ねこ

行きつけの動物病院に行った。里親募集のポスターに茶トラの子にゃんの写真の上に、

バッテンが付けられていた。

里親が決まったのだ。

もらい手とこの茶トラの子にゃんのお見合いがうまくいったのだろう。

Sold out! の意味に他ならない。 幸せなバッテン印。

■ お見合い悲喜劇

ぬんげん(人間)、いろんなことをしないですんでいく(死んでいく)。

例えば、おいらは、これまで人を殺したことはないし、おそらく殺さないだろう。 いや、殺せないだろう、ヘタレだから。

こういう物騒なはなす(話)でもないのだが、

おいらはお見合いをしたことがないし、これからもしないだろう。

一度はしてみたかたったな、お見合いと、たまに思う。

ここで、お見合いとは結婚用のお見合いである。いまどき、お見合いとは結婚用のお見合いのことだろう。

▼養子縁組

むかす(昔)は、お見合いは結婚用に限られたものではなく、例えば、養子縁組などの結婚くらいに重大な社会的契約のために行われたらしい。

例えば、お殿様で、やたら子だくさんの御仁がいる。徳川将軍で言えば、家斉(いえなり)。特定されるだけで16人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人を儲けた(wiki) この子だくさんのなかの少なからずが大名家の養子となる。これは将軍家による他大名への押し付け、押し込み人事である。将軍の息子にふさわしいポストに押し込もうとしたのだ。例えば、蜂須賀家なんかもそうだったと、おいらは、記憶している。この養子縁組には、お見合いがあったと思われる。

思われるとここでおいらが書いた理由は確たる証拠がないからである。確たる証拠があるのは井伊直中(いいなおなか)の息子たちのことである。井伊直中(いいなおなか)には息子が15人いた。そもそも、井伊直中(いいなおなか)って知らないだろう。井伊直弼のとうちゃんである。井伊直弼はone of fifteenだったのだ。もちろんかぁちゃんは側室である。しかも、お見合い失敗

井伊直弼がお見合いを失敗したのは、はたちぐらいの頃だ。

 井伊家の家風では、嫡子以外の部屋住(へやずみ)の子は、他家を継ぐか、家臣に養われるかするのが例であった。他家にも行かず、家臣にも列せぬ者は、わずかな宛がいぶち(あてがいぶち)を給されて、生活しなければならぬ慣わしであった。

 この家風に従って、直弼の兄たちはいずれも他家を継いでいる。ここで直弼の兄弟についてみよう。

 七男・直教(なおのり)⇒中川久貴(なかがわひさたか)に養われ、豊後岡七万石藩主。
 八男・直福(なおとみ)⇒内藤政峰(ないとうまさみね)に養われ、三河挙母(ころも)二万石藩主。
 九男・勝権(かつまさ)⇒松平勝升(まつだいらかつゆき)に養われ、下総多古一万二千石藩主
 などなどは大名。 他の兄弟たちは家臣に養われる。
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しかし直弼にも希望があった。直弼の兄弟たちがそうであったように、彼もまた他家を継ぐ望みがあった。そしてあるいはその幸運をつかむことができるかもしれなぬ機会が、意外にも早く訪れたのである。
直弼が二十歳の時、江戸の直亮(なおあき)[井伊彦根藩主、直弼の兄]から、しかるべき大名の養子にするから出府するように、との命令が直弼・直恭の兄弟に伝えれた。直弼は再び彦根の土は踏むことはあるまいと思い、友人たちに和kれを告げ、勇躍して江戸に下っていった。しかし幸運をつかんだのは弟であった。 直恭は日向、延岡、内藤政順(まさより)の養子となり、一躍七万石の城主となり従五位下能登守に叙任した。直弼は失意のうちに江戸藩邸にすごすと一年、翌年八月むなしく彦根に帰った。

以上、吉田常吉、『井伊直弼』、吉川弘文館、よりコピペ&一部改変。


   直恭&直弼兄弟?

 直弼その後;⇒ 埋木舎 -京都参り2006④-

関連愚記事;  屠られた掃除のおじさん -横浜③- 

被害者の会 ⇒ほったてごやの人々  あのとき直弼のお見合いがうまくいっていれば...

● で、当時は気付かずに、ノラになって、すなわちdeath valleyで苦行して、何年もたってある日ふと気付いた。

そうなのだ、ふと気付いた。あれは、お見合いだった!って。

一度はしてみたかたったな、お見合いと、たまに思う、というのは違ったのだ。

まだ学位を取る前に、ある地方大学、しかも旧教養部!(失礼)の教授をおいらの指導教官がお呼び立てして3人で話をした。その会合で、おいらの指導教官はおいらの研究内容を説明した。そのある地方大学、しかも旧教養部!(失礼)の教授はそのおいらの研究内容と近いことを研究していた。でも、その時は全く「お見合い」だとは気付かなかった。理由はいろいろあるが、ひとつは、そのおいらの指導教官は策を弄することをしない人であり、人事で弟子を押し込むということなぞしない人と思われていたからである。なにより、おいら自身が指導教官がポストを見つけてくれるなぞ思ってもみなかった。ただ、よい研究をすればいいと信じていた(何てバカだったんだ、あの頃のおいら)。今から思えば、おいらの指導教官は、そういう策を弄することを許せない性格の人であったので、「お見合い」とはわからないように「お見合い」をした眞に策を弄する人であったのだろう。

今から思えば、大嗤い&冷や汗ものなのであるが、おいらはなぜ特に業績もない(失礼!)ある地方大学、しかも旧教養部!(失礼)の教授をと話し合いをしなければいけないのか、全く不可思議であった。 今から思えば、30近いのに、ホント無神経なおいらではあった。

さらには、おいらは、海外でポスドクになりたかった。そういうおいらの気持ちを察してか、あるいはそれに乗じてか?!、その後、今から思えば「お見合い」はなかった。「勝手にしろ」という気持ちも指導教官には涌いたのであろう。

果たしておいらは、35歳でノラになった。⇒失業者になったのは2001年3月末でポスドクの任期が切れたからである。

以来、おいらの自画像にバッテンがつけられないことが決まったのだ。

時効になったのだ。