先週末にJR線・東京駅から東急線・二子新地まで歩いた。実は、4月末の松戸→皇居散歩は荒川から多摩川を渡る東京斜断歩行とするつもりだった。ところが、途中でへたれ、皇居で頓挫したのだ。情けない。(愚記事;東京散歩; いくつもの橋を渡って、渡れない橋にたどり着く )。その続きを行うこととした。皇居、二重橋から再出発。そのために、常磐線でひたち野うしく駅から東京駅まで行った。
図1. 東京駅 → 二子新地 までの 全行程
図2. 東京駅 → 六本木高樹町までの前半の行程(図1の (a)部分)
1.東京駅 8:00
2.丸の内
■ 40年前爆弾テロで爆破された三菱重工ビル(関連愚記事:丸の内サディスティクス )は、今は「丸の内二丁目ビル」という名前になっています。でも、基本的に建物はそのままです。 ■
40年前爆弾テロで爆破された三菱重工ビル [ネットでの拾い画像]
3.二重橋
■ 4月末、松戸から歩いて、皇居を通過して、多摩川を渡ろうとしましたが、13時過ぎ、ここで挫折しました。今日はここから再出発です。 ■
4.桜田門
桜田門から皇居の外へ出る。
154年前、1860年、このあたりで当時の日本政府の独裁者とも評された最高実力者が暗殺されました。
画像ソース: 愚記事、正確にいうと半券の残りの方です。モギッてもらったあとおいらの手元に残った方です。スキャンしました。
5.霞が関
■ 桜田門を出ると、霞ヶ関です。最初に、警視庁が見えます。先ほどの丸の内とは目と鼻の先であるとこの散歩で、おいらは気づきました。すなわち、1974年の三菱重工爆破事件ではこの警視庁でも爆弾炸裂の轟音が大音量で聞こえたはずです。したがって、その瞬間おまわりさんは駆けつけたんだと思います。この警視庁の建物からおっとり刀でどっどっどと駆け出したんだと思います。そして、爆破後5分もしないで、現場にはお巡りさん~背広のお偉方が来たはずです。別な話ですが、三菱重工爆破事件って爆破の瞬間の映像が残っているんですよね。 ■
外務省。
6.虎ノ門
工事。歩きずらい。新しいビルができたり、再開発が進んでいた。
花壇にペットボトル。猫よけなんでしょうか?
7.愛宕山 9:00
にゃんこが 三つ指ついて? O m o t e n a s h i 。 恐るべし、Tokyo !
愛宕烈猫
■ 愛宕山といっても三角錐状の山頂をもつヤマではない。「頂上」は平である。愛宕山というのは、台地が浸食された残りである。具体的には、河岸段丘の開析(かいせき)の最末期における産物。
この愛宕山はもともとは武蔵野台地の東端部。周囲がすべて削られてしまって、「ヤマ」状になった。標高は26mであり、武蔵野台地の平均的高さ程度である。武蔵野台地の東端部は東京湾に流れ込む河川で浸食されて、谷がたくさんできている。台地と谷と坂で特徴づけられる地理的条件の成因だ。今、東京の「山の手」とよばれる地域は武蔵野台地のうち淀橋台と呼ばれる(下図)。開析が進んで、台地はかなりずたずたとなっている。 ■
その淀橋台を横断した。
▽ さて、その愛宕山は、テロ起源国家・近代ぬっぽんの精神的発祥の地のひとつである。
テロ起源国家・近代ぬっぽんのもうひとつ別の精神的発祥の地は松下村塾に他ならない。
そのレプリカを後にこの散歩で見ることになるであろう。
錦絵 愛宕山集合之図 [google]
■ 桜田門外で井伊大老を殺害したテログループは後に叙勲され、愛宕烈士と呼ばれている。あの雪の朝、殺害前にこの愛宕山に集まり、祈願したからだ。近代日本がテロ起源国家であることを朝廷/皇室が担保しているのだ。さて、この愛宕烈士を顕彰する石碑が建てられたのは明治維新直後ではなく、皇紀2601年の3月である。つまり、1941年(昭和16年)の開戦の年の早春にこの烈士の石碑が建てられた。背景はこうだ。つまり、世界の大勢を支配している英米を倒せ。その英米は江戸時代の徳川幕府みたいものじゃないか!英米幕府を倒せ!という思潮が横溢していたのだ。尊皇攘夷だ。 ■
急な階段を降りて、神谷町方面へ下る。
補遺; おいらは上り下りしなかったが上から見た「出世の石段」;
8.虎ノ門4丁目 桜田通り付近
緩い登り坂を歩いて、六本木方面へ。
8.→ 9. 虎ノ門→六本木
スペイン大使館。 愚ブログに現れたる彼の国。
池田宗弘作品展 サンティアゴ巡礼路からのメッセージ⇒ 告知サイト
スウェーデン大使館。 赤いジャングルジムみたいオブジェは何だろう?
偶然だが、スペインもスエーデンも日本と交戦関係になったことはない。
偏奇館跡地 別に狙っていたわけではないが、散歩中、たまたま発見。
でも、荷風は背広と革靴で散歩してたんだね。国は滅びるし、家は焼けるし. でも散歩.
このあたりの地形模式図をネットで拾い、パクった。
原図は、松本哉「永井荷風の東京空間」(河出書房新社)からのものとのこと。
このイラストは「開析」現象を端的に示している点ですばらしい。
このように平面が発達している台地が川で浸食され、谷が形成される。
それを「開析」という。 崖ができる。
江戸時代は六本木では崖崩れが頻発していたらしい。
もっともこのイラストは崖が急峻すぎる。
実際は「角」がとれて、少し緩い坂となるのだ。
下の画像のように;
下る。首都高や地上の幹線道路はこの坂の下の谷を走っている。
なだれ坂
なだれ坂付近の崖下の墓地
丹波谷坂
11.六本木通り
図3. お散歩後半の行程。 図1の(b)部分; 六本木 → 多摩川渡河。
12 牛坂
13. 南青山
14. 渋谷へ
15. 渋谷駅
16. 目黒川
16→17→18 池尻大橋 緑道 松陰神社
18 吉田松陰神社 11:50
「テロ起源国家・近代ぬっぽんの精神的発祥の地は松下村塾」のレプリカ。
オリジナルはこっち。
首と胴体が切り離された松陰センセが埋まっているお墓。
儒者で...神道の社で...
武蔵野野辺の立派な社に 朽ちてます
19 豪徳寺 12:40
20 世田谷区 弦巻
この給水塔を見て、おもいだしたのは、ヒンドゥー建築。
22 世田谷区南下 新町 → 等々力
■ 世田谷区を南下。多摩川に向かってほぼ垂直に歩く。この画像に浅い「古谷」が認められます。すなわちこの道は緩い下り坂ですが、その先で緩い上り坂に転じます。その変曲点が昔の川であったところです。この道に垂直の方向、すなわち今の多摩川の流れと同じ方向に川が流れていたのでしょう。その川のおかげでこの世田谷区の地形面が形成されたのです。もっとも、この浅い「谷」は後述の等々力渓谷のように段丘崖を垂直に刻む谷ではありません。開析谷というより、この段丘面を形成した河川跡と思われます。 ■
このあたりは段丘の高台にあるので、水の供給がなされず、田んぼを保持できないので、水田ができない地域なのでしょう。だから、ブドウ。
23.等々力駅付近 → 等々力渓谷 14:30
■ 等々力渓谷。ここは狙って行きました。今回のお散歩の条件は、1)二重橋から出発、2)多摩川を渡るの2つだけです。その条件で地図をみてて、東京に「渓谷」があると初めて知りました。もっとも、「渓谷」の定義如何なのですが。六本木―渋谷にかけての谷は「渓谷」ではないのか?という素朴な疑問があります。定義・境界はともかく、等々力渓谷は高い段丘面を流れる川が低い段丘面に流れることにより、高い浸食力を持ち、河岸段丘のある部分にできる「若い」谷です。開析とはこういうことだ、という標本です。同じ形成機構の現象として、仙台では、竜ノ口渓谷があります。もっとも規模は全然違います。仙台の竜の口渓谷の方が雄大です。東京の若い谷である等々力渓谷を見物することを今回のお散歩では狙いました。 ■
24.丸子川を渡り、多摩川河川敷が見えた。 15:00
24 → 25 多摩川沿い
25 → 26 多摩川渡河
終点 東急 二子新地駅 14:45