1932年4月29日、上海天長節爆弾事件直前の画像[wiki]。
中央の無帽の文官が重光。
重光葵が両足であった最後の瞬間;
84年って半端な年ではあるが、下記ニュースで、「重光葵受難84年」と気づく。
コリアの新聞・中央日報、尹奉吉義士「上海義挙」84周年
われらがネトウヨの反応; 尹奉吉義士「上海義挙」84周年 日本の陸軍大将らを爆死させた ← またテロリスト祭り上げとる
おいらは、2012年に尹奉吉さんの顕彰館に行っただよ(愚記事; 上海参り2012)。
コリアン諸君はひとりもおらんかった。っていうか誰もおらんかった。忙しい?コリアンに替わって、チャイニーズ諸君が顕彰っしているわけでもなかった。
上海参拝前に「書物に傍線を施しては」尹奉吉さんの顕彰館の見物を計画し、おそらく大勢いるであろうコリアン諸君に「おまえ、日本人だろう!」とからまれたらどうしよう!と想定していた。ぶん殴られたら、ぶん殴られたで、ブログネタにでもしようと 口先 脳先で考えても、びびって、行った。
コリアン諸君はひとりもおらんかった。
さて、ハンディーキャップ国家;
片足を失なうも生き残った重光葵のその後は有名;
重光葵=片足ない=ハンディキャップ。
敗残国も、そのうち、講和を経れば、普通の国=戦争をする権利を有する主権体になるのが、世界普遍の原理であるはずなのだが、
われらが戦後ぬっぽんが選択した道は、戦争する権利を放棄し、むしろ政府から戦争する権利を剥奪した憲法=マッカーサー憲法を改正しないことであった。
戦争できない国=主権を制限された国を、ハンディーキャップ国家と称し、その国のあり方を語るのがハンディーキャップ国家論[google]に他ならない。
朝鮮儒者(の子)が投げた爆弾の爆風の余波が未だ肌に感じる当世ぬっぽんではある。