いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

1973年針生一郎訪中ご一行さま11名のうち、あと1名がわからない。

2016年05月10日 06時25分00秒 | 中国出張/遊興/中国事情

まったくどうでもいいはなしです。

どうでもよくない唯一の理由があるとすればこんなことに言及しているネット情報が、この広いnet-sphereにないであろうこと。

1973年のまだ文化大革命(文革)が終焉していないが、すでに林彪が死んで、その文革の熱狂が醒めたといわれる時期に、針生一郎が訪中し、しかも文革礼賛の文章を書き、本も出版したことは、かつて書いた(愚記事; 仙台参り 【2015】 宮城県立美術館 『わが愛憎の画家たち; 針生一郎と戦後美術 』  );

また見たね! 針生一郎

そして、元来純粋な「針生一郎」に、おいらが「再会」したのが、既に昭和も終わり、かつ、遠くなりつつあった、21世紀に入ってのことである。21 世紀の「ゼロ年代」(笑い)においらは文革(中国 文化大革命)に興味を持って、少し調べ始めた。そのなかで、文革を礼賛した日本人文化人を紹介した文章 で、針生一郎に再会したのである。すなわち、文革時に支那に行き、その支那文革に感動した文化人のひとりに針生一郎がいると。なお、その時点で上記 1944年夏のサイパン島陥落第二高等学校決起集会の思い出の作文者は針生一郎であると認識していた。

その文革を礼賛した日本人文化人を紹介した文章を読んだ時点で、「あ~やっちまったな、針生一郎」と直感した。確認のためおいらは、『針生一郎芸術 論集 文化革命の方へ』(朝日新聞社 刊、1973年)を中古市場で買って読んだ。針生一郎は、「われわれにとって文化大革命とは何か」という文章を書いていた。これは、中国の文化大革命を見 にいった見聞録である。同行は宇井純、鶴見良行、むのたけじ等。「われわれにとって文化大革命とは何か」の文章は中国共産党が書いた文章をもらったのでは ないかというくらいの全く批評性のない文章。例えば;

それにしても、わたしは 中国革命の原点である延安を訪れて、抗日戦争のさなかに、この奥地でなしとげられた事業にほとんど圧倒された。一見退却ともみえる二年余の大長征を経て、 八路軍がここにたどりついたのち、党と軍の根本的な再建をはじめ、開墾、農・工生産、解放区の自治、大衆工作、学習など、すべてが統一的におこなわれたの である。ハン・スーインの『毛沢東』によれば、中国革命は五・四運動以来、文化革命の性格をもっていたというが、延安時代には、今日にいたるすべての問題 の原型がすでにふくまれていたのである。「文芸講話」の「文芸」が、文学や芸術だけでなく、歌舞、演劇、祭りなどをふくめた大衆工作の意味であることも、 今度わたしははじめて知った。(針生一郎、『針生一郎芸術論集 文化革命の方へ』、「われわれにとって文化大革命とは何か」)

この無邪気、無批判に驚くことに加え、おいらが二重にびっくりしたのは、中国共産党に「新左翼」御一行さまと認定された針生らが「文化大革命」を見 に行ったのが、1973年なのである。文革開始後既に7年。その出鱈目さや悲惨さが知られつつあった。何より、ニクソン訪中、角栄訪中の後、しかも日中国 交回復の後だ。文化大革命は1966年に始まり、1968年にはひとだんらくしていた。文化大革命は毛沢東の死まで10年という長期にわたりなされた。で も、この1973年は四人組の跋扈に一般庶民は嫌気がさし、なにより政府機能がマヒし、国家存続が危うかったので、毛自身が「米帝」や「日帝」と手を組む ことを決めた後の時代である。林彪事件は1971年である。こういう状況で、のこのこと「文化大革命」にしびれた"純粋な"針生は中国に行き、見聞録を書 いたのだ。

そして、おいらは、針生が日帝や支那文革にしびれたのを、現時点の視点からみて、「スカばっかりひいていた針生一郎」と揶揄したいわけではない。む しろ逆で、 日帝や支那文革に無邪気に、正にその時代に実経験として、純粋に、心からしびれて、楽しそうだな、とうらやんでいるのである。

■ 針生は何かグループとして訪中した。その御一行さまについて少し、わかったのでメモする。

その訪中団は安藤彦太郎が中国派でない新左翼を勧誘・組織して(オルグして)、中国に連れていったもの、とのこと。

全員で11名だったらしい。 全員の名前を列記した資料はみあたらなかったが、複数の証言を集めると10人の名前がわかった;

安藤彦太郎 [wikipedia]
針生一郎   [wikipedia]
宇井純   [wikipedia]
折原浩   [wikipedia]
小島麗逸  [wikipedia]
高橋晄正   [wikipedia]
むのたけじ  [wikipedia]
棗田金治  [wikipedia]=なし、 [google]
鶴見良行  [wikipedia]
武藤一羊   [wikipedia]

馬場公彦、『戦後日本人の中国像 日本敗戦から文化大革命・日中復交まで』の武藤一羊や小島麗逸へのインタビューにおける彼らの証言録に書いてあった。

11名御一行さまは1か月あまり中国に滞在。

わたしたちの一行のスケジュールで、多くの訪中グループといくらかちがうところがあるとすれば、約1か月の滞在期間の前半を北京にさき、相互討論の時間を比較的多くとったことだろう。 (針生一郎、『針生一郎芸術論集 文化革命の方へ』、「われわれにとって文化大革命とは何か」)

この御一行さまの現地ツアコン(「全行程の案内人」)があの唐家璇 [wiki] であったとのこと。今、wikiを読むと、唐家璇は文革前期(最盛期;林彪死亡前)の1969-1970年には、五七幹部学校に収容されていたと知る。「五七幹部学校」とは中国共産党の幹部用の強制収容所である。

そして、残り1名の名前がわからない。