いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第391週

2022年05月07日 18時06分49秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第391週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の「焼き物」

栗どらやき。先週土曜日に購入、翌日の日曜日に切断、食べる。先週の種入り梅どらやきとは違って、包丁ですっぱり切った。

■ 今週のお餅


柏餅

昔、和菓子屋でバイトをしていた。今頃の季節で、柏餅づくりの葉っぱに包む工程をやった。職人さんに葉っぱで餅をつぶすさないようにいわれた。


大福餅

■ 今週の雑木林;二の丸雑木林


二の丸雑木林、皇居東御苑

昭和天皇といえば、「雑草という草は無い」(google)で有名。「雑木林」はいいんだろうか?

■ 今週の「変」

■ 今週の「神」

■ 今週借りて読んだ本

4月中旬から読み始めた高橋たか子(4月16日のブログ記事)。5冊のエッセイと小説1冊(『誘惑者』)を読む。エッセイは出版が古い順から『高橋和巳の思い出』(1977)、『記憶の冥[くら]さ』(1977)、『高橋和巳という人』(1997)、『私の通った路』(1999)、『どこか或る家』(2006)、『終わりの日々』(2013)。 

高橋たか子は1932年生まれ [1]、2013年死去。本名は高橋和子(たかこ)。従って、夫の高橋和巳とは漢字では一字違い。なぜ「高橋たか子」?という話は4/16のブログ記事に書いた。高橋和巳について語っていることに加え、何よりその欧米崇拝、特にフランス崇拝に興味をもった。フランス人に生まれなかった自分の運命を嘆いているのだ。これはすごい、と思った。狂人だ。蛇の道はヘビ、読んでみよう。

敗戦中二病。愚ブログで言及したことのある江藤淳(1932)、篠沢秀夫(1933)、海老坂武(1934)、などとほぼ同時代の文学者。敗戦時が現在の学制の中学生という多感な時期であり、その後フランスなど西洋文学で生きる。何より、日本への態度が興味深い。高橋たか子の属性で特徴的なのは、上記秀才文学者は男性とは学校エリートということは同じであるが、女性であること。エッセイでは女性であることでの、知的エリート社会での、不当な待遇を非難している。なお、鳥瞰的に言明したのは1997年の「男性社会というものがまだ一度も反撃を受けることのなかった当時の日本」である(『高橋和巳という人』)。

[1] 1932年生まれの高橋たか子は書いている;
私と同年(昭和七年生まれ)の石原慎太郎さんが、大変元気な姿でテレビに出ておられると、とてもうれしくなる、と言いそえておこう。終わりの日々の作家に特有な、長い経験の蓄積に仄見える言葉づかいにたいして。2005年(『どこか或る家』)。

フランス。 「私は日本では生きにくいのだ」と云う高橋たか子がフランスの何を憧憬するかというと、民主とか人権とかはたまた革命とかあるいは近代批判とかではなく、カトリックのフランスなのだという。日本人は人間らしく生きていないのであり、「ペルソン」/「ペルソナ」というものをもつヨーロッパは違うのだ、と云っている。キリスト教、それもカトリックに憧れる。ヨーロッパ一般を賞賛するが、特にフランスだ。その理由はよくわからないが、自分がフランス文学をやり、フランスのカトリック作家モーリアックに影響を受けたことによると自分では説明している。でも、それでは、なぜモーリアックなのか?他ではないのかについては言及されておらず、理論的には説明になっていあにとおいらは思う。

なぜフランスのことばかり?について説明している文章があった。晩年の日記だ;

 なぜフランスのことばかり私は思うのか? その理由は、はっきりしている。
 若い頃にフランス文学を専攻したこと。そんなわけで翻訳をいくつかしたこと。(フランス文学を専攻
したと言っても、当時の、元は帝国大学だったところだから、大変レベルが高かった。その上、西洋文学全体を見わたす教授の姿勢があったのだ・・・・)
 そうして、私自身、すっかり日本を捨てる気持ちで、一九六七年にフランスへ行ってしまった。その時、違和感ばかり受けたのだったが、この違和感が、その後、すこしずつ私に飼い馴らされて私という人間の内容となり、そうして、やがてフランスというものが私のものとして私の内部に住み着くようになったのだ。だから今、私は、日本人ではない、という気分でいる。(2010年 2月27日(土)『終わりの日々』)

でも、やはり、説明になっていない。なぜフランス文学を専攻したのか説明されていない。英文学でもなく、中国文学でもなく、はたまた国文学でもなく、なぜフランス文学なのか? やはり、説明されていない。

この点、篠沢秀夫は、嘘かほんとか自己申告なので確かめようがないが、説明している。すなわち、敗戦で戦勝国の文物である英文学をやろうとした、そうしたら、ノルマン征服を知り、英国よりフランスの方が偉いからフランス文学にしたと云っていたおいらの記憶がある。あるいは、平川祐弘が敗戦国民として戦勝国のアメリカを直視できなかったのでフランス文学にしたと江藤淳が云っていることもある。

▼ 高橋たか子のヨーロッパ理解:

1.

「フランス人」
(中略)
では、どんな人たちか?
強い。と、一言で言っておこう。
強さと言っても、むき出しの強さではない。二千年(それ以前から)の間の、ユーラシア大陸内での地続きの地域と地域との間を絶え間なく掻きまぜた戦争 ー歴史書に記されていない戦争がどれほどあったことか!ー こうした暴力によって知らず知らずのうちに作りなされてきた、肉体の力。そうして、やはり、そういう生存の状況を通して培われてきた、精神の力。強烈な力。中世以降は、そうした力が、むきだしのものではないふうに洗練されてき、それは、たとえば、人と人との間の礼節とか、あるいは、言語表現における端正さとか、などなど入れるが、しかし礼節にしても端正さにしても、内に強いテンションがある。
 そのテンション。その緊張力が、その人だ、ともいえるフランス人。(ヨーロッパ人、と言ってもいいがー) (『終わりの日々』)

2.

ロマンチスムはユーラシア大陸でこそ根付いてきたと主張する。ユーラシア大陸で示す地域は、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、ロシアである。

つまり、夢。 それらの国々では、生存の根っこから本能的に立ち上ってくる<ここにはないもの>への夢が、茫漠と熱く、人々を生かしめてきたのではなかったか?
 ユーラシア大陸の国々の、文学や芸術を見れば、一望のもとに、そのことが見える。ユーラシア大陸の、と、ここに書くのは、イギリスやアメリカでは、そうではないから。海を越えた国々では違う相のものが発達していったのだろう。
 なぜユーラシア大陸の内部でそうなったのか、と思いめぐらすと、地続きの国々間での、侵入や侵略や移動をとおして、多種の血が(婚姻によって)混じり。後世の者が証明できぬふうに一人の人において混じったものとなり、そのような複合的な家をもった、ユーラシアの広大な地帯の人々においてのみ、単一の血族である日本人には生じない、なにか憧れのような志向が出てくるのではないか?自分の中にある自分とは違う他人、そんな違いに、無意識的に敏感でーそれが、他人に向かっては、憧れという形をとることがあるのだ。
 こうした憧れ。それがロマンチスムの根っこをなすもの。(2007/9/27 『終わりの日々』)

かように、とにかく知識や情報にもとづかず、「ロマン」的・イメージ的なものである。

▼ B-29の来なかった街に生まれて; 

 戦争体験というものを爆撃に限定するなら、私は戦中派世代に属しながらも戦争体験を持たなかった。京都に住んでいたからである。私にとって戦争は長い長い倦怠の時期として記憶されている。日本の大都市が次々と爆撃されているというのに、京都という大都市は、爆弾一つ落ちず、戦災風景など全く現出せず、しかも勉強も遊びもできないままに、毎日毎日が呆けたように過ぎていった。
 そうした倦怠に終戦が終止符を打ったと言っても、廃墟から立ち上がろうとする人々とはわけが違っていた。どこにも廃墟がないのであるから、ゼロからの出発という希望もない。戦災都市の人々とそうでない人々とで、その点が非常に異なるようである。御破算の度合いと希望の度合いとは比例する。そういうわけで私にとっては戦後というものがゆるゆるときた。何かが、つかみどころのないあいまいさで変わっていた。壊された何かを建てなおすという具体性がないのであるから、いわば抽象的な変化であった。まだ女学生であった私は、それがどういうことなのかすこしも理解できないままに、その変化を感覚でだけ感じていた。(『記憶の冥[くら]さ』)

なお、高橋たか子はB-29の来なかった街、京都に生まれて育ったが、敗戦直後、父親の配慮、すなわち廃墟をみせてやるとの意向で、大阪と東京を訪れたというのだ。

▼ 中二病克服文学:

 何年も前から日本で若い人々の自殺が増えている。そのことを新聞で見るたびに、私などは笑ってしまう。何と、幼いことか!と。私の若かった頃、まわりの人々は(トップクラスの青年たちは)とことんまでニヒリズムを生きていた。西洋から来たニヒリズムをとおして、自身の、この世への本能的な否定と向き合い、また、西洋からきたさまざまの観念と向き合うことによって、教えられ、強められてきたのである。特に男性ばかりの国立大学では、そうであった。
 そうして、たとえば私などは、その頃に、この世および自分自身の否定をとおして、人間形成されてき、いわば、すでに自殺してしまっている自分を、この世と合わせて生きていく、とでも言った強さを、ずっと保持している。
 このことが、<自分自身において死んでいる>ということにおいてのみ成り立つキリスト者としての私を、形成することとダブっている、と言えようか。(西洋のキリスト者は、そうである)(2007/9/11『終わりの日々』)

▼ 駆動力:

 昔の西洋映画もそうだが、昔の西洋文学には、なにか、夢というか熱望と言うか、人間の中から湧きあがってくる情緒がある。
 それこそ、私は生涯にわたって、惹かれ求めてきたのだった。( 『終わりの日々』2008年 3月3日(月))

▼ そして、フランスへ;高橋たか子の「憂鬱なる党派(?)」

さんざんフランスへの憧れを語り、日本にいることを忌避した高橋たか子は、まず日本で洗礼を受けカトリック信者となる。そして、ある神父の率いるあるセクトの修道女としてフランスに行く。1980年。そして、結果的にはそのセクトを辞めて日本に帰って来る。その事情を語ったのが、『私の通った路』。

本人は大真面目なのだけれども、はたから見ると、変な新興宗教に騙されて、おカネとられた人の話と読める。でも、おもしろいのが、この新セクトを率いるフランス人神父。高橋たか子はこの神父に「惚れて」いた。そして、高橋たか子がヨーロッパの美徳としていた強さ、憧憬への邁進などがこの神父の属性となっている。こういうカトリック神父は愚記事の「王と坊主の同床異夢の野望の果てに」に出てくる神父と同じだ。高橋たか子の本には aspiration (野心)が出てくる。

なお、この高橋たか子がこのセクト信心に没入の時代は、日本ではオウム真理教が生成、発展した時代だ。

▼ 住宅事情、鎌倉の家

高橋たか子の本には自分、あるいは自分たちが住んだ家について詳細が書かれている。1965年に買った家は500万円でバブル期に約1億で売ったとある。鎌倉の家は2軒で最初の家の向かいにもう1軒黒川紀章の設計で建てた(下画像の左上の六角形の屋根の家)。本には住所が書かれいる。ネットで見た;


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この項、後日、別ブログ記事にするかも/したい ⇒ 予定