いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

戦艦ミズーリでの降伏文書調印全権(重光・梅津)と随行員の人物同定と所属、役職、階級

2022年05月15日 10時59分15秒 | 日本事情

1945年 (昭和20年) 9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ号上で連合国に対する降伏文書の調印式は有名。下記、画像。大日本帝国の全権、重光葵外務大臣、梅津美治郎参謀総長の両名が参加し、調印した。戦艦ミズーリ号の甲板上には二人のみではなく、9名の随員がいた、計11人。この有名な写真について、写った人物のどの人が誰なのか、さらには、所属と役職を記した情報をひとまとめしたものを見ないので、つくった。

①重光葵 ②加瀬俊一 ③岡崎勝男  ④太田三郎  ⑤梅津美治郎 ⑥宮崎周一  ➆永井八津次  ⑧杉田一次  ⑨柴勝男 ⑩横山一郎 ⑪富岡定俊 所属 ①-④外務省、⑤-⑧陸軍、⑨-⑪海軍

なぜ、全権が二人なのか? 大日本帝国の建てつけとして、天皇の下に政府が並列していた。天皇を「代表して」降伏文書調印に調印する場合、政府と軍それぞれが天皇の代わりに署名しなければいけない。

政府
①重光葵 [外務大臣] (wikipedia) (全権)
外務省
②加瀬俊一 [情報部長](wikipedia)、③岡崎勝男 [終戦事務局長官] (wikipedia)、④太田三郎 [終戦事務局部長]

軍 統帥部
⑤梅津美治郎(wikipedia) (全権)
陸軍
⑥宮崎周一 [参謀本部第一部長、中将] (wikipedia) ➆永井八津次 [同少将] (wikipedia) ⑧杉田一次 [同大佐] (wikipedia)
海軍
⑨柴勝男 [軍令部 大佐] (wikipedia) ⑩横山一郎  [軍令部 少将] (wikipedia) ⑪富岡定俊 [軍令部 少将] (wikipedia)

■ 勅命

天皇の代わりに署名した重光と梅津は、天皇から直接、対面し、勅命を受けた。調印式の前日の9月1日。

重光は降伏文書調印という日本史上初の任務を前に、8月28日に伊勢神宮参拝。9月1日に宮中参内。『重光葵 手記』に書いてある;

 九月一日御召しによって宮中に参内、拝謁。左の如き勅語を賜った。

重光は明日大任を帯びて終戦文書に調印する次第で、其の苦哀は察するに余りあるが、調印の善後の処理は更に重要なものがあるから、充分自重せよ。

 世流に何が押されて早まった思ひつめた事のない様にとの優渥なる御諭しであったのである。恐らく梅津参謀総長の「自分に自殺を強いるものである」という語[言]葉が何時の間にか陛下の御耳に入ったものの様である。記者(重光)が退出した後に、梅津大将も召されて同様な勅語を賜はつた模様である。天恩無際、至れり尽くせりである。 (重光葵、『重光葵 手記』)

■ 随行員名簿

 集まるのは梅津全権の外、随員として外務省からは岡崎(勝男)終戦事務局長官、加瀬(俊一)情報部長(内閣情報局第三部長)、太田(三郎)終戦事務局長の三名、陸軍より参謀本部第一部長宮崎(周一)中将の外、陸軍省永井(八津次)少将及び杉田(一次)大佐、海軍から横山(一郎)、高(富)岡(定俊)両少将(柴勝男大佐帯同)であった。 (重光葵、『重光葵 手記』)


その他 気づいたこと

① 隠れる海軍

この写真をよくみると、梅津参謀総長と随員3名の陸軍4名は全員、写っている。しかし、海軍は、柴勝男だけである。

② 太田三郎の白服

正面からの写真では目立たないが、この鳥瞰的写真ではよく見える。太田三郎の白服。これは目だったのではないだろうか?重光をはじめ、外務省からの随員はモーニングにシルクハットの礼装であるのに、太田三郎の衣装。南の島にバカンスにでもいくのかよ、って感じ。これには理由があったとこの場にいた加瀬俊一が後に述している;

外務省の一行は、一人だけ別にして、モーニングにシルクハットの礼装だった。われわれは天皇を代表していたからだった。同僚の太田三郎が戦災でいっさいを焼かれていたために、仕方なく白い背広を着ていた。 『あの時「昭和」が変わった』 加瀬俊一

それにしても、戦災で一切を失ったのはお気の毒だが、外務省の仲間で誰かモーニングとシルクハットを貸してくれる人はいなかったのだろうか?

③ 終戦文書に調印

重光は手記で降伏文書とは書かず、終戦文書、終戦文書と書いている。

④ 大分県

天皇から面会して勅語を受けて、全権として調印した重光葵と梅津美治郎の二人は共に、大分県の出身である。