いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第263週

2019年11月23日 17時46分27秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週の武相境斜面

 ■ 今週の堀った井戸の管理、96歳

 
・「米国と中国は「冷戦の麓」にある、対立暴走は危険」-キッシンジャー氏 (google)

掘った井戸は古井戸となって、毒噴出ってとこか。


地獄への道の入り口だった??? 

関連記事:キャリアポルノ三昧;サオ師編、序説:: それはキッシンジャーの発案ではなかった

■ 今週の200年


https://www.google.com/doodles/200th-anniversary-of-museo-del-prado

内戦時のプラド美術館の様子の画像がネットにあった;


出典

1936年11月16日にマドリッドに落下した空爆のいくつかは、プラド美術館とその周辺地域を襲いました。この日付以前に博物館のスタッフが講じた予防措置により、建物内で影響を受けたのは16世紀のレリーフのみでしたが、建物自体の構造は近くの爆発、特に壁の爆発波の影響を受けました。

関連記事: プラド美術館のベラスケス門は、夜開く...


 ■ 今週のメモ; 大江健三郎の江藤淳批判  [1]

<1994-1996年>

 『大江健三郎 柄谷行人 全対話 世界と日本と日本人』(2018年、講談社)をみたら、大江は1994年-1996年の柄谷行人との対談で、江藤淳を批判しているとわかる。時期としては、1999年の江藤淳の自殺の3-5年前となる。
 大きな視点からの批判は1996年の対談、「戦後の文学の認識と方法 1996年5月21日」。そこに下記、書いてある;

 今から根本的に考えてみると、戦後文学は十分ではありませんけれども、小説家が小説を通じて、哲学者の認識、哲学者の自己表現に近づいていこうとした時代だったのではないだろうか。それに対して、江藤さんは特にそうですが、現在に至るまで批評家は哲学とは無関係に生きてきたのではないか。
 戦後五十年の中で意識的に批評家になろうとすれば、ほかの批評家、現在の批評家とはすっかり違った意識によって出発するか、あるいは、のんき坊主に先行者にならって出発するかの二つしかなかっただろうと思うんです。あなたの場合は、根本的に批評の役割を哲学と文学の間に見定めて、批評独自の世界を確立しようとしたということじゃないですか。

この大江の発言に対し柄谷は、「すばらしい言い方で、返答に窮します(笑)」と答えている。

 そこから振り返ってみると、もちろん僕はそういう批評家に教えられてきたわけで、裏切り者みたいな言い方になりますけれども、日本の批評家は、日本語と固有名詞に全面的に寄りかかっている、あるいはそれを手がかりにしていて、日本語と切り離すと普遍的な文学の問題は出てこないのみならず、なにひとつ進まないという仕事をずっとしてきたのじゃないか。戦前の批評家として小林秀雄がそうだし、戦後の批評家として、江藤淳など、もっぱら日本語の固有名詞、日本語の文学というものを検討してきた。普遍的な原理は考えないで来た。彼の本領は『荷風散策』ですよ。それが日本批評の一般的な形になってしまっていると思います。

注目すべきは「普遍的」という言葉。大江は、柄谷や自分は普遍的であるが、江藤淳はそうではないと批判している。

 さらに続いて大江は「その点、若い批評家がこれからつくり直していかなければいけない。四方田犬彦のような優秀な人に期待するほかない。」と言って、江藤は四方田犬彦のような若い優秀にとってかわられるべきだとの旨を述べている。大江は江藤批判するばかりでなく、柄谷や四方田に替わるべきだという言い方をしている。評論家・江藤淳の存在そのものを否定するかのごとくだ。これは後述する1967年の”けんか”の引きずりなんだろうか? それにしても大江はアリストテレスからデカルト、そしてスピノザと耽読し理論武装に励んでいると顕示している。 一方、世界共通語は英語であるより仕方がないと英語帝国主義を容認してもいる。この大江の世界観は冷戦後はじまり現在行き詰った「グローバリズム」の文化面でのイデオローグとなっていることを示す。

 一方、「中野重治のエチカ 1994年6月7日」 では、江藤淳が1989年に単行本化した『昭和の文人』の中野重治論に対し、江藤は中野を誤読しているでと批判している。

 このように考え進めてみると、やはり江藤淳がしたような中野重治に対する批判あるいは批判的な弁護は、原理的にも具体的な細部においても当たっていないことが明瞭になると思います。それは『村の家』を意識的に誤読したものだった、と思います。

<1967年>

 さて、大江健三郎と江藤淳は大江のデビューから10年ほどは文学活動を同伴していた。特に江藤は大江の『飼育』に感銘を受け、それ以来フォローしてきた。それが、1967年、大江の『万延元年のフットボール』を江藤が批判。「このままのかたちなら「万延元年」は存在しなくてもかまわない」という。その批判の理由は大江が『万延元年のフットボール』の登場人物に蜜三郎だの鷹四とか"変な名前"をつけている。これは読者に抵抗感をいだかせるものであり、その抵抗感を超えさせ自分の小説を読ませようとする大江の「党派性」と指摘。ここで、「党派性」とは抵抗感を超えて読む者どもとそうでない者どもを分けるという大江の意図。この意図に江藤は反発したらしい。両者のやりとりは対談「現代をどう生きるか」で読める。
 この対談では、「社会性」、「普遍」が評価基準となっていて、双方相手がそれらの基準に悖ると批判しあっている。例えば、大江は次のように言っている;1967年10月9日に行われた。対談の中に10・8羽田事件 [2] について激しいやりとりがあり、昨日の事件だと言っている。

 その言語の表現において、江藤さんが他者と見なしているものは、自分自身とすっかりちがった他者、対立物だろうか?もしそうだとすれば、それを自分でどれだけ許容できるかとういうことをつうじて、逆にその他者の他者性をどんどん大きくさせ強くするということは文学表現において最も大切なものだと思う。ぼくだって、たとえば蜜三郎という人物をなぜ健三郎と呼ばないかといえば、それは鷹四という他者をつくり上げていきたいと思うからです。しかしじつは江藤さんの、自分が許容していると思っている他者は、ほんとうは自分べったりの非他者です。それにもかかわらず、それを他者だと見くびったことを考えているために、自分自身の考え方に客観性があり普遍性があると容易に信じ過ぎてしまう。それがこんどの「一族再会」にしても、「アメリカと私」にしても、それらの根本的弱みをなしていると僕は思いますね。自分が一番ひねりやすいでくの坊をつくりあげて、それを他者だとかりに呼んでいるにすぎない。 (大江健三郎、江藤淳 対談「現代をどう生きるか」、1967年10月9日対談)

[1] 

江藤淳と大江健三郎の「絶交」は1967年10月9日の対談の頃に生じた。この対談は『江藤淳全対話〈2〉現代文学を生きる 』 (1974年)に入っている。でも、今、高い。今日、Amazonで、¥18.,862. でも大丈夫。横浜市立図書館から借りた。『大江健三郎 柄谷行人 全対話 世界と日本と日本人』もあわせて借りた。借りる前は、大江の江藤批判が載っているとは知らなかった。

[2] 関連記事:昭和の成仏のために;佐藤栄作訪米阻止・羽田空港闘争 - 1967

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