いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第51週

2025年03月15日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第51週

■ 今週のよその猫

■ 今週の筑豊境

■ 今週の花

■ 今週の訳なし

りんごが食べられる時期は「訳あり」りんごを箱買いする。でも、時期がずれると「訳あり」りんごが本当の「訳あり」となるので、バラで買っている。

■ 今週の購米(こうまい)google

大崎産だ。古川休塚(ふるかわやすみづか)[navigate]。


愚記事:大崎の復活 -仙台参り2006 ③-

■ 今週の武相境斜面

今週、3/12、3/13と東急・田園都市線の長津田駅、小田急・小田急線の玉川学園前駅で事故があり、不通となり、大混乱とのこと。こどもの国線まで運休


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■ 今週の「九州限定」

大切りカットのごぼう天ぷら入り。昆布と鰹節のだしにさば節を利かせた、九州向けのうどんつゆ。九州限定商品。東洋水産 web site

■ 今週の白物具材

ワンタンスープに豆腐。

■ 今週の揚げ物

 

かきフライ(左)、とりの唐揚げ

■ 今週の変わらない文言


愚記事より

三島由紀夫の1963年の小説『午後の曳航』で、処刑されるため少年たちに曳かれてきた二等航海士が辿り着くのは、「レコンキスタ」区域であった。すなわち、横浜市金沢区の現在富岡総合公園であると推定される。


google map   敗戦前は「杉田兵器工場」[1]であり、米軍に接収され、1958年5月12日に返還(ソース)。
[1] 関連情報

その米軍から返還された区域での情景:

 草地を渡る。落葉に充ちた小径が丘の尾根に通じている。右方に、鉄条網にかこまれた錆びたタンクが草に埋もれ、英字を書いたブリキ板の一つ一つの釘の凹みから赤く錆びだした立札が傾いていた。竜二は立止ってその立札を読んだ。
US FORCES INSTALLATION
UNAUTHORITEZ ENTRY IS PROHIBITED AND
IS PUNISHABLE UNDER JAPANESE LAW ........
「パニシャブルってなあに?」
(三島由紀夫、『午後の曳航』)

この場面は1963年頃の話。上の米軍の看板は2024年。文言は(and ➡ & 意外)変わらないのだ。

■ 今週借りて読んだ本


三島由紀夫、『午後の曳航』。解説は田中美代子[wiki]。
解説文は1968年(すなわち、三島の生前)。


持ってる三島の文庫と並べてみると、真新しさがわかる。それにしても『鏡子の家』の漂白具合がすごい。

三島由紀夫、『午後の曳航』は、書き下ろし作品。1963年刊行。『美しい星』1962年(愚記事)の後の作品。処刑小説。13歳の少年グループが33歳の『午後の曳航』を殺害するのだ。その殺害には13歳の少年グループの言い分がある。この言い分を三島は何か深遠な思想のごとく描く。なお、この時代にはもちろんそういう言葉ないが、13歳の少年と云えば中二病の発症年齢である。13歳の少年が自ら頼むところ頗る篤いのはいいとして、彼らの父親の存在を呪詛する。

三島の主要な作品をなるべく読んだ後に、三島について語る評論を読めば、先入観なく作品をみることができるのだが、そうもいかない。『午後の曳航』については、思いっきり先入観を刷り込まれた。天皇処刑。各評論では「天皇処刑」という言葉は使っていないが、『午後の曳航』の二等航海士・塚崎竜二は昭和天皇の隠喩なのだという考えが出されている。作品の中で塚崎が殺される理由は、塚崎が少年、登を裏切ったからだという。登は黒田房子31歳の息子。房子の夫、登の父は5年前に死去。夏、未亡人房子と二等航海士・塚崎が舞台の横浜で出会い、すぐ寝る。冬、夏の後の航海から帰り、二人は結婚する。

・鍵語句:裏切

「ところでこの塚崎竜二という男は、僕たちみんなにとっては大した存在じゃなかったが、三号にとっては、一かどの存在だった。少なくとも彼は三号の目に、僕がつねづね言う世界の内的関聯の光輝ある証拠を見せた、という功績がある。だけど、そのあとで彼は三号をひどく裏切った。地上で一番わるいもの、つまり父親になった。」(強調、いか@)

三島作品の中で「裏切り」と言えばこれである;

「われらは裏切られた者たちの霊だ」(『英霊の聲』)

『英霊の聲』で兵士たちを裏切ったのは、昭和天皇に他ならない。ただし、もちろん、『英霊の聲』では天皇の処刑などという話にはならない。でも、『午後の曳航』では、裏切り者は殺される。

・裏切りの内容

 『午後の曳航』で二等航海士・塚崎竜二は何を裏切ったのか?

 それなのに、こんな不幸な思いがけない出会のおかげで、二等航海士はびしょ濡れの半袖シャツの哀れな姿をさらけ出し、しかも登に対して、へつらうように、不必要な笑いをした。その笑いは全く不要だった。それは登を子供扱いにして貶めるばかりではなく、竜二自身をも、「子供好きの大人」のみっともない戯画に変えてしまうものだった。彼の明かるすぎる、子供むきの大仰な笑い、あれは全く不必要な、けしからん誤謬であった。(第1部 夏、第6章)

こういう↓イメージ(へつらうように、不必要な笑いをした)ではないか!(?)


愚記事:昭和の成仏のために:横浜市立稲荷台小学校、元戦災者共同住宅、昭和天皇、戦後巡幸第1日目 より

三島は戦後の皇室の在り方に批判的であった。「今の陛下は自分が考える陛下とは違う」と言明している。そして、戦後皇室の在り方の指南役(プランナー)とされる小泉信三を激しく非難している。三島が戦後の皇室に対し不満に思っていることは、端的に「国民に愛される皇室を懸命に努力して実現しようとする態度」に違いない。阿っているようで、嫌なのだろう。

・二等航海士・塚崎竜二=昭和天皇だけではない、二等航海士・塚崎竜二=三島自身

話は複雑で、単純に塚崎=昭和天皇とだけとはいいがたい。なぜなら、二等航海士・塚崎竜二の履歴が下記の設定となっているからだ。すなわち、「母正子は当人十歳のとき死亡、父始は、東京都葛飾区役所に勤務、その後再婚せずして、児女の愛育に専心し、生家は昭和二十年三月の空襲で焼失、妹淑子は同年五月に発疹チフスで死亡、本人は商船高校卒業......」とある。ここで目を引くのが、「妹淑子は同年五月に発疹チフスで死亡」に他ならない。三島愛好家(マニア)なら誰でも知っていること。三島自身、敗戦時に妹を発疹チフスで失っている。三島は回顧で敗戦よりも妹の死が衝撃であったと述べていたかと思う。号泣したとある。三島の自伝、回顧で号泣したなぞこれ以外知らない。つまり、妹の死は三島の重大な属性であり、それを二等航海士・塚崎竜二に刻印したのだ。これはもう、二等航海士・塚崎竜二=三島自身だろう。そして、二等航海士・塚崎竜二は処刑される。これは、自己処刑の話なのだ。とおいらは自分で気づいたのだが、当然といえば当然、指摘している人がいた。日沼倫太郎(➡wiki)。

二等航海士・塚崎竜二は「聖なる」仕事の海の男=家庭なし・生活感なしから、陸の俗人になる。その陸の俗人になる「研修」で(航海用の英語ではない)英語のレッスンがある。これはさんざん英語、話す英語を訓練した三島を思い起こさせる。そして、結婚。三島も若いころは女性との結婚に難儀を感じていた。そして、お金。この作品では二等航海士・塚崎竜二が200万円(現在の価値で3-4000万円)を持っていることを根拠に陸の俗人になることの追い風にしている。貯金という「いじましい」ものに頼る俗物性。これはなんだかんだいっても三島が作家活動をお金を手段に快活に送れたことの自己批評だろう。日沼倫太郎の指摘する「三島氏の青春の完璧な死」と陸の俗人になった自己処罰であると考えられる。そもそも「父」になったし。

・覗き

三島由紀夫は覗きが好きだ。作家さんで覗きが好きな人は多いのだろうか?寺山修司とか。もっとも、三島が実際にやっていた証拠は知らない。でも、三島の代表作『豊饒の海』の本多繁邦は覗き屋だ。そして、『午後の曳航』では13歳の登が覗き屋だ。覗きができるにはからくりが必要だ。『豊饒の海』でも『午後の曳航』でも除きができる建築上のからくりが詳細に書かれている。特に、お伽噺的、童話的ともいわれるこの『午後の曳航』で、覗きができる仕組みは現実性がある。しかも、興味深いのは、おそらく、占領米軍兵士/家族が、この家を接収しているとき同様のことをやっていたに違いないとすることだ。

・戦災、占領、接収、接収解除返還地区

『午後の曳航』において三島が二等航海士・塚崎竜二を30歳過ぎまで結婚せず、子供を持たない、すなわち家庭を持たない人物として設定した。その背景が暗示される。すなわち、彼が戦災受難者であるという設定にしている。米軍の空爆で家を失った。家族は戦災で失った設定にはしていないが、母を失い、妹を病気で失う(上述)。これは下記三島の回想で述べられた戦災がもたらす虚無感を背景とするのはないか?

戦後十七年を経たというのに、未だに私にとって、現実が確固たるものに見えず、仮りの、一時的な姿に見えがちなのも、私の持って生まれた性向だと言えばそれまでだが、明日にでも空襲で壊滅するかもしれず、事実、空襲のおかげで昨日在ったものは今日ないような時代の、強烈な印象は、十七年ぐらいではなかなか消えないものらしい。(三島由紀夫、『私の遍歴時代』)

 『午後の曳航』の舞台は横浜の山手の谷戸坂上にある黒田房子の家という設定である。その家にはモデルがあるのだという。

モデルとなった家の写真が、「決定版三島由紀夫全集9」の最後の田中美代子氏の解説に掲載されていました。その説明によると「昭和38年4月、横浜・港の見える丘公園。正面奥の洋館が「午後の曳航」黒田邸のモデルとなった家」とあります。(阪急・阪神沿線文学散歩 さま、 「午後の曳航」山手町谷戸坂上の黒田邸

現在この場所は、大仏次郎記念館。『午後の曳航』ではこの家は敗戦後、占領軍に接収され、占領軍関係者が、複数家族が住んでいたという設定である。敗戦と占領が作品に組み込まれている。そして、接収解除返還後がこの作品の時代である。占領について、三島の作品にしばしば認められることである。そして、二等航海士・塚崎竜二が処刑されるのが、接収解除返還地区ということになっている。これは何か意味があるのかわからない。『午後の曳航』では、現在の横浜市金沢区の現在富岡総合公園付近が舞台となる。なお、三島の作品で『午後の曳航』に先立つ『鏡子の家』(愚記事)の舞台の家も占領軍に接収されたという設定になっている。すなわち、占領軍が住んでもいいと思うような家、すなわち、大きな洋館が三島の作品には採用される。

・団塊の世代の凶暴性の予言? ただし、父殺しは皆無だった現実

この『午後の曳航』の時代設定は明確には限定できない。しかし、出版された1963年頃、あるいは作品が書かれた1961-2年頃としてよいだろう。すると、処刑を画策する14歳の少年たちは戦後のベビーブームに生まれた団塊の世代ということになる。後に14歳ではなく、18歳を過ぎて、大学、あるいは街頭での「新左翼」破壊活動に従事する人たちだ。ただし、彼らは、戦争に行って帰ってきた復員兵である、あるいは、「日帝侵略兵士」であった実父たちを処刑することはなかった(愚記事:団塊=復員兵の子供たち、あるいは、few J-children sing, what did you kill ?)。この点、三島の「予言」は外れた。