いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第39週

2024年12月21日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第39週

■ 今週のよその猫

■ 今週の草木花実

■ 今週の鬼

鬼柚子(おにゆず)は、獅子柚子(ししゆず)とも呼ばれ、文旦の亜種に属する柑橘類です。主に九州地方で栽培されており、濃厚な香りが特徴です。google

■ 今週の丼

りゅうきゅう丼

りゅうきゅうは、大分県を代表する郷土料理で、アジやサバ、ブリ、カンパチなどの魚の切り身を醤油、酒、みりん、ごま、しょうがなどで作ったタレに漬け込んだ料理です。薬味にはネギやワサビが添えられることが多く、酒の肴や丼飯に載せて食べられます。google

■ 今週の泉都
 
別府市 鉄輪(かんなわ)温泉
 
■ 今週の田園に架ける
 
 
■ 今週の郷土料理:やせうま
 
 
やせうま:やせうまは、大分県を代表する郷土料理で、小麦粉を練ってひも状にのばし、ゆでた後にきな粉や砂糖をまぶして食べるおやつです。google
 
■ 今週のオブジェ
 
 
ぶんぶん童子:「ぶんぶん童子」は奈良のせんとくんをデザインした薮内佐斗司氏が制作した作品です大分駅のキモかわオブジェ !改札口にある昆虫のせんとくん【大分市】
 
■ 今週の展示
 
 
 
大分県立美術館
 
■ 今週のレコンキスタ史跡探訪(現、別府公園)
 

元は1907年(明治40年)10月に完成した公園である。現在の公園の南側一帯が、当時の別府公園であり、現在の市営テニスコートや元・青山幼稚園などに位置していた。完成直後の11月7日には皇太子時代の大正天皇が巡幸している[2]。1928年(昭和3年)の中外産業博覧会、1937年(昭和12年)の別府国際温泉観光大博覧会は、いずれも別府公園を主会場として開催された。

しかし、第二次世界大戦後に接収されて駐留米軍のキャンプ(キャンプ・チッカマウガ。チッカマウガはチカマウガ戦争で知られるインディアンの呼称。)となり、1957年(昭和32年)に日本に返還された後も、引き続き陸上自衛隊別府駐屯地として使用された。wiki

 
 
 
 
さて、このツリーは「正の遺産」なのか?、「負の遺産」なのか? どちらなのだろう?
 
 
別府公園
 
下の地図での「下士官宿舎」、「将校宿舎」の方面
 
 
■ 今週の気づき:進駐軍はお熱いのがお嫌い?(Some dislike it hot?)
 
 
1922年7月より研究所本館の建設工事が始まり、翌1923年12月竣工、明けて1924年1月26日より別府地域の予備調査と事務が開始されました。日本での地球科学的温泉研究のあゆみ(5)
 
1923年にできたこの京大の附属研究所の建物は、敗戦時にもあった。つまり、米占領軍が別府に進駐して来たとき、あった。でも接収されなかった(ようだ)。事実当時の地図を見ると京大施設ととなりの建物(現市立美術館、当時おそらく旧制中学?)は接収されていないようだ。なお、上のキャンプ・チッカマウガのポンチ絵地図はその部分は不正確である。
 
つまり、現京大熱学研究所は米軍に接収されなかった。これは、北大の低温研が進駐軍に接収されたことと対照的である。愚記事:敗戦後、1946年、札幌に進駐した米陸軍、第11空挺師団の演習場所:札幌飛行場、羊ヶ丘、あるいは、接収された北大。北大の低温研を接収し駐屯した米軍部隊のひとつが米陸軍第187空挺歩兵連隊(第11空挺師団)である。朝鮮戦争前に米国に帰り、朝鮮戦争後に別府に進駐/「帰還」した。進駐/「帰還」先がキャンプ・チッカマウガ。米陸軍第187空挺歩兵連隊は低温研は接収したが、熱学研は接収しなかったのだ。進駐軍はお熱いのが嫌い?
 
北大低温研。
 
敗戦で北海道大学(北大)は接収されたのだ。あんまり、知らなかった。はっきりした資料があった。北大の低温研は敗戦後、1945年10月3日に接収された。「48時間以内に出ていけ」と通告されたのだという。低温研の所長はあの中谷宇吉郎 [wiki]だ。愚記事
 
■ 今週の訃報
 
渡辺恒雄死去(google
 
愚記事:「代々木の隠しだま
 
ネット情報によると、歴代内閣の官房長官は月に一度、渡辺恒雄に政情説明を読売新聞本社に出向き、実施していたとのこと。渡辺恒雄のマスコミと政治の癒着は周知であるのに読売新聞以外のメディアは何も批判しなかった。これは日本にjournalismがないことの証左である。渡辺恒雄もジャニー喜多川もマスコミのだんまりで安泰として死を迎えた。
 
強烈な体験がその後の一生を決めてしまうのは起こりうることである。同情するしかない。渡辺恒雄は東大生として兵役に従事し、受難したことが、その後の渡辺恒雄をつくったのは有名な話だ。「軍国日本」を呪詛することとなる。インテリさまの自尊心を踏みにじって [1]、かつ、生かして返すと、後でとんでもない復讐を受けるよい例だ。戦後はこういう「傷つけられた自尊心(自己愛!)」をもつインテリさまたちが「日本」に復讐をし続けた時代であった。
 
[1] どっかで読んだ気がするのだが、東大のナベツネを殴ったのは早大の兵隊であったと。フミオか!
 
この渡辺恒雄に代表される兵役経験による受難を受けた人を参照として見るべき人は、渡辺恒雄より1歳年上の三島由紀夫である。もし、三島由紀夫が兵隊に行ってたら、三島のその後はどうなったであろう?
 
この人たち↓は、三島事件について、「あいつは戦争を知らないんだよ」と了解していたのだろう。
 
世代の昭和史 「戦争要員世代」と「少国民世代」からの告発

■ 今週のキリ番
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