9月の連休に都内新宿区中井の林芙美子記念館(旧林芙美子邸宅)に行った。現在(10/6まで)、催している「戦時下の芙美子」を見にいくためだ。この旧林芙美子邸に来たのは二度目だ。最初は、今年四月(愚記事:▼49;新宿区立 林芙美子記念館)。この時点でおいらは林芙美子の作品の一行も読んだことがなかった。知っていたことはあの南京陥落直後の占領に居合わせた人物であること。昭和史論争での「南京大虐殺あった、なかった」論争に、虐殺なんてみていない者として名前が見える。そして、この時点では思い出せなかったが、佐藤卓己、『言論統制 情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』に林芙美子は写真入りで出ていた(関連愚記事:①鈴木庫三さんの見た筑波山、②鈴木庫三(2))。
林芙美子記念館 アトリエ展示室、石蔵ギャラリー展示 「戦時下の芙美子」(7月1日~開催)
5月から半年あまりで林芙美子の作品をいくばくか読んだ。この催しものも「戦時下の芙美子」であるが、おいらにとって林芙美子は戦争の女(ひと)である。もうひとつは、林芙美子は旅の女。その林芙美子と戦争との出会いは事実上の処女作の『放浪記』に「デルフォイの神託」を芙美子が受けるところから始まっている。芙美子へ未来を暗示するのは指のない淫売婦。そして、林芙美子の最後は自己処刑であることは愚記事(『浮雲』を読んだ。この作品が林芙美子の「自己処刑」の話だとわかる。 )で書いた。さて、林芙美子の最初の作品に現れる「デルフォイの神託」はこうである(なおこの文章は『放浪記』の最新版=初出ではない);
――そのころ、指の無い淫売婦だけは、いつも元気で酒を呑んでいた。 「戦争でも始まるとよかな。」 この淫売婦の持論はいつも戦争の話だった。この世の中が、ひっくりかえるようになるといいと云った。炭坑にうんと金が流れて来るといいと云っていた。 (『放浪記』)
『放浪記』が改造社から出版されたのは1930年(昭和5年)、昭和恐慌の時代。満州事変(現在反省すべきとされる「侵略戦争と植民地支配」はまだ始まっていない)。「戦争でも始まるとよかな。」という神託を処女作で埋め込んだ林芙美子は支那事変を経て日々進む日帝膨張の最前線の行軍に参加した。ちなみに、芙美子は酒が大好きだった。そして、実際に、世の中がひっくり返った。しかも、ひっくり返るばかりでなく、「人がどんどん死ぬ」、「此世の中が、煮えくり返るやうになる」[1]結果となった。その破局の後、芙美子は、日本、特に東京の敗戦状況を描いた。そして、自己処刑小説を書いたら、本当に、48歳で死んだ(上記リンク愚記事を参考)。
[1] 1930年(昭和5年)に改造社から新鋭文学叢書の『放浪記』はこう書いてある。 (林芙美子、『放浪記』は再三書き換えられていて、その経年の異同が研究対象となり、研究結果が発表されている(例えば、森英一、『放浪記』論 その基礎的研究)。)
此淫売婦の持論は、いつも戦争の話だった。
人がどんどん死ぬのが気味がいいと云った。
此世の中が、煮えくり返るやうになるといいと云った。
炭坑にうんと金が流れて来るといいと云った。
林芙美子の支那での従軍体験に基づく文学は、かの地では侵華文学と呼ばれている。⇒陳 亜雪、「林芙美子の南京視察旅行」
「侵華」=「侵华」。典型的には、日本侵华战争というふうに用いられる(google)、大日本帝国による1930年代から1945年までの支那大陸での軍事行動のことである。お華畑を踏みにじった東夷日帝による戦争のことだ。日帝=東夷は、世界の中心でありこの世の華である我らを「侵」(おか)すというとんでもないこと=地球史上最極悪のことをしたのだ!というお支那さまの認識に基づく言葉だ。(愚記事)
さて、林芙美子といえば、「花のいのちは短くて、苦しきことのみ多かりき」。
▼ 芙美子は戦場に行った。
そんな彼女は、侵華文学者。
彼女は、書いた;
何度となく支那兵の死體の上を乗り超えて行きました。
支那兵の屍を乗り越えて、漢口に乗り込んだんだよ、林芙美子。
林芙美子は、戦争の使命を語る;
ねえ、この戦争の使命は、老いたる大陸に一つの新しいバイブレイションを捲きおこすのですよ。兵隊は実に元気です。
(愚記事; ある戦争画: 藤田嗣治の肖像素描画;「戦場の女」@最初 )
当時の日帝が近衛師団と第七師団(旭川)以外の全ての師団を動員した大戦争、コードネーム:「暴支膺懲」作戦は、お「華」畑を踏みにじれ切れなかったのだ(愚記事:大日本帝国は失敗し、敗残したのだ)。やつらは、しぶとかったのだ。
やはり、花と華は違うのか?
華のいのちはしぶとくて。
そして、今年、やつらは、寿いだ。 抗日勝利70年軍事パレード! 華のいのちはしぶとくて。
▼いまじゃ侵華文学者とされちまっているお芙美さん。でも、元来 sino-philia なのだ。例えば、お芙美はこう言っている;
私は北京がほんとうに好きだ。悠々として余韻のある都会だから。 (「北京紀行」、1936年)
「兵隊さんが好きです」と云った芙美子は、北京だって好きだったのだ(参考愚記事;1936年北京、中秋の月の下; 林芙美子と老舎のすれ違い )。そして、魯迅にも二度も会っている(愚記事)。好きなものが多いのだ。多情な女、お芙美!
■ 林芙美子記念館、「戦時下の芙美子」
肝心の「戦時下の芙美子」展ですが、パネルでのプレゼン。下記の表題で写真を中心に示されていた。
「女流一番乗り」
「武漢陥落戦況報告講演会」
「視察・慰問活動」
「南方視察」
「沈黙を守る 疎開」
おいらが、印象深かったのが下記3点;
1.林芙美子の講演活動;林芙美子は従軍作文を販売することだけでなく、講演会で直接日帝臣民に戦況を報告していた。特にすごいと思ったのが、大ホール、現在の視点からみても大型コンサートホールの堂に満ちた日帝臣民に講演している林芙美子の姿。彼女は書くひとばかりでなく、しゃべる人でもあったのだ。しかも大勢の人の前でものおじすることなく。なお、林芙美子の戦後の音声が残っているが声もよい。なにより、しゃべっている論旨も明快で、この点はすごいと思った。つまり、お芙美さまこそ、とっくに、"「話して考える」と「書いて考える」"の人なのである。誰だよ!?、パクってるのは。さらには、歩いて考える、旅して考える、お芙美。もっとすごいのは、渡邊一夫に「パリへきて寝込んでいるくらいなら死んでしまいなさい」と御見舞いされたことだ。
2.霞ヶ浦航空隊にも来ていたこと。 おいらの極私的関心。筑波山麓-霞ヶ浦湖畔にいたから。
3.大東亜戦争時のインドネシア滞在の写真があったこと。