いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

近衛文麿、『英米本位の平和を排す』 全文

2014年02月23日 12時48分48秒 | 日本事情

1918年(大正7)、雑誌『日本及日本人』に掲載された、 近衛文麿、『英米本位の平和を排す』 全文をコピペ。なお[ ]はコピー元テキストでのふりがな。

載せる理由やこの論文についてはここに書くと予断を与えるので、末に書いた。


『英米本位の平和主義を排す

 戦後の世界に民主主義人道主義の思想が益々旺盛となるべきは最早否定すべからざる事実というべく、我国亦世界の中に国する以上此思想の影響を免かるる能わざるは当然の事理に属す。
 蓋し民主主義と言ひ人道主義と言ひ其基く所は実に人間の平等感にあり。之を国内的に見れば民権自由の論となり、之を国際的に見れば各国平等生存権の主張となる。平等とは個人若[もし]くは国民的差別を払拭するの意に非ず、個人としては其個性を、国民としては其国民性を十分に発揮せしむるに当り、之が障害となるべき一切の社会上の欠陥、例之政治上の特権経済上の独占の如きものを排除して以て其個性若くは国民性の発揮に対する機会を均等ならしむるの意なり。かくの如き平等感は人間道徳の永遠普遍なる根本原理にして、所謂古今に通じて謝らず中外に施して悖らざるものなり。固陋の徒或は平等の語を聞きて我国体に反するが如く考ふると雖も、我国体の観念は此人類共通の根本的倫理観念を容るる能はざる程しかく偏狭のものに非ずと信ず。
 何はともあれ、民主主義人道主義の傾向を善導して之が発達を期するは我国の為にも吾人の最も希望する事なるが、唯茲[ここ]に吾人の遺憾に思ふ我国民がとかく英米人の言語に呑まるゝ傾ありて彼等の言ふ民主主義人道主義の如きをも其儘[まま]割引もせず吟味もせずに信仰謳歌する事是[これ]なり。勿論吾人は英米政治家の云為[うんゐ]を全部誠意なきものとなすに非ず。ウヰルソンの如き、ロイド・ジョージの如きは、真摯熱誠なる人道の愛護者なるを認むるに躊躇せずと雖、世には善良なる人にして自ら意識せずに虚偽を為す事あり。動機に於いて純なるも結果より見て不純なりしを曝露する事往々にしてこれあり。況や蠢々[しゅんしゅん]たる他の群小政治家・評論家・新聞記者の言動に於てをや。
 曾[かつ]てバーナード・ショウは其「運命と人」の中に於てナポレオンの口を藉[か]りて英国精神を批評せしめて曰く「英国人は自己の欲望を表すに当り道徳的宗教的感情を以てする事に妙を得たり。しかも自己の野心を神聖化して発表したる上は何処迄も其目的を貫徹するの決断力を有す。強盗掠奪を敢てしながらいかなる場合にも道徳的口実を失わず、自由と独立を宣伝しながら殖民地の名の下に天下の半を割[さ]いて其利益を壟断しつゝあり」と。ショウの言う所稍奇矯に過ぐと雖、英国殖民史を読む者は此言の少くも半面の真理を穿てるものなることを首肯すべし。
 吾人は我国近時の論壇が英米政治家の花々しき宣言に魅了せられて、彼等の所謂民主主義人道主義の背後に潜める多くの自覚せざる又は自覚せる利己主義を洞察し得ず、自ら日本人たる立場を忘れて、無条件的無批判的に英米本位の国際聯盟を謳歌し、却つて之を以て正義人道に合すと考えふるが如き趣あるを見て甚だ陋態[ろうたい]なりと信じるものなり。吾人は日本人本位に考へざる可からず。日本人本位とは日本人さへよければ他国はどうでもかまはぬと言ふ利己主義に非ず。斯る利己主義は誠に人道の敵にして、戦後の新世界に通用せざる旧思想なり。吾人の日本人本位に考へよとは、日本人の正当なる生存権を確認し、此権利に対し不当不正なる圧迫をなすものある場合には、飽く迄も之と争ふの覚悟なかる可[べか]らずと言ふ也。これ取りも直さず正義人道の命ずる所なり。自己の正当なる生存権を蹂躙せられつゝも尚平和に執着するはこれ人道主義の敵なり。平和主義と人道主義とは必しも一致せず、吾人は人道の為に時に平和を捨てざる可らず。英米論者は平和人道と一口に言ひ、我国にも之に倣[なら]ひて平和人道也とする迷信家あれど、英米人の平和は自己に都合よき現状維持にして之に人道の美名を冠したるもの、ショウの所謂自己の野心を神聖化したるものに外ならず。彼等の宣言演説を見るに皆曰く、世界の平和を攪乱したるものは独逸[ドイツ]の専制主義軍国主義なり、彼等は人道の敵なり、吾人は正義人道の為に之を膺懲[ようちょう]せざる可らず、即ち今次の戦争は専制主義軍国主義に対する民主主義人道主義の戦なり、暴力と正義の争なり、善と悪との争なりと。吾人と雖、今次戦争の主動原因が独逸にありし事即ち独逸が平和の攪乱者なる事は之を認むるのみならず、戦争中に於ける独逸の行動が正義人道を無視したる暴虐残忍の振舞多かりし事に対しては深甚の憎悪を禁ずる能はざるものにして、英米の論者が是等の暴力的行動を罵るは誠に当然なりと思考するものなれど、彼等が平和の攪乱者を直に正義人道の敵なりとなす老獪なる論法に対しては其の根拠に於て大に不服なきを得ず、平和を攪乱したる独逸が人道の敵なりとは欧州戦前の状態が人道正義より見て最善の状態なりし事を前提として初めて言ひ得る事なり。知らず、欧州戦前の状態が最善の状態にして、此状態を破るものは人類の敵として膺懲すべしとは何人[なんぴと]の定めたることなりや。
 吾人を以て之を見る、欧州戦乱は已成の強国と未成の強国との争いなり、現状維持を便利とする国と現状打破を便利とする国との争なり。現状維持を便利とする国は平和を叫び、現状打破を便利とする国は戦争を唱ふ。平和主義なる故に必しも正義人道に叶ふに非ず軍国主義なる故に必しも正義人道に反するに非ず。要は只其現状なるものゝ如何にあり。もし戦前の現状にして正義人道に合する最善の状態なりしならば、之を打破せんとするものは正義人道の敵なるべく、もし其現状にして正義人道に叶はざりしならば、此現状を打破したるもの必しも正義人道の敵に非ざると同時に、此現状を維持せんし平和主義の国必しも正義人道の味方として誇るの資格なし。而して欧州戦前の現状なるもの之を英米より見れば或は最善の状態なりしならんも、公平に第三者として正義人道の上より之を見れば決して最善の状態を身と無るを得ず。英国の如き仏国の如き其殖民史の示す如く、早く已[すで]に世界の劣等文明地方を占領して之を殖民地となし、其利益を独占して憚らざりしが故に、独り独逸とのみ言わず、凡ての後進国は獲得すべき土地なく膨張発展すべき余地を見出す能はざる状態にありしなり。かくの如き状態は実に人類機会均等の原則に悖り、各国民の平等生存権を脅かすものにして正義人道に背反するの甚しきものなり。独逸が此状態を打破せんとしたるは誠に正当の要求と言ふべく、只彼が採りし手段の中正穏健を欠き、武力本位の軍国主義なりしが故に一世の指弾を受けたりと雖、吾人は彼が事茲に至らざるを得ざりし境遇に対しては特に日本人として深厚の同情なきを得ず。
 要之[これをようするに]英米の平和主義は現状維持を便利とするものゝ唱ふる事勿れ主義にして何等正義人道主義と関係なきものになるに拘らず、我国論者が彼等の宣言の美辞に酔うて平和即人道と心得其国際的地位よりすれば、寧ろ独逸と同じく現状の打破を唱ふべき筈の日本に居りながら、英米本位の平和主義にかぶれ国際聯盟を天来の福音の如く渇仰するの態度あるは、実に卑屈千万にして正義人道より見て蛇蝎視すべきものなり。吾人は固[もと]より妄りに国際聯盟に反対するものに非ず。もし此連盟にして真実の意味における正義人道の観念に基きて組織せらるるとせば、人類の幸福の為にも、双手を挙げて其成立を祝するに吝[やぶさか]なるものに非ずと雖、此聯盟は動[やや]もすれば大国をして経済的に小国を併呑せしめ、後進国をして永遠に先進国の後輩を排せしむるの事態を呈する恐れなしとせず。即ち此聯盟による所なきのみならず、益々経済的に委縮すと言ふ如き場合に立至らんか、日本の立場よりしても正義人道の見地よりしても誠に忍ぶ可らざる事なり。故に来るべき講和会議に於て国際平和聯盟に加入するに当り少くとも日本として主張せざる可らざる先決問題は、経済的帝国主義の排斥と黄白人の無差別的待遇是なり。蓋し正義人道を害するものは独り軍国主義のみに限らず。世界は独逸の敗北によりて硝煙爆雨の間より救はれたりと雖、国民平等の生存権を脅かすもの何ぞ一に武力のみならんや。
 吾人は黄金を以てする侵略、富力を以てする征服あるを知らざる可らず。即ち巨大なる資本と豊富なる天然資源を独占し、刃に血塗らずして他国々民の自由なる発展を抑圧し、以て自ら利せんとする経済的帝国主義は武力的帝国主義否認と同一の精神よりして当然否認せらるるべきものなり。
 吾人は戦後大に其経済的帝国主義の鋒鋩[ほうぼう]露はし来るの恐れある英米両国を立役者とする来るべき講和会議に於て、この経済的帝国主義の跋扈を抑圧し得ずとせんか、此戦争によりて最も多くを利したる英米は一躍して経済的世界統一者となり、国際聯盟軍備制限と言ふ如き自己に好都合なる現状維持の旗織を立てて世界に君臨すべく、爾余の諸国、如何に之を凌がんとするも、武器を取上げられては其反感憤怒の情を晴らすの途なくして、恰もかの柔順なる羊群の如く喘々焉[ぜんぜんえん]として英米の後に随ふの外なきに至らむ。英国の如き早くも已に自給自足の政策を高唱し、各殖民地の門戸を他国に対して閉鎖せんとする論盛んなり。英米両国の言ふ所との矛盾撞着せる概ね斯[かく]の如し。吾人が英米謳歌者を警戒する所以、亦[また]実に茲にあり、もしそれかくの如き政策の行われんか、我国にとりては申す迄もなく非常なる経済上の打撃なり。領土狭くして原料品に乏しく、又人口も多からずして製造工業品市場として貧弱なる我国は、英国が其殖民地を閉鎖するの暁に於て、如何にして国家の安全なる生存を完うするを得む。即ちかゝる場合には我国も亦自己生存の必要上戦前の独逸の如くに現状打破の挙に出でざるを得ざるに至らしむ。而して如斯[かくのごとき]は独り我国のみならず、領土狭くして殖民地を有せざる後進諸国の等しく陥れらるべき運命なりとすれば、吾人は単に我国の為のみならず、正義人道に基く世界各国民平等生存権の確立の為にも、経済的帝国主義を排して各国をして其殖民地主義を開放せしめ、製造工業品の市場としても、天然資源の供給地としても、之を各国平等の使用に供し、自国にのみ独占するが如き事なからしむるを要す。次に特に日本人の立場よりして主張すべきは黄色人の差別的待遇の撤廃なり。かの合衆国を初め英国殖民地たる豪州加奈陀[カナダ]等が白人に対して門戸を開放しながら、日本人初め一般黄人を劣等視して之を排斥しつゝあるは今更事新しく喋々する迄もなく、我国民の夙[つと]に憤慨しつつある所なり。黄人と見れば凡ての職業に就くを妨害し、家屋耕地の貸付をなささざるのみならず、甚しきはホテルに一夜の宿を求むるにも白人の保証人を要する所ありと言ふに至りては、人道上由々しき問題にして、仮令[たとひ]黄人ならずとも、苟[いやしく]も正義の士の黙視すべからざる所なり。即ち吾人は来るべき講和会議に於て英米人をして深く其前非を悔いて傲慢無礼の態度を改めしめ、黄人に対して設くる入国制限の撤廃は勿論、黄人に対する差別的待遇を規定せる一切の法令の改正を正義人道の上より主張せざる可ならず。想ふに、来るべき講和会議は人類が正義人道に基く世界改造の事業に堪ふるや否やの一大試練なり。我国亦宜しく妄りにかの英米本位の平和主義に耳を籍す事なく、真実の意味に於ける正義人道の本旨をて体して其主張の貫徹に力[つと]むる所あらんか、正義の勇士として人類史上永[とこし]へに其光栄を謳はれむ。
(大正七年十一月三日夜誌す)
(『日本及日本人』 1918年12月15日号)

 


近衛文麿、『英米本位の平和を排す』 という論文がある。近衛文麿の伝記では必ずその一部が引用される。『英米本位の平和を排す』というコピーはその後の米英撃滅戦争に突入し、瓦解した大日本帝国の方針の嚆矢ではないかと人々に思わせる。この『英米本位の平和を排す』のテキストをネット上で探してみた。おいらの努力の限りでは見つけることができなかった。なので、広くネット利用者にも読めて、その一部を気軽にコピペできるように、電子テキストに落とした。元のテキストは北岡伸一 [編集・解説]、『戦後日本外交論集』、中央公論社、1995年刊行のものを使った。


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この『英米本位の平和を排す』論文が書かれたのは1918年11月3日である。この論文で「戦後」といっているが、書いた時点で未だ第一次世界大戦は終わっていない。第一次世界大戦の終了は11月11日のパリのコンピーニュの森での休戦調印である。しかし、近衛がこの論文を書いたときにはドイツの敗北が必至であり、それがわかったのであろう。

この論文を書いた時、近衛文麿は27歳。 この論文発表からひと月後の1919年1月14日、神戸からヴェルサイユ講和会議の随員としてパリに出発。

 世間の目が近衛に集まるようになった直接の原因は、彼がヴェルサイユ会議全権団の随員に選ばれたことであろう。この会議は世界の視聴を集めた晴れの舞台であり、ここに登場できたということは、それだけで有能な人物であるという証明書をもらったようなものである。
 さらに、西園寺公の抜擢ということがある。政界に絶大の力を持つ西園寺が、彼を庇護し、彼を育て上げようとしているということは、それだけで彼が将来大物になるという約束手形を持っているようなものである。彼に期待の目が集まるのは、当然といっていいだろう。 (杉森久英、『近衛文麿』) 愚記事; パリ講和会議へは松岡洋右、近衛文麿、吉田茂などが若手として参加

 このパリ(ヴェルサイユ)講和会議への日本から派遣される外交団のために御前「壮行会」が催された。そこへ山縣有朋、松方正義、東郷平八郎などが出席している。つまり、27歳の近衛文麿はこの時80歳の山縣有朋(1838年生まれ)とすれ違っているのだ。 知らなかった。 この世紀の場面を描写した歴史小説や映画、ドラマをみたことがない。肇国の公爵と亡国の公爵との邂逅、一期一会である。なお、この時点で漱石は既に鬼籍(関連愚記事; 「滅びるね」 @浜松駅  )。


愚記事; じゅげむ・じゅげむの弁当箱

 パリに行く途中近衛文麿は上海で孫文に会っている( 間違ってきた15歳クンのために; 当時ヨーロッパには船か鉄道で行く。飛行機がなかった。シベリア鉄道はあったがこの時ロシア革命直後。船でヨーロッパに行く途中に上海に寄ったのだ [関連しない愚記事; 上海参り 2012 ] )。孫文が近衛文麿を知ったのはこの論文『英米本位の平和を排す』のせいである。上海の排日系の雑誌『ミラード・レヴュー』に訳され、掲載された。その訳載の理由は排日アメリカ人のミラードが日本は世界秩序に反逆しようとしているという非難攻撃の宣伝のためである。皮肉にも、アメリカ人による宣伝のおかげで、アジア主義者同志ということで孫文と近衛文麿は遭ったのだ。 

 孫文には褒められたが、西園寺公望には叱責された。国際社会=既得権を持つ勝者=米英仏との協調を旨とする思想を根拠にしてである。

西園寺公望の希望は、後継と託する近衛文麿にも、大日本帝国肇国の主策である「既得権を持つ勝者=米英仏との協調を旨とする思想」を有して欲しかったのだ。

(西園寺公望の希望は、大嗤いとなったことは既に書いた⇒ 自分の孫がゾルゲ事件に連座、曾孫が紅衛兵だ!  
      公望=おおやけののぞみという名前が皮肉で、悲報!)

親の心子知らず!

 論文・『英米本位の平和を排す』について認められる特徴は、中二病的側面である。中二病の定義はめちゃくちゃになっているらしい。でも、次のような中二病の症状がある (wikipedia [中二病]);

社会の勉強をある程度して、歴史に詳しくなると「アメリカって汚いよな」と急に言い出す。

ここで、「アメリカ」の記号的意味は、世界での最大主流派であるということである。その偉そうな「主役」の欺瞞に気づき、憤慨することが典型的中二病的症状ということだ。

世界の支配的権勢の欺瞞を暴いた自分の知性に内心うれしい近衛文麿は義侠的でもある。つまりは、世界の支配的権の世界独占、植民地の囲い込みが原因で勢力が拡張できず、自存の権利を守るために「やむをえず」ドイツは戦争に打って出たとその戦争動機に共感を持っている。義侠心=弱きを助け、強気を挫く。ドイツに心情的に加担し、英米の強国として欺瞞を暴いたつもりなのだ。

   (ここで、近代の欺瞞の暴露という ニ ー チ ェ 的 精 神 が垣間見れることに注意されたい。 本当は何なんだ?近衛文麿!)

この考えと昭和16年・1941年の自存自衛のための対米英宣戦布告という現実は整合性があるように見える。この時27歳だった近衛文麿はのち数度内閣を担い、支那事変の拡大、大政翼賛会、日独伊三国同盟、国家総動員法、仏印進駐などの諸策を実施。これまた、この『英米本位の平和を排す』の気分を具現化したかのように見える。

ただ、事態は複雑なようだ。近衛文麿が論文・『英米本位の平和を排す』を書いたのは大学卒業直後。つまりは机上の勉強しかしてないことの総決算である。実際の欧米社会を知らなかった。このパリ(ヴェルサイユ)講和会議の後、近衛文麿はドイツ、英国、米国と半年近く、見聞旅行をしている。さらには、後に息子=次の公爵となるはずの文隆を米国に留学させている。見聞したからと行って、西園寺公望のように「国際社会=既得権を持つ勝者=米英仏との協調を旨とする思想」を持つようになるかはわからない。ただ、支那事変の拡大、大政翼賛会、日独伊三国同盟、国家総動員法、仏印進駐など対米戦争のために戦略的に動いていた、と少なくとも後世からは見える、近衛文麿は対米戦争には恐怖し、躊躇したと伝えられる。もっとも、この躊躇したというのは宣伝かもしれないのだが。そして、戦後戦犯容疑者に指定され逮捕直前に自殺するときに書いた遺書には「僕は米国に於いてさへ、そこに多少の知己が存することを確信する」とある。

 『英米本位の平和を排す』を著し、孫文に遭い、ヴェルサイユ(パリ)講和会議を「物見」した近衛文麿は、半年にわたり、独英米を見聞した。その記録がこれだ ↓ ; キューガーデンにも行っているのだ(関連愚記事; ロンドンに行った時、キューガーデンに"参拝"。もっとも英語ではKew Gardensであるが。ロンドンで一番行きたかったところだ)。 その時すでに日本庭園はあったのだ。


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さて、・『英米本位の平和を排す』的気分は、当時、インテリにおいても流布していて、愚ブログでは志村五郎さんの例を挙げている;

・開戦時の思い出; ―しかし開戦に対する私 の反応は書くべきであろう。(中略)一二月十日のマレー沖でのイギリス二戦艦プリンス・オブ・ウエールズとレパレスの撃沈が印象に残った。ほかのことは忘 れたがこれだけは「痛快だ、ざまあ見ろ」と思った記憶があり、そう思った事を今でも後ろめたくは感じていない。 
 現代の人は歴史の書物でしか学ばないが、当時の世界地図を見ると大英帝国の領土が驚くべき面積を占めていた。色分けしてあるからひと目でわかるのである。
― (愚記事: 「私ぐらい嫉妬された数学者はいないのではないか」、志村五朗

とまれ、近衛文麿の・『英米本位の平和を排す』には強者に対する反感が感じられる。端的にそういう気分をルサンチマンというのだ。

近衛文麿解読のおもしろさは、そういう強者に対する反感、具体的には対米英ルサンチマンが大衆に横溢した時代に、そのルサンチマンの核になったことだ。近衛文麿を「共産主義者」という人がいる。いやちがうのだ。そして、なぜそう誤解させるかというと対米英ルサンチマンという視点が近衛文麿分析には必要なのだ。ルサンチマンと「共産主義者」は親和性が高いので、近衛文麿は「共産主義者」という誤解が生じるのだ。

尾崎秀実=「共産主義者」は、近衛のそのルサンチマンにつけこんだのだ。

その点、近衛文麿・『英米本位の平和を排す』は彼の政治思想信条の出生証明書としては、よくできているといえるのではないだろうか。



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