・今日知ったこと; 大島浩(のち、いわゆるA級戦犯 [wiki])と吉田茂の会談@ロンドン
吉田茂は昭和14年(1939年)3月20日に外務省を退官している。最後の職は駐英大使(1936/4/10~1939/3月、後任が重光葵 愚記事;チャーチルと会って話をしたことがある日本人って何人くらいいるんだろうか?)。
その吉田が滞英中に、日独防共協定の締結の話が日本政府内で上がった。当時の政府は有力外交官=主要在外大使に意見を聴取し、そして賛同を求めた。 吉田は反対した。その時、駐独大使だった大島浩がロンドンに吉田を説得に来た。
吉田茂の『回想十年』に回想余話として陸軍中将だった辰巳栄一が寄稿している;
昭和十一年九月、吉田さんが駐英大使の当時、私は大使館付武官としてロンドンに着任したが、そのころ日独防共協定というのが外交上の問題として議論されていた。当時本国政府の方針としては、本協定を結ぶことに決まっていたが、問題の性質上、正式協定の成立以前に一応在外の主な大使達の同意を得ておきたい、というのが中央の意向であった。
ところで、当時の主な大使達はみんな協定の成立に賛意を表したが、ひとり吉田駐英大使だけはガンとしてこれに反対の態度を固執した。そのため着任早々の私は、陸軍中央部から、「吉田大使に対し防共協定締結の趣旨を説きその同意を得るように努めよ」と指令を受けた。
(辰巳が説明しても、吉田は聞き入れない。吉田の言い分はこうだ)
一体日本の軍部はナチス・ドイツの実力を買いかぶっている。世界大戦(一次)であれほど連合国にたたきつけられて、さらに海外の領土も悉く失ったのであるから、如何にドイツ民族が偉いといっても、二十年そこらの期間に、英仏、ひいて米国を相手として、太刀打できるほど回復しているはずがない。
(中略)
それから数日のあと、同協定の立役者である駐独武官大島浩君(後の中将、駐独大使)がベルリンからロンドンに飛行機で飛んで来た。いうまでもなく、弱輩微力の私に代わって吉田大使説得のためである。吉田さんと大島武官との会談は、その日の午後5時ごろから八時過ぎまでつづいた。予定では会談後七時頃からみんなで晩餐を共にすることになっていたが、二人の主客はなかなか会談の室から出てこない。折角の料理もさめてしまうといってコックから文句が出る始末であった。
やっと、会談が終って、一同食卓につくと、吉田さんの方はいつものニコニコ顔で、お得意のよもやま話に花を咲かせ、つい、さっきまで重大な論戦をしていたなどという気配が少しも見えない。片や大島武官の方は、頗る御機嫌がわるく、翌朝の飛行機でロンドンを去ってしまった。こうして大島武官の努力も、信念をまげない吉田さんの説得には、ついに成功しなかった。 (後略)
防共協定の本文を見てみよう。その前文は;
大日本帝国政府および独逸国政府は共産「インターナショナル」(所謂コミンテルン)の目的が其の執り得る有らゆる手段に依る現存国家の 破壊及爆壓に有ることを認め 共産「インターナショナル」の諸国の国内関係に対する干渉を看過することは其の国内の安寧及び社会の福祉を危殆ならしむるのみならず世界平和全般を脅すも のなることを確信し 共産主義的破壊に対する防衛の為協力せんことを欲し左の通協定せり (wiki)
そうなのだ。コミンテルン対策なのだ。でも、歴史の皮肉はおもしろい。このコミンテルンを防ぐための日独防共協定こそが、日本軍部のドイツへの緊張感を緩め、コミンテルン史上の最強の工作員であるゾルゲが大活躍できる環境をつくったのだ (関連愚記事; 日本政府 内閣官邸にコミンテルンがいた日々 )。 ゾルゲはドイツ人、ナチス党員に化けて日本で活躍した。
だから、この視点で仮説を立てて、日独防共協定の日本での推進勢力は何に「操られていた」のか考えるとおもしろいかもしれない。
■ パーロの将校が活躍した終戦直後の日本議会(まだ大日本帝国議会@occupiedだけど)
そして、話は戦後へ。今でも語り草になっている吉田茂が自衛戦争の権利も放棄した話;
現在のマッカーサー憲法は大日本帝国憲法の改正で成立した。その改正憲法を国会で説明したのが自由党政府であり、首相の吉田茂だ。そして、自衛戦争を明確に否定した。 1946年6月28日の国会本会議でだ。
野坂参三(日本共産党): 「戦争は侵略戦争と正しい防衛戦争に区別できる。したがって戦争一般放棄という形ではなしに、侵略戦争放棄とするのが妥当だ。」
吉田茂 (内閣総理大臣@自由党党首):「国家正当防衛権に依る戦争は正当なりとせられるようであるが、私は斯くのごときことを認めることが有害であろうと思うのであります。(後略)」
吉田は明確に正当防衛の戦争は憲法で禁止されていて、やるべきでない、といっているのだ。
さて、本日は憲法での自衛権を巡る論争でなく、コミンテルン。
なぜかしら、逆上して?、自衛戦争の放棄をいってしまった吉田を、このように追い詰めた野坂参三は、この日本の国会に登場する少し前まで、パーロの将校だったのだ。
パーロって何だ?って、おいらも最近覚えた言葉。
映画「兵隊やくざ」(愚記事;兵隊やくざシリーズ (1965-1968....1972); 造反時代への準備教材 )にでてきた。最初、聞き取れなかった。パール=真珠?でも場面にあわないぞ??? 何のことはない、バーロ=八路軍=中国共産党の軍隊のことなのだ。
野坂参三さんは岡野進と称して、戦時中はバーロ=八路軍の将校をやっていた。毛沢東とも「友達」だったらしい。 当然、コミンテルンの配下で活動していたのだ。
その野坂参三も中ソとばかり仲がよかったわけではない。アメリカさまとよろしくやっていたのだ。 アメリカ真理教の信者第一号かもしれない。
当時(日本占領下)の(GHQ)民政局の高官のなかでいまなお健全なのは、チャールズ・ケーディス陸軍大佐(民政局次長)ぐらいのものですが、ある人が彼に吉田茂の印象を聞いてみたところ、「大変扱いにくいじいさんであった」と述懐していたそうです。そして言葉をついで、「ところで、野坂参三先生はお元気ですか」とい聞いたというのです。つまりケーディスが最も親近感を持っていた日本の政治家は野坂参三氏であり、吉田茂では決してなかったのでした。 江藤淳、「吉田茂と養子政治」 初出1983年(原題:「吉田政治」を見直す)、のち『同時代への視線』(1987年)
今となってはかなりわかってきていることだが、ルーズベルトの周辺にはコミンテルンの工作員がうじゃうじゃしていた。そのコミンテルンの工作員、あるいはコミンテルンの親派が日本占領にやって来たのだ。ニューディーラー。
日本はソ連、コミンテルンとそれに煽動されたルーズベルト米国に翻弄されたのだ。
吉田茂は米国がコミンテルンに牛耳られていたことは知らなかったのであろう。
戦前もコミンテルン、戦後もコミンテルンである。 さらには、東條内閣の外相自身が書いているのだ;東條内閣は"ボルシェビキ"
どうなってるんだ!? ぬっぽん!!!
●そして、一方の、米国が自分のコミンテルンの呪縛に気づきはじめるのは、朝鮮戦争で中共軍と対峙し、4万人あまりの死者・行方不明者を出したのちである。
▼ まとめ
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ;
こんにちの日本、お支那さまの共産党の工作員は、ぬっぽんの"同盟国"のアメリカ人に化ければいいのだ。
ネットで見つけたもの; (八路軍あらわる)
本物のパーロは質素で、風采も上がらぬ田舎丸出しの連中だったが、真面目で純朴だった。面白いのはゲートルを足の細い下部の方に2~3重余分に巻き、足の 上下とも同じ太さにするもので、これが格好良かったものらしい。この巻いたゲートルの内側に箸2本差し込んでおくのを常としていた(携帯箸)
引き揚げに際し、心ある中国人が
「敗戦でも平和になった君たちは幸せだ。我々はこれからまた戦争だ(国・共戦)」
と、意味深に語った言葉が、妙に印象に残った。