どんな言葉を使用するかで、当然のごとくその言葉の意味する世界も違ってくるのではないだろうか。母とか父とかという言い方をしなくなることが、本当に喜ばしいことなのだろうか。
童謡の「ふるさと」には「如何にいます父母(ちちはは)」という一節があるが、父親と母親にはそれぞれの役割があり、父親は厳しく、母親は優しく待っていてくれるという姿が容易に想像できる。
過去から受け継いできた言葉を失うことは、日本人が築いてきた文化そのものを否定することになりはしないか。昨今のフェミニズムの議論にはそれが欠けているように思えてならない。どんな言葉を使うかで、日頃見慣れた世界は、まったく違ったものに見えてくるのである。
先に大戦の敗北によって、日本人は大事な言葉を奪われた、「大東亜戦争」という文字は歴史の教科書から消された。そのとき受けた傷は未だ癒されておらず、日本人は真摯に自分の歴史に向き合えずにいる。
「男性・女性であることに基づき定められた社会的属性や機会は、変化しうるし、変えていかなければならない」というのがフェミニズムである。しかし、男女の役割という型を否定すれば、大きな混乱が生じ、大切なものが失われるような気がしてならない。
たわいない言葉一つであっても、それを支えているのは、小林秀雄にいわせれば、日本人の「生きた己の言語組織」である。それから背を向けることになれば、その段階で日本人は日本人でなくなる。それが喜ばしいことなのだろうか。僕は懐疑的にならざるを得ない。
おとうさん、おかあさんという言葉が死語になりつつあります。
由々しきことと思います。
こういう一見些細と思えることから、国家破壊が始まっていきます。