憲法は神聖にして侵すべからざるものなのだろうか。昨今の議論を聞いていると、あまりにもその点が強調され過ぎてはいないだろうか。古賀啓太は『シュミット・ルネッサンスーカールシュミットの概念的思考に則して』(2007年発刊)のなかで「冷戦崩壊後マルクス主義がもはや信じられなくなる中で、左翼の理論家はシュミットの政治・法理論の中に体制批判の理論的拠り所を求めようとした」と書いた。シュミットの思想に「ラディカル・デモクラシーの萌芽を求めようとした」というのだ。何かすると憲法を絶対視しながら、その実は政治的に利用しているだけの日本のサヨクとは大違いである。シュミットは『独裁論』で「憲法制定権力」について定義している。「あらゆる国家的なものの根源的力である人民、国民は、たえず新たな諸機関を制定する。その権力の、かぎりなくとらえがたい深淵からは、国民がいつであれ破ることができ、かつ国民の権力がその中で決して確定的に限定されてしまうことのない諸形態が、絶えず新たに生まれてくる。国民がどんな好き勝手をなことを欲しようとも、その意欲の内容は常に、憲法の内容と同一の価値を持つ」。とくにアントニオ・ネグりのような思想家は、古賀によれば「≪構成的権力≫の革命的・創造的発動が≪構成された権力≫によって制限されたり、吸収されることに対して否定的である」と解説している。右であれ、左であれ法を破る力というのが存在するのである。憲法のために国民の平和と安全が脅かされてはならないのである。現在のような安保法制をめぐる神学論争には、それがまったく抜け落ちている。
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