民主主義がともすれば衆愚政治になりかねないのは、歴史を回顧すれば自明の理である。国民主権とかをことさら振り回す人たちがいるのは、民衆による支配は最善だと思い込んでいるからだろう。国民が選挙などを通じて政治に参加するのは、あくまでもベターであるからであり、絶対視されるべきではないのである▼民主主義について田中美知太郎は「人間知識の有限性という事実認識に立ち、あまやり多い人間にとって、できるだけ危険の少ないやり方として工夫されたものと言うことができる」(『政治評論集市民と国家』)と書いている。物事は簡単に決められないのが普通である。誤りをしでかす可能性も否定できない。個々人に精神的な発達が伴わなければならないのだ。田中は「真の貴族でなければ、また真の民主主義者となることはできないと云うのは、ロレンスの主張するパラドックスであるが、それはまた民主主義が一定の精神発達を要求するものであることと、われわれが大人であることを要求するものだということでもあるだろう」(『同』)とも指摘している▼民主主義とは無縁な共産党が主導権をとって、反自民の野党連合が形成されつつある。正直な観察と真摯な議論の上に民主主義は成り立つのである。国防安全保障上の危機を無視して、夢物語を語り、選挙目当てで共産党との共闘に走る民主党などの野党は、大人であることを拒否した烏合の衆でしかなく、かえって混乱をもたらすだけなのである。
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日本の伝統は祭政一致の君主制であり、
いずれそうした本来の国体になるであろう。
そうすれば、あれもこれもの責任が覆いかぶさり、
馬鹿なマスコミにまくしたてられる民主主義よりも、
民衆は幸せであるのだ。
http://jp.reuters.com/article/ldp-kimura-idJPKCN0W50BK