今日は3ヶ月に1度の歯科検診の日。
先日から上あごの出っ張った部分が爛れた感じで、飲食の際にとても沁みて痛む。「口内炎かもしれないのですが」と診て頂いた。やはり場所が悪いので、何度か食べ物で引っ掛けたことが原因で感染し、口内炎状になっているとのことで、アフタシールをその場で貼って、1日数回貼りかえるようにと処方してくださった。歯磨きはほぼOKとのことで、表面を磨いて頂き、さっぱりした後、また3ヵ月後の8月に予約を入れてきた。
さて、毎朝NHKの連続テレビ小説のテーマ曲を聞くにつけ、思うこと。
何か人にしてもらったら、必ず「ありがとう。」と言う。
それが当然だと思っていると肩透かしを食わされることが多くなったように感じる。
もちろん自分が勝手に(好きで)やっていることなので、決して何か見返りを求めているわけではない。「ありがとう。」というお礼の一言が聞けてその人の笑顔が見られるだけで良い。喜んでくれている気持ちが伝わってくれば、十分それで満足なのだから。それは家族の中でも同じことだと思う。
まずその場でお礼を言う。次にお会いするなり何らかの連絡を取ったときには、枕詞としてまず「先日は、ありがとう。」を忘れない。そして、もし頂き物があったなら、必ずその感想等を一言つけるようにしているが、今時それは大げさすぎるのか、と不安になることがある。
誰かに何かをしてもらうことが当たり前、の恵まれた人が増えているのか、そうでもないのか。正直なところよくわからない。
息子を見ていると、おかげさまで実にのびのび育っているけれど、(うーん、ちゃんと外ではお礼が言えているのだろうか・・・)と不安になることが多い。いろいろ手をかけすぎてきてしまったのだ、と反省する。もちろん彼だけではなく、最近ではいい大人たちに対してそう思うことが多いので「他人の振り見て我が振り直せ」なのだろうけれど。
兎にも角にもたとえいくつになっても“感謝のこころ”は忘れないでいたいものだ。
そんなとき、一筆箋はとても便利だ。長い手紙は書かなくとも、四季折々のものを何種類か用意して切手もその季節のものを使えれば素敵。
もう何年も前、郵便局で絵入りの官製はがきが1枚70円5枚セットで販売されていたことがある。桜の季節の“さくらメール”や、暑中見舞いの“かもメール”のようなくじ付の期間限定のものではなく、一年中四季折々使えたのでとても気に入っていた。
私はふらりと郵便局に立ち寄って綺麗な切手やはがきを買うのがひそかな楽しみのひとつなのだが(これを言ったら、夫が(結婚20年も経つのに)「そんな趣味があったとは知らなかった・・・」と驚いていた。彼が「切手をちょうだい。」と私に言ったとき、すんなり出てくることについていったいどう思っていたのだろう・・・。)最近窓口で聞いてみても「今はありません。」と言われる。
やっぱり今は皆わざわざ手書きではがきや手紙は書いたりしないでメールになっているのだな・・・と思うとちょっと淋しい。
電話やメールでのすぐのお礼もとても嬉しいけれど、はがきなり手紙が到着するまでのちょっとした間(ま)が、せわしい毎日に翻弄されていない、という心のゆとり、感謝のこころを表してくれるような気がする。
もちろんメールは即時に到着するので、とてもありがたいし、それを否定するわけではない。
先日の演奏会で、受付に頂き物が預けられていたことを知らずにそのまま帰りの電車に乗ってしまい、そのことに気づいた先輩がわざわざ同期の何人かの携帯メールを介して知らせてくださった。メール連絡があってから折り返して、わずか30分ほどで無事手にすることが出来た、というかつてならとてもありえなかったようなことも経験し、あらためて携帯メールの威力に驚かされた。
“感謝のこころ”、メールにも・・・、の経験であった。
先日から上あごの出っ張った部分が爛れた感じで、飲食の際にとても沁みて痛む。「口内炎かもしれないのですが」と診て頂いた。やはり場所が悪いので、何度か食べ物で引っ掛けたことが原因で感染し、口内炎状になっているとのことで、アフタシールをその場で貼って、1日数回貼りかえるようにと処方してくださった。歯磨きはほぼOKとのことで、表面を磨いて頂き、さっぱりした後、また3ヵ月後の8月に予約を入れてきた。
さて、毎朝NHKの連続テレビ小説のテーマ曲を聞くにつけ、思うこと。
何か人にしてもらったら、必ず「ありがとう。」と言う。
それが当然だと思っていると肩透かしを食わされることが多くなったように感じる。
もちろん自分が勝手に(好きで)やっていることなので、決して何か見返りを求めているわけではない。「ありがとう。」というお礼の一言が聞けてその人の笑顔が見られるだけで良い。喜んでくれている気持ちが伝わってくれば、十分それで満足なのだから。それは家族の中でも同じことだと思う。
まずその場でお礼を言う。次にお会いするなり何らかの連絡を取ったときには、枕詞としてまず「先日は、ありがとう。」を忘れない。そして、もし頂き物があったなら、必ずその感想等を一言つけるようにしているが、今時それは大げさすぎるのか、と不安になることがある。
誰かに何かをしてもらうことが当たり前、の恵まれた人が増えているのか、そうでもないのか。正直なところよくわからない。
息子を見ていると、おかげさまで実にのびのび育っているけれど、(うーん、ちゃんと外ではお礼が言えているのだろうか・・・)と不安になることが多い。いろいろ手をかけすぎてきてしまったのだ、と反省する。もちろん彼だけではなく、最近ではいい大人たちに対してそう思うことが多いので「他人の振り見て我が振り直せ」なのだろうけれど。
兎にも角にもたとえいくつになっても“感謝のこころ”は忘れないでいたいものだ。
そんなとき、一筆箋はとても便利だ。長い手紙は書かなくとも、四季折々のものを何種類か用意して切手もその季節のものを使えれば素敵。
もう何年も前、郵便局で絵入りの官製はがきが1枚70円5枚セットで販売されていたことがある。桜の季節の“さくらメール”や、暑中見舞いの“かもメール”のようなくじ付の期間限定のものではなく、一年中四季折々使えたのでとても気に入っていた。
私はふらりと郵便局に立ち寄って綺麗な切手やはがきを買うのがひそかな楽しみのひとつなのだが(これを言ったら、夫が(結婚20年も経つのに)「そんな趣味があったとは知らなかった・・・」と驚いていた。彼が「切手をちょうだい。」と私に言ったとき、すんなり出てくることについていったいどう思っていたのだろう・・・。)最近窓口で聞いてみても「今はありません。」と言われる。
やっぱり今は皆わざわざ手書きではがきや手紙は書いたりしないでメールになっているのだな・・・と思うとちょっと淋しい。
電話やメールでのすぐのお礼もとても嬉しいけれど、はがきなり手紙が到着するまでのちょっとした間(ま)が、せわしい毎日に翻弄されていない、という心のゆとり、感謝のこころを表してくれるような気がする。
もちろんメールは即時に到着するので、とてもありがたいし、それを否定するわけではない。
先日の演奏会で、受付に頂き物が預けられていたことを知らずにそのまま帰りの電車に乗ってしまい、そのことに気づいた先輩がわざわざ同期の何人かの携帯メールを介して知らせてくださった。メール連絡があってから折り返して、わずか30分ほどで無事手にすることが出来た、というかつてならとてもありえなかったようなことも経験し、あらためて携帯メールの威力に驚かされた。
“感謝のこころ”、メールにも・・・、の経験であった。