ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2013.4.22 「かつら」か「ウィッグ」か

2013-04-22 20:59:18 | かつら
 私は今、昨年秋のEC治療により、4年半前のタキソテール治療以来2度目の完全脱毛をしたため、外出時は常時「かつら」を被っている。

 治療の中止以来そろそろ5カ月が経過する。おかげさまで再び髪の毛が生えてきているから家では素頭でいるが、さすがにこのまま外出は出来ない。これから夏に向かえば、蒸れるし鬱陶しいことこの上ない。けれど、止むにやまれず「かつら」を被るしかない。
 だから、それをいかにも軽い感じで「ウィッグ」と言われると、とても違和感がある。

 私にとっての「かつら」は、あくまで抗がん剤の使用による脱毛で失われてしまった髪の毛を補うために使用しているものであり、ファッション目的や若く見せたいとか、イメージチェンジをしたい、とかいうために被っているものではないからだ。

 もちろん、「かつら」と言うと、否が応でも薄毛とか禿げ頭等を想像させるため、あえて自分の気持ちを前向きにさせるため、お洒落感覚で「ウィッグ」と呼ぶ方もいるかもし
れない。実際、メーカー側も「かつら」という言葉が持っているマイナスイメージよりも、「ウィッグ」というお洒落な感覚を持つ言葉の方が少しでも売れ行きがいいというなら、こちらの名称に飛びつくのだろう。
 けれど、私にとってあくまで「かつら」は「かつら」、しかも“医療用の”「かつら」だ。だから、こうしてブログに書く時にも「ウィッグ」という言葉は使わずにいる。もちろん揶揄して自虐的に呼んでいるとしか思えない「ズラ」などはもってのほかだ。

 そんな言葉への拘りはちょっと可笑しいのかしら、と後学のために調べてみた。私が受けている感じは概ね間違いなかったな、と何となくほっとする。
 
 Wikipedia等によれば、
 かつら(鬘):加齢(親の遺伝が大きい)だけでなく、過度のストレスや抗がん剤の使用などによる脱毛症によって失われてしまった頭部の一部分、または全体の毛を補うためにかつらは使用される。特に加齢による脱毛用のかつらは、若く見せたいという心理的欲求が強く関わっていると言われている。
 人の頭部にかぶせて、もとある頭髪を補ったり別の髪型に見せるために使う、人工的な髪のこと。実際の人間の髪(人毛)を利用して作られたものや、ポリエチレンなど化学繊維(人工毛)を利用して作られたもの、またその二つを混合しそれぞれの特徴を活かそうとしているかつらなど様々なかつらが存在する。ズラはかつらの俗称である。

 ウィッグ:日本においては、装飾や髪型を変える目的で一時的に用いられるものをこう呼ぶのが一般的であり、ショートヘアの女性がセミロングにする目的で用いる付け毛もこう呼ばれる。
 日本語で言うかつらの事。かつらの英語訳なので広義ではかつらと同じ意味だが、通常はファッション的要素を重視したかつらを意味するのが一般的。薄毛を隠す等の実用的な意味で使用されるかつらと違い、ファッションの為に使用されるのが一般的。サイズ、デザイン等バリエーションに富んでいる。
(引用終了)

 これを見れば、私は今後も生きている限り「ウィッグ」は被らないだろうな、と思う。
 たとえ白髪が混じろうと、薄くなろうと、自分の髪の毛があるならばまさしくそれが一番愛おしいものだからだ。
 こうした治療を経験することなく脱毛することがなかったら、今頃はどんなヘアスタイルだったのだろう。
 無くして初めて有難みが分かることは沢山あるけれど、人の髪の毛も鼻毛もまつ毛も眉毛も、本当に旨く出来ているのだ。不要なものなど何もない。つくづく神様は凄い。

 かつらを被ればそれが補えるわけではない全身脱毛という副作用。命を長らえるためとはいえ、しみじみ哀しいことである。

 冷たい雨が降った底冷えがする週末が終わり、今日はようやく太陽が顔を出したが、相変わらず気温が低い。職場の事務室はすっかり冷え切っていて、全員が出勤しても20度にならなかった。空調は入らないから、いまだ膝かけが手放せない。何となく喉が痛いが、風邪をひかないようにしなくては。

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2013.4.20 やっぱり手の感触を楽しみながら引くのが好き!~舟を編む~

2013-04-20 18:12:06 | 映画
 三浦しをんさん原作、2012年度本屋大賞第一位となった「舟を編む」の映画を観た。
 まだ原作は読んでいないので、まっさらな気持ちでスクリーンデビュー。
 言ってしまえば新しい辞書を作るお話、という一言に尽きるのだけれど、そんなもののいったいどこが面白いのか等と仰るなかれ、2時間以上、時間を忘れて十分楽しむことが出来た。

 新しい辞書の名前は大渡海(だいとかい)。大きさは中型辞典、見出し語は24万語、編集方針は「今を生きる辞書」。果てしなく広い“言葉”の大海原を渡るための一艘の舟に辞書を喩えることから「舟」(辞書)を「編む」(編集する)というタイトルだ。
 私も辞書が好きで、寝っ転がりながら“読んで”いた口なので、もうそれだけ聞いただけでワクワクしていた。
 もちろん、用例採集、見出し語選定、語釈執筆、レイアウト、5校に至るまでの校正作業に15年間という気の遠くなるよう地道な作業。それは想像に余りあるものであった。私の場合を振り返ると、仕事で使う印刷物などせいぜいが3校どまりだ。

 やはり人は適材適所なのだと思う。
 人とのコミュニケーションが滅法苦手な主人公があのまま営業部にいたら、いったいどうなっていたかな、と。
 15年間という月日を一冊の辞書を作るためだけに・・・時には文字通り言葉の海に溺れそうになりながら・・・費やし、そして完成したらまたすぐに改訂作業にかかる。文字通り辞書に一生を捧げる編集者―真面目な馬締(まじめ)光也君:ニックネームは“みっちゃん”―が主人公。彼を取り巻く登場人物も皆愛すべき人たちだ。
 完成までの時代設定は(阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件のあった)1995年から東日本大震災前の2010年まで。携帯よりもPHSという小道具からその時代考証も懐かしく楽しんだ。

 息子の世代を見ていると、辞書は紙で、指でその感触(映画の中で主人公は“ぬめり感”と言っている。)を確かめながらめくって引くもの、というイメージは殆どないようだ。 電子辞書あるいはPCを使ってWikipediaというのこそ、彼らにとっての辞書のよう。
 けれど、私はやはり辞書は紙でないと、と思うアナログ派である。
 辞書を引けば、前後の言葉やその言葉が存在するページの位置から、見えない部分が広がってくる。そして、プラスアルファされたものが記憶に残っていることが必ずあると思う。けれど、電子辞書で引いた言葉は、それで終わり・・・のような気がする、余韻がないように感じるのは時代遅れだろうか。

 それは新聞のサイトでニュースを見る時も同じだ。
 やはり紙面をめくって、全体を見渡してからの方が見落としがないように感じる。サイトだと、興味のある部分をどんどん掘り下げて行く感じになるけれど、どうも片寄ってしまうように思えるのだ(これは先日、高校時代・大学時代の友人と別の場面で話した時にそれぞれ同感してもらえたので、あながち私だけの独断ではないようだ。同じ時代に生きたから、ということなのだろうけれど。)。

 このブログで触れたことがあると記憶している三浦さんの作品「風が強く吹いている」も映画を観てから一気に文庫を読んだ。
 残念ながら「舟を編む」はまだ文庫化されていないのだけれど、待ち切れない・・・。是非とも原作を読んでみたくなる作品だった。―言葉好きな方に限らず、お薦めです。

 おまけ。大渡海による【恋】の語釈
 ―ある人を好きになってしまい、寝ても覚めてもその人が頭から離れず、他のことが手に着かなくな り、身悶えしたくなるような心の状態。
 成就すれば、天にものぼる気持ちになる。
 
 ―みっちゃん、香具矢さんと末永くお幸せに!

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2013.4.19  私も!-負けるのは美しく-

2013-04-19 21:00:32 | 読書
 児玉清さんの「負けるのは美しく」(集英社文庫)を読んだ。
 児玉さんといえば、読書好きで有名な方。ご自宅の書庫を雑誌の写真で見た時には、羨ましくて垂涎ものだった。長身でダンディで、ファンは多かったのだろうなと思う。が、私世代からすれば、銀幕の映画俳優ではなくテレビの人気クイズ番組の司会者を長年務められた方という印象がとても強い。
 一昨年5月に胃がんのため他界されたのはまだ記憶に新しい。

 その児玉さんの俳優歴50年の半生が綴られたご自身の手によるイラスト入りエッセイである。
 さすがに読書家というだけあって、文章が達者なのにも頷ける。ユーモアたっぷりでありながら、登場人物を思いやった暖かい文章である。
 解説の池内紀さんが書いておられる通り、常につつしみを忘れず、他人への優しさにあふれている。ぶしつけに聞き出すよりも、深い思いを大切にして口をつぐむ姿がエピソードに多々現れる。とりわけ、児玉さんが若い頃に病で倒れた先輩の俳優たちを偲ぶくだりは、ご自身が老いを感じる年齢になったことと重なり、その深さを増している。
 私より4つ年下のお嬢さんを、36歳という若さでスキルス胃がんで亡くされた時のことを綴った「第5章 天国へ逝った娘」は、読みながら本当に辛かった。セカンドオピニオンを巡ってのフィルムデータの紛失事件には、あまりの憤りに言葉を失った。
 児玉さんご夫妻の嘆きの深さに触れるにつけ、やはり順番は何としても守らなければならないと思う。「お父様、お母様、先立つ不孝をお許しください」はないのだな・・・と思う。子どもの死は親にとって耐えがたいことだろう、と実感する。

 そしてあとがきで、本書のタイトルについて語られる。「負けるのは美しく」にはこんな意味があったのだ。
 ずうずうしくも、児玉さんって私に似ているんだ、と思ってしまった。
「・・・心の中には嵐が吹き荒れていても、それをストレートに他人にぶつけることが出来ず、抑えて我慢してしまうため、他人は、それがすべて僕が良しとしているとしか見ないことだ。我慢して我慢して、最後に爆発する、そのことを人が見抜けない。だから爆発すると人はものすごく驚く。・・・僕自身の主張は一杯あっても、それを表に出さないで、協調姿勢を先ず取るために、それで僕が良しとしていると先方に思わせてしまうことだ、実は僕の心は反対意見で充満していても。僕の本質は頑固でかたくなで、本来は協調性の無い意固地な奴なのに、だからこそその本心を隠して取り敢えず協調のために、八方美人となってしまうことが先方に、いや周囲に誤解を与えてしまうのだ。
 そこで心に期したことは、負けるのは美しく、ということであった。所詮、僕のスタイルを押し通そうとすれば、最後にはすべて喧嘩になり、暴発して限りがない。・・・なれば、どうせ負けるのなら、美しく負けよう。・・・すべては負け方にあり、負け方にこそ人間の心は現れる、としきりに思うことで、心が静まったのだ。」と。
 なんということか、もう、実に私もそうなのである。

 一昨日のハーセプチン再開の副作用で熱が出ることを心配したが、杞憂に終わる。やはり“案ずるより産むが易し”だ(まあ実際の”出産”は決してそうではなかったけれど・・・。)。
 一日元気に働くことが出来て心底ほっとする。やはりハーセプチンは体に優しい有難い薬だ。

 強い南風が吹いた昨日と打って変って今日は北風。夜に向かってどんどん気温が低くなった。気圧の所為か、朝から左鎖骨に嫌な痛みが出ている。5年前始めて胸部周辺にしつこい痛みを感じた時を思い出してしまう。
 温めてみて、ロキソニンを飲んでやり過ごせると良いのだけれど。
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2013.4.17 ハーセプチン160回目(再開のため4倍量初回)

2013-04-17 20:50:57 | 治療日記
 先週木曜日から1週間も経たずして今日も通院日。昨年8月15日以来8か月ぶりのハーセプチン再開だ。
 2人を送り出してからいつもどおり家を出たが、最寄駅で私鉄が5分遅れ。乗継の時間が厳しくなりかなり慌てる。何とか滑り込んだものの、今度はJRのトラブルで途中駅で止まったりしながらさらに20分遅れ。途中で座れたのでとりあえず落ち着いて本を読めたけれど、病院に辿り着いたのは予定より30分近く遅れてしまった。

 自動再来受付機でIDカードを通し、そのまま腫瘍内科受付へ移動する。水分補給して呼吸を整えてから自動血圧測定。102-66、脈拍は102。急ぎ足で病院入りしたため、若干まだ息切れしている。
 「中待合へどうぞ」のランプは10分ほどで点いたが、診察室へ入るまでそれから30分ほどかかった。
 前回お目にかかってから1週間経っていないので、報告も簡単だ。特に前回のフェソロデックスでは5回目にして初めて、翌日以降の痛みが殆どなく、スイスイ歩けて楽に過ごせたことをご報告。また、どうしても当日はお腹が緩くなるお話をすると、(注射等により)血中カルシウム濃度が高くなると便秘になるが、逆に低くなるため下痢気味になるとのこと。診察室での検温は6度6分。
 職場で今後の治療について上司と話をした結果、現在の慣れた職場で慣れた仕事をしているうちに、きちんと予定通りの治療をした方が良いと言って頂け、休みの調整等も出来そうであるので、レシピ通り3週間一度の投与でお願いしたいとお話しする。先生は「それなら助かる!」と一言。こういうご時世なので、職場で首切りでもされたら、ということを心配して下さったようだ。職場にも主治医にも本当に恵まれているな、と思う。感謝しながら診察室を出て、化学療法室へ移動した。

 15分ほど待って、久しぶりに点滴椅子に案内される。針刺名人Oさんだったので、前回は全く注射跡が痛まなかった旨ご報告し、お礼を言う。
 このリクライニング椅子に座るのは11月のEC治療以来になる。今年になってからの治療は、うつ伏せでお尻を出してのフェソロデックス注射だったので、ゾメタもそこのベッドで、というパターンになっていた。
 今日の針刺しは先週に引き続きHさん。今日はそれほどの痛みでもなく、ほっとする。薬の調合に時間がかかっているとのこと、なかなか届かず。その後40分以上かかってようやく届いた。
 2008年7月以来4年続けたハーセプチンだが、EC開始に伴い8カ月中断したということでリセット初回扱いになり、今日は3倍量+倍量の4倍量だという。最初に開始した時は毎週投与だったので体重1kgあたり2mg、初回のみ4mgだった。それが一昨年の6月以降3週に1度の投与が可能となったため、3倍量の6mgとなり、今日は8mgの投与だ。初回は用心して入院したが、当日夜から頭痛と高熱に悩まされたので、今回もちょっと心配ではある。が、もし発熱したらロキソニン対応で、ということになる。

 開始後15 分で血圧は106-59、脈拍は62、人差し指の酸素濃度は98%、体温は6度3分。初回ということで、普段は1時間で落とす点滴を1時間半以上かけてゆっくり行う。1時間後の体温は6度5分、血圧は89-54、脈拍は72。 さらに生理食塩水を落としておよそ2時間後に無事終了。終了時は6度6分、酸素濃度は98%で変わらず、血圧も102-62、脈拍も72で問題なかった。
 抜針は針刺し名人のOさん。いつもどおり衝撃もなく上手に抜いて下さった。次回の予約表を頂いて化学療法室を出、会計手続きを済ませて自動支払機へ。さすがにハーセプチン4倍量だと3割負担で5万円がちょっと欠ける。高額だ。次回からは3倍量なのでもう少し安価になるだろうけれど。

 検査もなく診察の後のハーセプチンだけなので、今日は早く帰れるかしら、と取らぬ狸の皮算用をしたものの、結局のところ、病院滞在時間は4時間半弱。お天気が良くなるという予報に反して雲が厚く風が強く、かつらに手をやりながら吹き飛ばされないように歩く。
 遅いランチを摂って読みかけの本を読み切ってから帰宅の途に着いた。

 帰宅すると今月第2回目のお花が届いていた。
 清楚な白のカラーが4本、濃い赤紫のカーネーションが2本、蕾を沢山つけた紅花が2本、それぞれ花言葉は「清純」、「女の愛」、「包容力」だという。

 今晩は熱が出ないうちにさっさと入浴して休もうと思う。
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2013.4.16 優秀な免疫細胞に選び抜かれた筈だけれど・・・

2013-04-16 20:43:24 | 日記
 朝日新聞医療サイトのアピタルで先月から新しい連載が始まった。
 日本で医師免許を取得後、本格的にモデル活動を始め、現在ニューヨーク在住という異色の経歴を持つ陳佳奈さんのコラムだ。毎回、テーマに因む色どりも綺麗な達者なイラスト付き(今回も細胞さんたちの試験の様子がとても可愛らしかった。)。素人にも判り易く書かれた文章には毎回「なるほど」と頷かされて、楽しみにしている。それにしても“天は二物を与えず”どころか何物も与えてしまうのだな、と思う才色兼備の方である。
 下記に最新号を転載させて頂く。

※  ※  ※(転載開始)

モデル女医のカラダ雑学 06命がけの試験 陳佳奈(2013年4月13日)

いまだに話題に上ることも多い日本のゆとり教育。
どちらかというと批判の方が多い気がするけれど、そんなゆとり世代のカラダの中にも、およそゆとりとは言えない厳しい選別システムが存在している。
その厳しい選別の目的は、優秀な免疫細胞を選び抜くこと。
免疫細胞とは、細菌やウイルスなど外界の物質から自分自身を守る役割を持った細胞のこと。
そのためには、攻撃をしかける免疫細胞が自分自身の細胞と外から侵入して来たものをきちんと区別できなくてはいけない。
そのために試験を課し、選別するのだ。
免疫細胞には色々なタイプの細胞がいるのだけど、今日はT細胞についてお話しよう。彼らは時には指令塔、時には実行班となって活躍してくれるとても重要な細胞だ。
ちょうど胸の真ん中に、胸骨と呼ばれる大きな骨がある。
その骨の体内側に「胸腺」とよばれる器官があり、ここがT細胞選別のための試験会場となっている。
成熟したT細胞になるために、たくさんの未熟なT細胞見習い達がこの選抜試験を受けに胸腺にやってくる。
試験内容はとてもシンプル。
自分自身の細胞をきちんと「自分だ」と認識できるか。
もしも「これは自分自身の細胞だよ」というサインを見過ごしてしまったら?
不合格。死ぬ訳ではないが、次のステップには進めない。
自分自身の細胞だと気付いて、つい「これ!これです!これ自分の細胞です!見失わないようにガッチリつかまえておきます!!!」と意気込みすぎてしまったら?
「自分自身を攻撃するかもしれない危険細胞」とみなされ、不合格の上強制的に死へ追いやられる。
やる気がありすぎるのもダメなのだ。
ではどんな細胞が合格するんだろう?
それは「これは自分の細胞ですね」と冷静に認識できる細胞だけ。
反応が弱すぎても、強すぎてもいけない。
その感覚を理解できる細胞のみが、胸腺を去って全身を巡ることを許される。
合格率はたったの1~5%。
胸腺にたどりついたT細胞見習い達のうち、実に95%以上の細胞がここで脱落するんだ。
合格率1~5%って相当難しい試験だよね。
そして私たちの世界と違うのは不合格となれば死が待っているということ。
まさに命がけの、厳しい世界なんだよ。
でも、厳しい選別をくぐり抜けたT細胞達は一生涯に渡って私たちを外界の敵から守ってくれる。
私たちは、命がけの試験をくぐり抜けた超エリート達に守られているんだ。
不合格=死を意味する免疫の世界。それと比べたら、人間の世界なんてずっとましじゃないか。

(転載終了)※  ※   ※

 それにしても免疫というシステムは本当に凄いものだ(いつもながら語彙が貧困ですみません。)。こうして再発がん患者になってしまうと、こと免疫力アップとか、免疫活性細胞とか、キラー細胞とか、そういう類の単語にはやけにアンテナがビビッと反応し、知らず知らずのうちに目に飛び込んできたり、耳がキャッチするようになった。
 私なんぞ胸骨にもしっかり転移のある身だが、今回まさにその骨の内側に免疫細胞の実行班として活躍するT細胞の試験場があるということを知り、ちょっとがっかりしてしまった。そっか、もしかするともうちゃんとした免疫細胞も選抜できていないのかもしれないな、と。
 それにしてもこの選別、不合格は細胞にとって待ったなしの強制的な死を意味するというのだから、文字通り命がけだ。合格率の低いこと。一般的に選抜試験で合格率5%以下といえば、いわゆる最難関の試験に限られるだろう。
 けれど、このシンプルな選抜試験に、私はなぜか人生の何たるかを見たような思いがした。シンプルだからこそ、なのかもしれないけれど、何とも哲学的な香りがする。自分を自分としてきちんと認識出来ること。けれど決して意気込み過ぎず、主張し過ぎないこと。冷静に正確に我が身の丈を知り、強すぎず弱すぎずバランス良く反応出来る感覚を備えていること。それが出来れば脱落することなく自分の使命を果たして生きていける。そんなメッセージを受け取った気がする。

 とにもかくにもいじけないで、今の自分をきちんと認識しながら、自然体で冷静に生きていこう。
 そして、明日もまた通院日、である。
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