ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2016.9.21 採血・レントゲン後診察、ランマーク20回目、カドサイラ(T-DM1) 27回目(減量17回目)

2016-09-21 22:32:18 | 治療日記
 昨日は台風が近づいているにもかかわらず、仕事が終わってからSさんの瞑想ヨーガのクラスに向かった。「こんなお天気なのでどなたもいらっしゃらないのでは・・・」とSさんがおっしゃっていたが、蓋を開けてみれば指導者養成コースのメンバーを含み常連さん、新顔さんで13人の参加。いつものように素敵なクラスの内容に大満足。その後、雨の中、Hさんと一緒に私鉄に乗り込んで病院最寄り駅に移動、常宿に前泊した。

 今朝は夫にモーニングコールをした後、熱めの浴槽足湯でじんわりと汗をかく。カフェで朝食を済ませ、チェックアウト。外はまだ少し雨がぱらついていたけれど、昨夜大活躍したポケッタブルレインコートは手荷物にして病院到着。

 自動再来受付機はすんなり。採血は10人以上待ちで11分とあったが、10分ほどで呼んで頂けた。今日はマーカー測定がないので2本の採取。初めてお見かけする看護師のFさんだったが、黙って紙テープにしてくださり、恙なく終了。

 止血したまま、エスカレーターで2階のレントゲン受付へ。受付が済むと殆ど待つことなく中待合に移動。ほどなくして名前を呼ばれた。すんなり撮影が終了して、再びエスカレーターを降りて、腫瘍内科受付へ移動した。

 ここまでで病院に入ってから僅か25分。明日が祝日ということもあり、今日は混んでいることを覚悟して早めに入ったのが功を奏して、滑り出し好調である。時間が早いので定位置の待合椅子に腰かけ、読書を開始。
 最近読書のスピードが落ちているのだけれど、今日は珍しく新書2冊、文庫1冊の合計3冊読めた。本の紹介は長くなりそうなので、別の日の記事に。
 
 1時間が経って1冊読み終わったので、“中待合へどうぞ”の番号が電子掲示板に出ないうちに血圧測定へ。96-59、脈拍は80。 
 その後15分ほど待って掲示板に番号が出た。中待合に入って30分ほど待ち、先生が診察室からお顔を出され、名前を呼ばれる。

 「さて、また3週間経ちましたが?」と問われ、「おかげさまで体調は概ね良好です。台風や雨で気圧の変化があったり、疲れすぎるとどうしても胸痛が出ますが、それでも日に何回もロキソニンを飲むこともなく、なんとかやり過ごせています。お腹を壊したこともありましたが。」とご報告。「痺れはどうですか?」と訊かれ、手袋をしている手を見ながら「保湿をしながらなんとかやり過ごせています。足も痺れていますが、こちらも足湯をしたり、で乗り切れています」とお答えする。

 採血の結果は、特段問題なしとのこと。既にPC上に先月と今月のレントゲン画像が並んでいる。「前回から1か月ちょっとですが、あまり変わっていないようですね」とおっしゃる。左右の大きな腫瘍茎は目に見えて大きくなっているという感じではない。ポート脇の丸い影は心なしか薄くなっているように見える。白い色が濃く密なものは活動が盛んなものなのだそうだ。だから薄くなっているということは良い兆候である。診察室での検温は6度8分。

 「では、治療続行ですか?」と問うと、「はい、そうしましょう。」とのお答え。にんまりガッツポーズである。嬉しい。また首の皮が繋がった。「今、すぐに(薬を)変える必要はないでしょう。来月か再来月にCTを撮って、また考えましょう」とのこと。土俵際、我ながら随分粘りが効いてきた。これも障害を取り除いてくれるガネーシャ神の威力とSさんの瞑想ヨーガの効果だろうか。

 次回は3週間後の予約。次々回6週間後の通院日前にCTの予約も入れて頂いた。
 前回同様2種類の漢方とデノタスチュアブルを3週間分、ヒルドイドローション2本、ロキソニンも通常通り、パタノール点眼薬も1本処方して頂き、ご挨拶をして診察室を後にした。

 化学療法室へ移動し、待ち時間は毎度のように夫やお友達に報告LINEやメールを打って過ごす。15分ほどしてKさんから窓側のリクライニング椅子に案内される。
 ほどなくして、Kさんがすぐにポートの針刺しをしてくださる。刺す瞬間は衝撃なく痛みもほどほど。ほっとする。

 10分ほどしてKrさんが「薬が届きました。」とまずはランマークの注射から。「ゆっくりお話をしながらお願いします」とお願いしたけれど、やはり薬が入っていく時は痛いこと。点滴をセットして頂き投与開始。生理食塩水で満たした後、カドサイラ(T-DM1)。途中、Krさんが「雨だと(胸が)痛むのですか。痛み止めは頻繁には飲まなくて大丈夫そうですか?」とチェックに見える。

 先日インド旅行の話をしていたので、スマホに入っているタージマハールをバックにした写真等をお見せしてちょっとお喋り。順調に読書は進んだけれど、少し疲れて最後の生理食塩水で流している間、目を閉じてウトウト。1時間半弱で無事終了。

 終了時の血圧測定と抜針はKさん。107-71、脈拍は61。抜くときはかなり衝撃があり、思わず顔をしかめてしまった。Kさんがひたすら恐縮されるので、こちらも困ってしまう。
 ご挨拶して化学療法室を後にする。待合で15分ほど会計を待つ。自動支払機へ移動して、採血レントゲン、注射と点滴の3割負担、13万円強をカードで支払った。

 外に出ると、雲は厚いが雨はすっかり止んでいる。長い傘が邪魔になってしまった。薬局は混雑している。毎度のことながら次々に抜かれ、小一時間待つ。「前回と全く同じお薬ですが、お変わりありませんか?」と薬剤師さんから訊かれ「おかげさまで次回来月末のCTまで粘れることになりました。」とお答えする。前回同様2,500円弱の現金払い。

 前泊でわりとスムーズな流れだったけれど、それでも病院と薬局の滞在時間は合わせて5時間半強。駅ビルで遅いランチを摂ってから帰路についた。

 電車内で携帯に実家のある市の地域包括センターから不在着信があったことに気付く。乗換駅でかけ直したところ、母の要介護認定の面談日程調整の用件だということが分かり、帰宅後、先方と実家に何度か電話をかけて日程調整を済ませた。

 とりあえず夫が帰宅するまで少し横になって休息を終え、頑張って夕食の支度。
 普段は治療翌日の木曜日は会議や、出張が常だ。1日がかりの通院翌日で、なんとなく熱っぽかったり、怠かったり。疲れているのは否めないけれど、2日連続で休むわけにもいかない。ところが明日は有り難くも秋分の日でお休みだ。
 今日は早めに休んで、明日の朝は少し寝坊をして、体力温存に努めたら、また断捨離の続きといきたい。


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2016.9.18 3連休中日、秋の夜長は読書に限る

2016-09-18 22:13:54 | 読書
 このところ、哀しいくらい読書の時間を捻出出来ず、通院時の記事にサラッと読書メモを書く程度になっている。
 中秋の名月後の三連休、気付けばあっという間に日の暮れるのが早くなり、あの夏の厳しかった暑さもどこへやら、といった風情。不思議なもので、早く暗くなると、夜眠くなる時間も早くなった。涼しくて良く眠れるので、寝ても寝てもまだ寝足りない感じ。
 それでも一旦本を読み始めると、忘れていた新しい本との出会いの感動がまた蘇ってくる。やはり読書はやめられない、と思う。

 今日は、ここ数日で読んだ2冊のご紹介。
 1冊目は角田光代さんのエッセイ「世界中で迷子になって」(小学館文庫)。
 角田さんは小説だけでなく、エッセイも実に面白い。今回は「旅」のエッセイだけだと思って手に取ったのだが、開けてみたら、後半は「モノ」についてのあれこれ。文字通り1粒で2度美味しい気分を味わった。

 「旅に思う」のパートでは“アジアは水の文化で、ヨーロッパは石の文化”という例えに納得する。水に自分を投じれば、ものごとは勝手に動いていく。「何も決めずとも、水の流れる方に身をゆだねていれば、景色は勝手に変わってくれる。目指したところと違う場所に流れ着いている。石はそうはいかない。石の上に座っていても何も動かない。その場から自力で動かなければ、どこにも行きつかないし、景色は何も変わらない。」なるほどな、と思う。

 そして、「モノに思う」では、プレゼント苦悩の話題でマイッタと思うものに共感。服やアクセサリーや本を贈ることの難しさ、怖さに納得する。だからこそ、なるべく消えモノを選ぶというのも道理だ。けれど、結婚祝いを贈ってくれた後に亡くなった編集者から贈られたグラスを見つけた折、遺されたものを見て、品物は残酷なばかりでもないのだ、という角田さんの心の変化に胸を打たれた。
 その人はもういないけれど、でもそこにその人の気持ちがある。祝ってくれた気持ち、培ってきた自分たちの関係がある。消えモノや欲しがっている贈り物は便利だし、どちらも困らないけれど、下手でもいいから消えない何かを贈ろうと思う。いつか自分がいなくなっても、その人が自分を、自分と過ごした時間を思い出してくれるような、何か。・・・と。
 これから大切な人たちとどれだけの時間を過ごしていくことが出来るのだろうか、と常に思っている私にとって、ぐっときた。そして素直に取り入れたいなと思った。

 2冊目は井形慶子さんの「突撃!ロンドンに家を買う」(ちくま文庫)。
 井形さんのロンドンや吉祥寺にまつわる住まいの話も好んで拝読している。今回は、著者と一緒に眠い目をこすりながらネットで家探しをし、弁護士やオーナーと契約を進めているかのようなハラハラドキドキ感であっという間に読了。

 大昔、研修でロンドンにも1ヶ月滞在した。その時にも可能ならばホテルでなくフラットを借りて暮らすことが出来たら・・・などと安易に思っていたけれど、当然のことながらそんな虫のいい話はなかった。同じ研修生で、半年間ロンドンに滞在する女性も家探しには随分苦労していた。そんなわけで、早々に諦めてホテル暮らしを選んだ私だ。

 一生のうち何回も家を買い替え、手を入れながら家の資産価値を増やしていくロンドンに住む人たちにとっての家というものの持つ重み、そして全て自己責任となる契約書の重み。いやはや、ろくに何も考えずに3LDKの公団分譲に住んでいる私には恐れ入ることばかり。こうして自分では経験の出来ないことを、代わりに井形さんが身体を張ってやってくださっている、という仮想体験に心が躍る。そして、いつの間にか手に汗を握って応援している自分がいた。

 この3連休も実家詣は欠かさず。昨日は昼食、夕食とともに過ごしてきた。
 近頃母がストレートに「土日のどちらかは来て欲しい、そして昼か夜かどちらかは一緒に食事をしてほしい」と言い、帰り際になんとわなしに引き止めるようになった。
 以前はもっと遠慮がちで「無理ならいいから・・・」だったのだけれど。そのくらい一人暮らしになった心細さ、切羽詰ったところがあるのだろうと思うと、父の不在の大きさを突きつけられる。

 先週訪れた時は、ここのところ微熱が下がらず貧血が進んで怠くて、とすっかり弱気だった。どうしたものか、と思っていたが、昨日は熱が下がったと随分元気になり、私達と一緒だと食べられると食事も頑張って摂っていたので、安堵した。
 懸案事項だったセキュリティ会社の工事も無事終わり、門や玄関にステッカーが貼られたのを確認し、外出するときに見守り装置にキーを刺すと「留守は○○にお任せください」、外出から戻ってキーを刺すと「お帰りなさい。」と声がかかるのを聞いて、これまたほっとした。

 私もこうして家事を済ませてから本を読んだり、ヨガのクラスに出かけたり、と自分の時間を持つことが出来るようになってきた。ようやく少しずつ通常生活に戻りつつあることを実感する。
 他でもない私の人生、決して後悔しないように、と思うとやはりあれもこれも、になってしまう。そして、断捨離がなかなか進まないのが常に気がかりなことである。
 週明けにはまた通院日が控えている。なるべく長く今の生活を続けられますように。



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2016.9.17 昨今雑感となんだかなあ、の発言から翻って・・・

2016-09-17 23:20:16 | 日記
 初の女性都知事が誕生して一月半余り。民進党でも初の女性代表が生まれ、米国でも初の女性大統領が誕生しそう、と昨今元気な女性の話題が賑やかである。
 女性の一人として、各界における女性たちの活躍はとても喜ばしいことだし、そういう方たちの人知れない努力やバイタリティは賞賛に値するものだ。けれど、雇用均等法施行から30年という長い年月が過ぎても、いまだガラスの天井を打ち破るということは口で言うほど容易いことではないのだろうとも思う。
 まあ女性だから、というよりもつまるところ人としてどうか、というのが一番の問題ではないか。

 ところで、ここでは原則として政治や政治家についての話題は避けるつもりだけれど、かつてその組織の一員として働いていたことのある一人として、築地市場移転問題に関わる元知事の「都庁は伏魔殿」発言には、相変わらずなんだかなあ・・・と思った。また、新代表が旧代表を評して「○○さんはつまらない男」と言い切ったことにも仰け反った。

 つまりは、相手をリスペクトしていたら決して口に出すことが出来ない筈のことを、公衆の面前で言ってしまうのだ!という驚きと言ったらよいだろうか。
 言葉は恐ろしい。不用意な発言は必ず後のち自分に戻ってくるとは思わないのだろうか。公人であるならなおさら、舌禍事件にはご用心である。

 こうして身辺雑記やつれづれに思うことを書いている私も、思わぬところで思わぬ反応を引き起こしているのかもしれない。人様を傷つけるようなことは書かない、何か人様のことを書くときには事前承諾を得てから、と心している。けれど、私が発した言葉の何かが、お目にかかったこともない方の心の琴線に触れ、どう解釈されるかは、こちらが思ったとおりにいかないことも少なからずあるだろう。
 それは私の文章力不足によるものだろうし、相手方の考え方、虫の居所にも拠るだろう。そこまで斟酌することは到底、叶わない。

 今の世の中、簡単に自分の意見を全世界に向けて表明することが出来る。昔だったら、ペンをとって文章を書き、宛名を書いて切手を貼って投函し・・・と何段階も踏んで行わなければならなかった。それはよほどハードルが高いものだっただろう。

 けれど、今はカタカタと両方の指を動かしてキーボードを打ちポチッとするだけで、一丁上がり、だ。推敲したり読み直したり、ということもどれほどされているか判らない。夜中には大事な文章を書かない、と言われたのも今は昔。真夜中に延々と書き込みがあるのも常。公人や芸能人、有名人に限らず、色々なところであっという間に炎上が繰り返されている。

 いつだったか新聞記事で、炎上するような書き込みをするのはごくごく限られた人で、その限られた同じ人が何度もそういう書き込みを繰り返している、という研究結果を読んだ。けれど、書かれた方からすれば、見も知らぬ人からの執拗な書き込みを見せられ続ければ、そう言っているのがごく限られた人で、他の大多数はそうは思ってはいないのだから、とは割り切れず、自分を取り巻く皆から一斉に攻められているような、いわば四面楚歌の状況に陥ってしまうのも無理はないと思う。それこそがネット世界がとても恐ろしいと思われる所以だ。

 いずれにせよ、人間だからこそ与えられた“言葉”という大切なツール。本当に伝えたいことには言霊があると信じたい。だからこそそれぞれが与えられた立場で、責任を持って使っていきたいものである。

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2016.9.16 40年を超えて動くもの

2016-09-16 21:58:24 | 日記
 先日、高校時代に所属していた吹奏楽部のOB・OGバンドからメールが届いた。どのくらい前にお目にかかったか思い出せないくらいすっかりご無沙汰なのに、こうしてメールを送ってくれる1期下のO君は、本当にマメだ。

 12月にOB・OGコンサートがあるそうで、そこでクラリネットパートで参加者が足りなくて困っているという。練習は本番までに1回参加するだけでもいい、初見レベルの方も沢山いるくらいで、とのこと。これからの練習日時と場所などスケジュールが記載してあるほか、全パートの楽譜まで全曲見られるようになっている。

 本当に便利な世の中になったものだ、と思う。
 あれこれバラエティに富んだ曲名が並んでいて、ふと見ると、その中に懐かしいというか、びっくりする曲が入っていた。
 確か中学時代、吹奏楽部に所属していた時のコンクール課題曲だったものだ。とにかく名前の通り、ありとあらゆる技術を駆使させる、これでもかという曲で、皆で泣く泣く練習した記憶がある。

 それでも楽譜を見たら、不思議なことに指が動き始めた。もう何十年も吹いていない楽器だ。おそらく実家に埃を被って置いてある筈の楽器(もしかしたら処分しているかもしれないけれど、何分物持ちの良い母のこと、捨ててはいないと思う。)。指使いなどすっかり忘れていると思っていたのに・・・。思わず笑ってしまった。

 そして、また便利な世の中を確認するためにYou Tubeでこの曲を検索すると、あっという間にプロのウインドオーケストラの演奏を聴くことが出来た。いやとんでもないハイスピードでいとも簡単に吹いているではないか。凄い。指揮者の佐渡裕さんは私と同い年だから、中学時代にこの曲に出会ったのだなあと感慨に浸ることしきり。

 そう、1974年度の全日本吹奏楽コンクール課題曲「高度な技術への指標」である。当時の中学部門金賞校の演奏も難なく聴く事が出来て恐れ入った。本当にこれ、中学生の演奏なのね~としばし思い出に耽った(ちなみに高校部門では金賞受賞校は該当なしだった。)。

 当時中1、まだクラリネットと出会って数ヶ月でいきなり9月のコンクール参加である。夏休みはほぼ毎日朝から晩まで練習に通った。当然1stパートではなかったけれど、威勢の良いファンファーレが始まるやいなや、遠目にはレースのカーテンのように見える8分音符の羅列のメロディーをトランペットがクラリネットに受け継ぎ、どんどんテンポが変わりながらスイングする曲は、吹ける吹けないはさておき、とにかく刺激的で圧倒的に面白かった。

 あれから40年以上。いや~40年経っても身体に沁みこんだことというのは忘れないものなのだ、と改めて感じ入った。

 もちろんこの状況で舞台に乗せて頂く、なんてことはありえませんと丁重にお断りしたのだけれど、多感な時代にある楽器に出会い、いまなお大切に続けている先輩、後輩たちには頭が下がる。継続は力なり、翻って私に数十年も続けてられている大切なものがあるか、と思うとちょっと下を向く。一番長いといえるのが仕事の30年超であるか。あとは妻業が26年半、親業も20年余り。

 せっかくのご縁。日程が合えばこっそりコンサートを聴きに行ってみようかな、と手帳を見たのだけれど、残念ながら先約が入っていた。
 盛会をお祈りしつつ、皆様によろしく、と返信メールを打った。懐かしくも心温まる秋の夜長の出来事である。
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2016.9.12 確かなことはひとつ~不老不死の薬はないということ

2016-09-12 21:59:21 | 日記
 巷では、世界初のがん免疫療法薬オプジーボが1年間投与されると3,500万円かかり、患者の半分が使うと薬剤費全体の2割になる、と喧しい。
 ここまで高額ではないにしても、1回の既定量の点滴が約50万円(3週に1度の投与ゆえ年間17回が必要)、年間フルに投与すれば850万というカドサイラ(T-DM1)を1年半に渡り使わせて頂いている一患者としても、なんとなく肩身の狭い日々を送っている昨今である。

 そんな中、朝日新聞のネット記事 耕論で、心に響いたものがあった。
 製薬会社社長の相良さん、財政学者の土居さん、大学病院のがん看護専門看護師である田村さんの3人がそれぞれ意見を述べておられる。その中で、田村さんの部分を転載させて頂く。

※   ※   ※(転載開始)

耕論 命の値段(相良暁さん、土居丈朗さん、田村恵子さん)(2016年9月12日11時35分)
 高額のがん治療薬をめぐり、薬剤費や医療費のあり方が議論されている。治せる病気は治したいけれど、負担には限りがある。治療や延命にかける費用の「適正」額は存在するのか。

 ■治療、生き方から考えて 田村恵子さん(京都大学大学院教授)
 高価な薬との関連で医療費の問題に注目が集まる機会に、私は人々の目がより根本的なことに向くことを期待しています。それは、命について考えるということです。
 なぜかというと、命について議論することがとても難しいからです。語るにはなにか清廉潔白でなければいけないように思われていますし、家族でご飯を食べながら語り合うこともまれですよね。
 死が迫ってから考えるのでは、こわいだけです。子どものころから人は死ぬものだということを見聞きし、命について考えられるようにしておきたいものです。それができるよう、仕組みを作っていくことも必要だと思います。
 誰しも老いて死ぬという当たり前のことが、医療の進歩とお金の力によって見えにくくなっています。このことも、命に目が向かない要因です。保険が利かない自由診療や最先端の老化防止にはかなりのお金がかかります。受けるのは個人の自由ですが、死や老化が避けられるのではという錯覚が広がってしまわないか、心配です。
 私は長いことホスピスで看護師を務め、今は大学病院でも働いています。がん治療を終え、地域に戻る患者さんが増えています。病院でできることには限界があるので、1年前からがん体験者が交流できる場所を、町屋を借りて開いています。生活に密着した形であれば、命について考えやすいと思ったからです。
 約束事もない、自由な場です。「こんなふうに考えたらええんやな」と気づき、自分なりに命への向き合い方をつかみ取ってもらえたら。地域のなかで知恵が積み重なっていけばと、やっています。
 薬についていえば、病状や病気の進行について平易な言葉で患者さんの理解を確認しながら説明していくことで、患者さんの薬の選び方は変わる気がします。長い目で見れば薬を使っても使わなくても、先の状態が変わらないことはよくあるからです。
 それから、人生の終わりを見定めて逆算して考えることも大切です。死を考えることは、生きる感覚を高めることにつながる。そうするなかで、自分で納得して積極的な治療をやめる人もいます。
 公的に受けられる治療の範囲は、個人ではどうしようもできません。ですから、毎日を心地よく暮らしていくことを考える方がいい。日々の暮らしが豊かになれば、命も豊かになります。
 結局は生き方の問題なのではないでしょうか。最新の薬を使う方が自分らしいのであれば、使えばいい。反対に、そうした薬にしがみついたら、そこだけなんだか自分の生き方と違うなと思う人もいるでしょう。
 確かなことはひとつ。不老不死の薬はないということです。(聞き手・北郷美由紀)
     *
 たむらけいこ 57年生まれ。がん看護専門看護師。25年間、ホスピスケアに携わる。著書に「余命18日をどう生きるか」。

(転載終了)※   ※   ※

 そう、つまるところ、治療の選択は生き方の問題なのである。不老不死の薬はないというのは厳然たる事実。生まれてきたからには死んでゆかなければならない。

 我が家では、田村さんがおっしゃっているような、家族と食事をしている時間に命の話をするのは稀、というわけではない。こういう病気と長く共存していると、どうしても命の話と無縁でいられない。夫や息子は、本音のところ私が病死することについて聞きたくないのかもしれない、あるいは、口にするのを遠慮しているかもしれない。けれど、私は自分の命の話題をわりと日常的に口にしてしまっている。

 母方の祖父が胃がんと肺がんのため、我が家で亡くなったのは今から50年近く前、私が小学校低学年の時のこと。
 今、父の遺骨を置いている和室にベッドをおいて祖父がおり、祖母が看取った。既に手術は終えて、自宅療養中だったから最期はとても苦しんでという状況ではなく、静かに息を引き取った。当時、抗がん剤治療をしていたのかどうか、私は知らない。近くのクリニックの先生が往診にいらしており、死亡診断書を書いてくださったと記憶している。

 祖父はまだ60代前半だった。末娘で可愛がられた30代前半の母のショックは大きく、その取り乱した様子はありありと覚えている。当時の私が肉親の死というものをどこまでわかっていたか、といえば心もとないが、人はいつか息をしなくなって亡くなるのだ、ということはなんとなく肌で感じていたと思う。

 その後、中学2年の時に従兄と父方の祖母が、高校2年の時に母方の祖母、父方の祖父が相次いで亡くなった。
 従兄と祖母2人の3人は病院で、祖父は朝起きてこないので部屋に行ってみると亡くなっていたという最期だった。 通夜や告別式もすべて祖父母宅で行ったので、斎場で全てを執り行うのが一般的になった現在よりも死が身近だったように思う。

 それから30年以上の空白期間を経て、3年前に義母を、2ヶ月前に父を見送ったわけだけれど、健康に暮らしている人たちにとって、生と死はかつてよりも日常生活と切り離されている感がある。

 父を見送った後、インドという国を旅して、生と死がごく隣合わせにあること、人は生きているのではなく、生かされていることを強く感じた。そして、親として最後に子どもにしてやれることは、いかに死んでゆくかを(子どもに)見せることなのだ、と痛感した。
 凡人である私にとって、大それたことは何ら出来ないのは当然だけれど、私なりにその精一杯の生き様を見せ、その死に様も見せることは出来る筈である。千葉敦子さんの言葉ではないが、“よく死ぬことは良く生きること”なのであると思う。

 これまで最新の薬で命を繋ぐことが出来ている私だけれど、薬の効力が永遠に続くわけではない。仮に細く長く効いてくれたとしても、必ずや終わりの日は来る。
 田村さんがおっしゃるように、最新の薬を使い、生き長らえることが自分らしいと思えるうちは使い、どんなに高額でも・・・としがみつくのがもはや自分らしくないと思う時が来たら(具体的には保険適応以外の薬を使うという選択肢だろうか)、後は薬に頼ることなく、生かされている期限を潔く精一杯生きる。

 だからこそ自分らしく精一杯日々を大切に、頂いた命を無駄にすることなく暮らしていきたいと思うのである。
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