散日拾遺

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旧交/松山城と冠岳さん

2013-08-18 13:11:46 | 日記
2013年8月17日(土)

夕方、I君宅へ招待にあずかる。
本籍が愛媛といっても住んだことがないから、親戚以外の知り合いはほとんどいない。その松山に親しい知り合いができたのは、思いがけない出会いと再会の結果というもので。

一度目の大学でアイデンティティ拡散を起こして医学部へ行き直すことにし、まずは予備校に籍を置いた。そこで当然ながら出身高校の後輩達に出会うことになる。その一人がI君だった。少々やんちゃで人好きのするI君とは、漫画の貸し借りをしたり、勉強の合間に映画を見に行ったり、高校時代に戻ったようなつきあいをした。

その後I君は長野県の医科大学に進み、僕は東京なので会うこともなかった。卒業したI君が僕の母校の研修医となって6年ぶりに一瞬再会したが、お互い忙しい盛りで旧交を温めるゆとりがなかった。以来四半世紀余、I君が何と松山で開業していることを知ったのは、昨夏のことである。後輩グループの中でも随一の勉強家だったY君が看護大学の教授になり、放送大学の教材作成を担当していると知らせてくれた。やりとりの中で、I君のこともあわせて知れたのだ。

I君は東京生まれの東京育ちである。その彼が遠く伊予松山に居つくことになったのは・・・他の理由ではあり得ない、偉大なる愛の力 powor of love だ。松山出身の女性と縁を結び、彼女とともにこの地に移ったのである。

昨年来の申し出を忘れず招待してくれるのに甘え、一家5人で厚かましくも押しかけた。お料理自慢のI夫人が三日がかりでも食べきれないほどの御馳走を準備し、二人の御子息とともに皆で歓待してくださった。御長男は今春医学部を卒業し現在ローテート研修中、医学部三年の当方の長男と話が弾んでいる。
「でも、子どもは出て行くんですよね、最後は二人になっちゃうんですね」とI夫人。
「二人になれたら幸せですよ、一人じゃなくてね」
と即答してしまい、そこから日々の診療風景に話が広がった。

しっかりと二人で生きている、I君御夫妻が頼もしい。

*****

2013年8月18日(日)

朝、飛び地Kの草刈り。
夏草の勢いはすごいもので、こればかりは機械の力を借りなければ手にも足にも負えない。父と次男と三人で、たっぷり汗をかく。刈り残しがまだまだあるが、八月の太陽とまともに取っ組み合っては体を壊すばかりだ。

午後、県美術館へO君の御先祖の絵を見に行く。常設展の中に今日まで出ているらしい。
県美術館は松山城公園の一画にある。久しぶりにお城を正面から見上げ、ほう、と唸った。味わい深い、きれいな城だ。
標高134m、道後平野の中に浮かぶ島のような城山の頂に、城郭が控えめに連なっている。名古屋城・大阪城や姫路城といった多層の天守閣を「城」の原型とするなら、松山城の人為の薄さは物足りないようにも見える。それが不足でたいした誇りにも思わなかったが、緑豊かな山全体を天然の基層と見れば、この平山城はそれを見事に生かした傑作である。こちらが不明だった。

 春や昔 十五万石の城下かな(子規)

それだけに駐車場のこの不備はいただけないと、父の口吻に納得しながら美術館へ。広い芝生では中学生のグループがいくつか、ダンスの練習に余念がない。
美術館、本日の目玉は「松本零士展」、そちらもさほど人は集まっていない。ひんやりした2階の常設展、入ってすぐ目当ての冠岳さんに出会う。
沖冠岳(?-1876)「浅草観音堂奉納の豊干禅師の額などで知られる、幕末の狩野派画家」とコトバンクにあるが、土佐出身というのはあからさまな誤りで実は今治の人、前にも記した通りO君と令兄の感受性はこの御先祖様に由来する。

合計7点、画題を順に列記する。
「梅狗」「旗幟図」「鶴・虎・獅子図」「四季花鳥図 双幅」「百猩々図」「菊池武光像」「虎之図」

僕には絵を正しく表現する語彙がないが、勇を鼓して言葉にするなら、いずれも輪郭鮮明で美しく、少しも古さを感じさせない。
画像を掲載したいのはヤマヤマなれど、マテリアルがないので致し方ない。インターネット検索では最初の「梅狗」がひっかかってきた。梅の枝の下で親犬に子犬が数匹戯れている、ほっとするような絵である。
「鶴・虎・獅子図」の前では数人のグループが、美術館員の司会のもとで感想を語り合っていたが、これは美術館の企画としてはどんなものだろうか。新しみのない平凡な感想が異口同音に繰り返されるのも耳ざわりなうえ、ずっとそこを動かないので僕らはこの絵を近くから見ることができない。

その代り、「百猩々図」が面白かった。
「猩々」は中国の伝説上の動物で、大猿様のものであるが人語を解し、かつ酒を好むという。(「酒」は日本で付け加えられた特徴らしいともある。)顔が真っ赤で「猩々緋」という言葉もそこから起きた。

その真っ赤な猩々が百匹あるいは百頭、「匹/頭」というにはあまりにも人間らしい様子で、山間から行列を為して降りてくる。中の何人かは彼らの体色と同じ緋色の大杯を頭上にかつぎ、前面に描かれた大甕に先着した二、三人は、甕から汲みだされた酒を大杯で飲み干して酔いつぶれている。春風駘蕩というか、芳香爛漫といおうか、愉快な哄笑が画幅から響いてくるようである。

この絵を含め、明治4年前後に描かれ今治藩の所蔵にかかるものが多いようだ。
明治4年は廃藩置県・秩禄処分の年である。武家の周辺はめでたく酔いつぶれる陽気ではなかったろう。
その中でこれを描いた冠岳さんという人に、大いに関心をそそられる。

***

先にも書いたように個性雑多な8つの藩を糾合して作りだされた愛媛県は、そもそも全県一体といった盛り上がりの素地が乏しい。そのせいもあろうか政治的には影が薄く、四国四県中で唯一、総理大臣を出していない。しかし芸術家・作家の類には事欠かず、正岡子規から大江健三郎に至るまで売るほど輩出している。

ここにもひとり、美味しそうな伊予人が見つかった。