散日拾遺

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今年もお盆の里帰り ② ~ 四国へ渡る

2013-08-14 20:00:00 | 日記
2013年8月14日(水)

朝食をすませ、10時前に四国へ向けて出発。

四国へわたるルートは三つ、東から順に淡路・鳴門(神戸淡路鳴門自動車道)、児島・坂出(瀬戸中央自動車道)、尾道・今治(しまなみ海道)である。それぞれに良さがあり捨てがたいが、最近は往路が瀬戸中央、復路がしまなみ海道と決めてある。

瀬戸内海は良い。こんなに静かな海はない。
その海の中に橋を架け、本州と四国を結ぶという発想の壮たること、しかも三本同時に!
これを成し遂げた技術力と組織力、そしてその志の大きさに素朴な驚きを禁じ得ない。後世がどう評価するかは分からないけれども。

橋上から両側に海を望むとき、毎年のことながら家族一同、静かな歓声をあげる。頑固に車で長駆帰省する理由のひとつが、実はこれなのかもしれない。与島SAで讃岐のうどんを食べ、済美が三重を9対7で振り切ったのを聞きながら四国へ入る。
幸い渋滞にもかからず、午後4時には目的地に着いた。
一昨日は東京から503㎞。今日は松山まで365㎞、一年の日数を数えて走ったようだ。

大合併で松山市になったが、人口では四国最大の同市の中心から北へ20㎞、インフラ整備もままならない田舎である。僕の頭の中ではいまだに北条市、母などにとっては温泉郡河野村が「本名」というところ。その名から分かるように、河野水軍の本拠がこのあたりだった。

両親の里は山一つ隔てた別の集落だが、ともに高縄山(986m)の西の山麓が海に滑り込んでいく斜面にある。隔てる山の一画が「河野塚」と呼ばれ、小史跡となっている。こんな山に、なぜ水軍の根城があったかと思うが、千年も前には沖積が進んでおらず、今は4㎞も西にある海岸がずっと近くまで来ていたらしい。そうなると見晴らしの良い高台は、格好の物見というわけだ。

水軍その実は海賊?それでも河野氏は元寇の際、大いに名を挙げた。
北条時宗指揮下に奮戦した河野通有(こうの・みちあり)は、牛をゲンコツで殴り倒したという大山倍達(おおやま・ますたつ)みたいな逸話のある豪傑だ。踊り念仏で知られる時宗の祖、一遍上人が河野氏の出であることは、意外に知られていない。
大名としての河野氏は57代続き、秀吉の四国平定の際、小早川氏の傘下に入って事実上消滅する。一族の来歴を記したとされる『予章記』は、鉄人伝説などを記した室町時代の奇書だそうだ。

さて、休養。
日中は東京同様の猛暑だが、朝夕の涼しさは田舎の賜物である。
このしっとりとした涼しさは、便利な場所では味わえない。