2013年8月12日(月)
kokominさん、たいへん失礼しました。
沖縄についての第一の投稿は、kokominさんだったのですね。
以後、気をつけますので、どうぞこれに懲りずコメントをください。
***
さてさて、僕はめでたく今年も夏休み入り。
「安息」の時を確保するのは神の掟だからね。休暇はちゃんと取らなければ。特にお正月とお盆は、「常民」の大事なおつとめだ。
うちの田舎では「野良の節句働き」などといって、休むべき時に仕事することを戒めていたらしい。
もっとも、「お盆は地獄の釜も閉じるんだから」といっても、最近は「へぇ、そうなんですか~?」と物珍しそうに聞かれて困る。僕もそっちは詳しくないんだけれど。
で、今朝は4時30分起き。家内と次男・三男、それに夜逃げ風の大荷物を愛車 Odyssey に詰め込んで5時過ぎに出発した。6時までに高速道路に入れば料金が割引になるから、この日ばかりは早起きする。
首尾良く6時15分前に東名料金所を通過、同じ思惑のトラック野郎どもが、料金所を入ったところで車を停めているのもいつもの風景。ともかく入っておいて仮眠をとる様子。さぞ眠かろう。
いつになく混んでいるのは、むろんお盆の帰省ラッシュが始まっているからだ。関東各地のナンバーを付けた車が一斉に西へ向かっていく。そもそも「お盆」とは何なのか、意識している人は多くはなかろう。「お盆」は今や、なけなしの夏の休暇をとって里帰り行動を起こす「鍵刺激」になっている。
時差出勤ならぬ日差帰省を導入すれば混雑は避けられる理屈だが、不思議にそうはならない。あくまで帰省は「お盆」にするものだ。
そういえば、アメリカ滞在中に中国人の女性技官から、「日本にはハロウィーンに似た祭日があるでしょ」と言われた。何のことか分からず、話しているうちにお盆のことらしいと気づいた。祖霊が家々に戻ってくることと、ケルトの他界から有象無象が地上に出てくることを重ねていたらしい。
この観察がどれだけ当たっていてどれほど外れているか、未だによく分からないが、少なくともハロウィーンと帰省は結びつきにくいね。
多くのアメリカ人にとって「帰省」と最もかかわりが深いのは、Thanksgiving ではなかったかと思う。クリスマス以上に、家族と共に過ごすことが強調される季節だった。帰国しない僕らを気遣って、家族のディナーに呼んでくれる人々が毎年あった。
***
御殿場で新東名に入ると、途端に風景が一変した。
広く新しい道路はカーブが少なく快適である。車の密度がぐんと下がって運転しやすい。気がつくと時速130㎞以上出ていて、あわててアクセルから足を離す。感覚というのは簡単に騙されるものだ。
旧東名を西へ向かうときは、酒匂川を序として富士川、安倍川、大井川、天竜川と川を数えながら行ったものだ。新東名は山よりを直進してトンネルも多いためか、富士川や安倍川はいつの間にか過ぎてあっという間に大井川、7時半には浜松に達していた。
この分だと記録的な早さで、昼食前に目的地に着くかと思えば、そうは問屋がおろさない。三ヶ日で旧東名に戻った直後から混み始め、伊勢湾岸道路はしっかり渋滞。土山のSAは混雑しているので給油だけで通過し、次の甲南PAでおにぎりや鯖寿司の昼食。茨木あたりの渋滞はさほどでもなく、目的地に無事到着は14時半。この時期の移動としては、まず大過なしというべきか。
息子たちが小さい頃は、川や町や史跡を通り過ぎるごとに講釈を垂れた。静岡の茶畑、電柱のような高い柱の上で扇風機が回っているのは何のためか。焼津の名の由来は何か。富士市の煙突群は何の工場のものか、等々。
静岡から愛知に進むにつれモードは戦国物語に変わり、今走る道は今川義元や武田信玄が上洛を目ざしてたどり、いずれも果たさなかったルートであること、日本のホスピスの草分けのある三方原がこれにまつわる古戦場であること、そこで一敗地にまみれた徳川家康がとった行動、道沿いの岡崎市はその家康の誕生の地であり、今は国内第一級の科学研究所が建設されていること、云々。
こちらは調子よく講談師のように語り、息子たちは神妙に聞いているが、一年後には概ねゼロに戻っていて、「茶畑の扇風機は・・・」から再開するの常だった。初めの頃はずっと東名で関西に入ったが、ここ数年は伊勢湾岸道路から鈴鹿越えである。道路が新しくて走りやすく名古屋港の眺めが良いうえ、時間的にもいくらか早いからだが、この方が本来の東海道筋であることも楽しみを添えている。焼きハマグリの桑名もこの筋だ。関ヶ原の戦いは山よりの裏街道で行われたものだが、東海道本線・新幹線も東名高速も裏街道を通っているから、現代日本人にはこちらが本筋になっている。
ついでに戦国ウンチクを重ねるなら、本能寺の変の際に境を見物していた家康は、凶報に接して直ちに浜松へ急帰する。何より恐い落ち武者狩りを避けての間道づたいで、そのルートはやはり鈴鹿・伊勢であった。この時、伊賀・甲賀の忍者に援助の功あり、後に徳川幕府に取り立てられるもとになったという。途中まで行動を共にした穴山梅雪(武田信玄の弟)は、家康と別れた後、落ち武者狩りの手にかかってあえなく最期を遂げた。
関西に入れば話題の種はさらに事欠かないが、高速道路から見えるものは限られている。標識の絵から、湊川の別れや山崎の合戦、高山右近のことなどを何度目かに話すうちに着くというわけだ。
***
僕は運転が下手、というよりも体の使い方がまずいのだろう。運転後はひどく肩が凝る。順調な走行であっても肩凝りは避けがたい。30歳年上の父は、今でも運転がまったく苦にならないんだそうだ。
これって修行の問題かな、それとも・・・?
kokominさん、たいへん失礼しました。
沖縄についての第一の投稿は、kokominさんだったのですね。
以後、気をつけますので、どうぞこれに懲りずコメントをください。
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さてさて、僕はめでたく今年も夏休み入り。
「安息」の時を確保するのは神の掟だからね。休暇はちゃんと取らなければ。特にお正月とお盆は、「常民」の大事なおつとめだ。
うちの田舎では「野良の節句働き」などといって、休むべき時に仕事することを戒めていたらしい。
もっとも、「お盆は地獄の釜も閉じるんだから」といっても、最近は「へぇ、そうなんですか~?」と物珍しそうに聞かれて困る。僕もそっちは詳しくないんだけれど。
で、今朝は4時30分起き。家内と次男・三男、それに夜逃げ風の大荷物を愛車 Odyssey に詰め込んで5時過ぎに出発した。6時までに高速道路に入れば料金が割引になるから、この日ばかりは早起きする。
首尾良く6時15分前に東名料金所を通過、同じ思惑のトラック野郎どもが、料金所を入ったところで車を停めているのもいつもの風景。ともかく入っておいて仮眠をとる様子。さぞ眠かろう。
いつになく混んでいるのは、むろんお盆の帰省ラッシュが始まっているからだ。関東各地のナンバーを付けた車が一斉に西へ向かっていく。そもそも「お盆」とは何なのか、意識している人は多くはなかろう。「お盆」は今や、なけなしの夏の休暇をとって里帰り行動を起こす「鍵刺激」になっている。
時差出勤ならぬ日差帰省を導入すれば混雑は避けられる理屈だが、不思議にそうはならない。あくまで帰省は「お盆」にするものだ。
そういえば、アメリカ滞在中に中国人の女性技官から、「日本にはハロウィーンに似た祭日があるでしょ」と言われた。何のことか分からず、話しているうちにお盆のことらしいと気づいた。祖霊が家々に戻ってくることと、ケルトの他界から有象無象が地上に出てくることを重ねていたらしい。
この観察がどれだけ当たっていてどれほど外れているか、未だによく分からないが、少なくともハロウィーンと帰省は結びつきにくいね。
多くのアメリカ人にとって「帰省」と最もかかわりが深いのは、Thanksgiving ではなかったかと思う。クリスマス以上に、家族と共に過ごすことが強調される季節だった。帰国しない僕らを気遣って、家族のディナーに呼んでくれる人々が毎年あった。
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御殿場で新東名に入ると、途端に風景が一変した。
広く新しい道路はカーブが少なく快適である。車の密度がぐんと下がって運転しやすい。気がつくと時速130㎞以上出ていて、あわててアクセルから足を離す。感覚というのは簡単に騙されるものだ。
旧東名を西へ向かうときは、酒匂川を序として富士川、安倍川、大井川、天竜川と川を数えながら行ったものだ。新東名は山よりを直進してトンネルも多いためか、富士川や安倍川はいつの間にか過ぎてあっという間に大井川、7時半には浜松に達していた。
この分だと記録的な早さで、昼食前に目的地に着くかと思えば、そうは問屋がおろさない。三ヶ日で旧東名に戻った直後から混み始め、伊勢湾岸道路はしっかり渋滞。土山のSAは混雑しているので給油だけで通過し、次の甲南PAでおにぎりや鯖寿司の昼食。茨木あたりの渋滞はさほどでもなく、目的地に無事到着は14時半。この時期の移動としては、まず大過なしというべきか。
息子たちが小さい頃は、川や町や史跡を通り過ぎるごとに講釈を垂れた。静岡の茶畑、電柱のような高い柱の上で扇風機が回っているのは何のためか。焼津の名の由来は何か。富士市の煙突群は何の工場のものか、等々。
静岡から愛知に進むにつれモードは戦国物語に変わり、今走る道は今川義元や武田信玄が上洛を目ざしてたどり、いずれも果たさなかったルートであること、日本のホスピスの草分けのある三方原がこれにまつわる古戦場であること、そこで一敗地にまみれた徳川家康がとった行動、道沿いの岡崎市はその家康の誕生の地であり、今は国内第一級の科学研究所が建設されていること、云々。
こちらは調子よく講談師のように語り、息子たちは神妙に聞いているが、一年後には概ねゼロに戻っていて、「茶畑の扇風機は・・・」から再開するの常だった。初めの頃はずっと東名で関西に入ったが、ここ数年は伊勢湾岸道路から鈴鹿越えである。道路が新しくて走りやすく名古屋港の眺めが良いうえ、時間的にもいくらか早いからだが、この方が本来の東海道筋であることも楽しみを添えている。焼きハマグリの桑名もこの筋だ。関ヶ原の戦いは山よりの裏街道で行われたものだが、東海道本線・新幹線も東名高速も裏街道を通っているから、現代日本人にはこちらが本筋になっている。
ついでに戦国ウンチクを重ねるなら、本能寺の変の際に境を見物していた家康は、凶報に接して直ちに浜松へ急帰する。何より恐い落ち武者狩りを避けての間道づたいで、そのルートはやはり鈴鹿・伊勢であった。この時、伊賀・甲賀の忍者に援助の功あり、後に徳川幕府に取り立てられるもとになったという。途中まで行動を共にした穴山梅雪(武田信玄の弟)は、家康と別れた後、落ち武者狩りの手にかかってあえなく最期を遂げた。
関西に入れば話題の種はさらに事欠かないが、高速道路から見えるものは限られている。標識の絵から、湊川の別れや山崎の合戦、高山右近のことなどを何度目かに話すうちに着くというわけだ。
***
僕は運転が下手、というよりも体の使い方がまずいのだろう。運転後はひどく肩が凝る。順調な走行であっても肩凝りは避けがたい。30歳年上の父は、今でも運転がまったく苦にならないんだそうだ。
これって修行の問題かな、それとも・・・?