散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

読書メモ 006 『不連続殺人事件』

2013-08-03 11:54:07 | 日記
2013年8月3日(土)

かつて坂口安吾が推理小説を書いたのだ。
モノグサなので、詳細は Wiki をコピペしてすます。

初出は、1947年(昭和22年)8月1日に大地書房から発売された雑誌『日本小説』で連載された[1]。同誌は「初めての中間小説雑誌」と呼ばれる。推理小説ファンの坂口が「絶対犯人を当てられない探偵小説を書く」と意気込み、犯人当て懸賞小説として連載中に懸賞金を出すことを読者に告知し、大井廣介、平野謙、荒正人、江戸川乱歩らの文人らを指名して挑戦したことでも話題になった。なお、4人の読者が犯人推理について完全答案を提出している。

この小説は江戸川乱歩が絶賛し[1]、1949年(昭和24年)、第2回「探偵作家クラブ賞」(現在の日本推理作家協会賞)長編賞を受賞した[1]。文芸評論家の七北数人は、本作は文学性を排除し、ゲーム性を重視した文体に貫かれていることを指摘している[1]。

異議あり!
なるほどゲーム性を重視してはいるだろうが、安吾一流の歯切れの良さと描写の鮮やかさは、「文学性を排除」といっては言い過ぎだ。
僕は『二流の人』の大ファンなんだよ。
安吾を教えてくれたのは、直前のメールに出てきた旧友Mだった。

この小説をめぐっては、逸話がある。
「4人の読者が犯人推理について完全答案を提出している」とあることに関連するのだが。
法学部の時代に、これまたMと並んで受講した「ローマ法」は思い出深い講義だった。
講じてくださったK先生には卒業後もよくしていただき、30年を超える御厚誼にあずかった。

このK先生の御嬢さんがまた大変なインテリであるが、話のポイントはそこではない。
1980年代前半のある日、用事で御嬢さんとお目にかかる機会があったところ、通りすがりの本屋の前でふと何か思いつかれた様子。
「面白いものを御覧にいれます」
とおっしゃって文庫本のコーナーに入って行かれる。
「この本ですが、」
と取り出されたのが『不連続殺人事件』。
「御覧になって『あっ!』とおっしゃらなかったら、今日は私のオゴリです。」

「ラッキー!」と内心ほくそ笑む。
「えっ!」とか「ギャッ!」とか言えばいいんじゃん、タダ飯ゲットね。
そして開かれた287ページ、

「あっ!」
「ほほほ、」と御嬢さん。

「犯人さがし懸賞」正解者発表
一等 完全正解(95点)賞金一万円
東京都○○区○○ △番地
KT氏

まぎれもない、K先生のお名前がそこにあった。
「あっ」と言ったら僕のオゴリ、としなかったのは、せめてもの救い。

*****

しばらくしてこの一冊を購入したのは、懐かしさと共に対抗心の為せるわざであったこと、いうまでもない。しかし時間というのはどういうカラクリのものか、「そのうち」と先延べするうちすぐに四半世紀経ってしまった。
なぜかふとやる気を起こしたのが一昨日の夜、A4の紙2~3枚に克明にメモを取り、推理小説をこんなに真剣に読んだのは間違いなく初めてだ。

暗中模索の末、昨夜ふと思いつくところがあって。
犯人の正体にほぼ想到し、そういえばクリスティの「スタイルズ荘の怪事件」でも似たことがあったなと考えた。
全ての疑問が解消したわけではないが、骨子を説明できればまずは良かろう。
あらためて先を読み進め、おおむね正解、ああよかったと安堵した。

応募総数が明記されていないようだが、書きぶりからは3ケタの来信があったものか。
正しく犯人を推定した者は8通、7件の殺人のすべてについてその動機を説明できたものは4通とあり、僕も8人のうちには入れた理屈だが、しかし、K先生のような模範答案は書けそうにない。

「特にK氏はその他のあらゆる細部にわたってメンミツ適確をきわめ、一分の狂いもなく、他の三氏にややまさっているので、氏を最上席とした。(他の)三氏は甲乙つけがたい」と安吾自身の講評。

あらゆる細部にわたってメンミツ適確をきわめ、一分の狂いもなく・・・K先生のお姿が彷彿される。
御存命中に「私も当てましたよ」と言ってみたかった。
昭和22年の一万円は大金だ、先生、何に使われたのかな・・・





読書メモ 005 『人が人を裁くということ』

2013-08-03 11:50:38 | 日記
2013年8月2日(金)続々

ちゃんと本を読み終えてから考えを整理してメモを書こう
・・・などと思うから、三日坊主になるんだね。

むしろ、手に入れたらまず、メモを掲げてしまったらどうだろう。
後々、読むにつれ考えるにつれて書き足せばいいんだから。
ブログって便利だな~、よし、それではさっそく。

小坂井敏晶『人が人を裁くということ』岩波新書 1292

これは、ある患者さんの推薦だ。
推薦者はもともと社会科学系の研究者で、今はアルバイトで食いつなぎながら旺盛な読書を続けている。ときどき面白い本や食べ物屋を推薦してくれる、そのひとつだ。
筆者は僕とほぼ同年の愛知県生まれ、名古屋の路上ですれ違ったりしたのかな。
1994年、僕がアメリカへ留学した年に彼はフランス国立社会科学高等研究院を修了し、現在はパリ第8大学心理学部の准教授とある。
すごいな、カッコいいな。

さて、同書は裁判員制度に関する「誤解」の修正から説き起こし、自白と冤罪の問題を経て、標題のように「裁く」ことの本質論に立ち入って考えているらしい。昨日、三省堂の二階でパラ見して、それで十分なら買わずに帰ろうと思ったが(むやみに本を増やすのは、自炊の時代さすがに避けたいからね)、買う気になったのは次の一節が目に入ったからだ。

・・・国家の代理人である裁判官ではなく、市民が判決を下すという基本構図は同じでも、「市民」の意味が英米とフランスでは大きく異なる。
 英米はともに多民族・多文化を束ねる連邦国家だ。アメリカ合衆国が建国時以来の移民国なのは誰でも知っている。しかしイギリスが、イングランド・ウェールズ・スコットランド・北アイルランドという四つの異なる文化共同体の連合である事実はしばしば忘れられている。外国移民の統合の仕方にも多民族・多文化主義が反映され、普遍主義を採るフランスのように言語・文化の均一化政策が採られない。そのため、英語をほとんど話さない人々ばかりが集まって住む地域も少なくない。
 ところで、文化的多様性を保つ複合共同体では、中央権力はよそ者と見なされやすい。イギリス陪審制の背景には、王権に対する地方豪族の権力争いがあった。自分たち(の?)共同他の紛争を中央権力によって処理される反発から、陪審制度が導入されたのである。

ものごとのなりたちを、こんなふうに説明されればわかりやすい。
読み手の直観だが、読み進めていくにつれ、必ずしも同感できない内容が出てくるのではないかと思われる。
その点も含め、この夏の一冊に加えようと決定。

それにしても、720円+税ですか・・・
旧友のMは早熟な都会っ子で、「百円玉3枚もって本屋へ行って、岩波新書を2冊買って帰るのが中学時代の楽しみだった」とホザいたものだ。
今は昔、1970年代前半の話である。今や価格は5倍に近い。
活字離れも進むだろうよ。


依存症予防ブログ/死生観とユーモア

2013-08-03 09:34:57 | 日記
2013年8月2日(金)続き

朝刊一面の見出しは、「ネット依存 中高生52万人」
厚労省研究班調査、全国264校から得られた約10万人の回答からの推計とある。
さもありなん、驚きもしないのが考えてみれば大きな問題なのだな。

ここで使われた8項目の質問票を転記してみる。

① ネットに夢中になっていると感じているか
② 満足のため使用時間を長くしなければと感じているか
③ 制限や中止を試みたが、うまくいかないことがたびたびあったか
④ 使用時間を短くしようとして落ち込みやイライラを感じるか
⑤ 使い始めに考えたより長時間続けているか
⑥ ネットで人間関係を台無しにしたことがあるか
⑦ 熱中しすぎを隠すため、家族らにうそをついたことがあるか
⑧ 問題や絶望、不安から逃げるためにネットを使うか

8項目中、5項目以上にあてはまれば、ネット依存の疑いありと判定する。
そのように判定された割合が、中学生の6%、高校生の9%に及んだということだが、
もちろんこれはメヤス、いわゆる氷山の一角であって、水面下の問題の広がりが重要なのはみな承知。
とはいえこれは都市化とIT化の必然的な結果というもので、町に住んで便利を求めることを諦めないまま問題を解決しようというのは、マクロレベルでは無理な相談だと僕には思われる。
もっとも、いまでは物理的な「田舎」にも、機能的な「都市化」が進んでいるけれどね。

それはさておき、この「8項目質問票」は安直なように見えてけっこう深い背景がある。
たどっていけば、アルコール依存症の膨大な臨床経験にさかのぼるものだ。
たとえば⑤などは、「一杯だけと思って飲み始めるが、一杯飲んだが最後、つぶれるまで飲まずにはすまない」という現象に相当し、要するに当該行動に対するコントロールの喪失を意味している。
各項目を随時/随事に書き換えて使われているし、使えるんだよ、これは。

そういえば下記の箴言は、最近マイブームの利休さんに帰せられていなかったかな、
一杯は、人、酒を飲む
二杯は、酒、酒を飲む
三杯は、酒、人を飲む

*****

依存症の病理は、実は人間性の深みに根を下ろしている。
精神科医になりたての頃は、とても思いの及ばないことだった。

深い話は僕にはできないが、基本的な治療論の問題として「依存をやめ(させ)る」というアプローチは概して難しく、心理的にもつらいことのように思われる。
「Aに対する依存を、Bというヨリ生産的な対象への依存で置き換える」
といったほうが、現実的であるようだ。

それというのも、依存症はしばしば「凝り性」とか「やりだすと徹底的にやらなければ気が済まない」といったこと、強迫性や完全主義の問題とつながっているからだ。ほどほどに、良い方向に向かえば、人をも身をも大いに利するこの傾向が、度を越えて、妙な方向に進んだ結果、人をも身をも滅ぼしてしまうのが依存症である。ひとつの対象を禁じれば、早晩、別の対象を発見するだろう。

お察しの通り、これは他人事ではない。僕自身が依存症への危険な性向を強く抱えている。
ふりかえって背筋が寒くなるほど危ない時期も、過去にはあった。
遠い話ではなく、今も日々さらされている危険である。

このところブログに入れあげているのも、
「より生産的な対象へ意図的に時間とエネルギーを投入する」
という予防的な意味があるんだろうな。
明敏な家人はそれを見通して、「朝ごはん前だけにしとけば~?」とニンマリやんわり突っ込んでくる。

「いや、ほら、ブログは多目的ツールでさ、これを書くこと自体、仕事の大事な一部なんだよ」

ほらほら、合理化が始まった・・・

*****

診療先へH先生から電話をいただく。
この冬あたり、同先生の研究所で「死生学」について話してみないかとの打診だ。

高いところから他人様に話して聞かせる蓄積はないが、自分の勉強の機会としてありがたく活用させていただきたい、そのようにお答えする。
本心である。

まずはタイトルを決めてお知らせしなければならない。
診療の合間に、あれこれ考えてみる。

結びめとしての死生観
何の結びめ?
個人と世界の/個人と歴史の/
個と超越者の

言葉の意味
言葉の不在

大きな喪失体験と大きな防衛操作 ~ 否認と躁的防衛

ユーモア

そうだ、ユーモアが大切だ!

Y先生がお母様を亡くされた。
言葉足らずのお見舞いメールに、返信をいただいた。

> 本人は、最後までユーモアを忘れずに希望を持って生きておりました。

素晴らしい、どんなふうに?
少し日が経ったら、そっと伺ってみよう。