散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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日曜日の風景

2013-08-04 23:52:17 | 日記
2013年8月4日(日)続き

佐野陽子さんがジャガーを衝動買いした話をアップしておいて、
清々しい朝の空気の中を教会へ

教会学校の合同礼拝は午前9時開始、
9時10分に着けば、ちょうど次男が話し始めるところだろうと読んで、
もくろみ通り9時10分ぴったりに礼拝堂を見下ろす3階席に身を潜める。
何と次男の話はまさに終わろうとするところ、進行早すぎだろ!
声をあらためて結句を告げる、そこだけが耳に入ってきた。

「神様は必ず、一人一人にふさわしい役割を与えてくださる。
そして、役割を果たす力をも与えてくださる。だから大丈夫。」
子供たちに笑顔で語って説教を締めくくった。

うーん・・・
ただいま大学3年生、進路検討中の彼が、自分に言い聞かせる言葉でもあるんだな。

しかし、育ったもんだ。
彼は、父の言葉を子どもたちに伝えている。
僕の、ではない、大文字の「父」の言葉だ。
伝える作業を、彼に教えるのは僕の「役割」だったが、彼は既にそれを自分自身の作業にしている。
とすれば、僕の仕事はこの括りではめでたく終わったのだ。
あとは彼が「父」とともに進めていく。僕には僕の作業がある。

「わが事、成れり」あるいは単に「成れり τετελεσται」
ヨハネ福音書の伝える、イエスの最後の言葉だ。
何が「成った」のか。明示されていないところが心憎く、発見が読者にゆだねられている。
その自由を活用してひとつあげるなら、
「父」と子らの接続を回復し、「父」の言葉をあらためて子らの内に置く、そのことではなかったか。
いま、まさしく τετελεσται・・・

*****

何となく皆に見つかりたくなくて、「おとなの」礼拝までの空き時間をY住区の図書館で過ごす。
快適な良い空間だ。
漫画を読んでいる少年が素っ頓狂な笑い声を立てる以外は、みな黙々と自分の作業に集中し、あるいは思いに耽っている。良い空間だ。

僕はなぜだか、碁がつまらなくなっている。信じられないことだけれど。
もともと勝ち負けにこだわるつもりはなく、ただ、ある水準までは上達したいと思っていた。
「古今の棋譜を並べて鑑賞できるほどの水準」までだ。
妙手の妙手たる所以を理解し、棋譜から対局者の心理の機微が読み取れたら、どんなに楽しいか。
それには自分自身がある程度打てなければダメなので。

もうひとつ、打つ以上は自分の打ちたい流れで打てるように。
相手があることとはいえ、勝負にこだわらないなら「一貫して自分のスタイルで打つ」ことはヘボでもできるはずだ。形を崩さずきれいに打つこと、石を捨てて外に回ること、のびのびと攻撃的に打つこと・・・

どちらも、何もできていない。
今の日本の標準ならアマ4~5段は称して良いのだろうから(海外は概してもっと厳しいという、逆みたいだね)、その意味で不足は言えない。
でも、まだまだ名局の鑑賞などはできそうにもなく、対局ではどう打てば自分らしい碁になるのか、皆目わからなくなっている。不全感をもって望むから当然戦意はあがらず、「盤上の格闘技」において戦意を欠いたのでは、当然結果もついてこない。勝ちにこだわらないとはいっても、迷うときにはせめて結果で自分を慰めたいもので。

どうもつまらない。
しばらくやめてみればいいのか、それにしても何でかな。
もう6~7年も、こんなに面白いものはないと思ってきたのに。

*****

教会に戻ると、ケニアから母娘で里帰り中のKKさんが久しぶりに来ていて、顔を見るなり
「あ、ホンモノが来た!」
次男の話しぶりが父親そっくりだというので、皆でさんざん話題にしていたのだと。
そうかね~、そうですかね、お互いに口ごもるよな。

着席、何とはなしに聖書をめくる。
旧約、出エジプト記から民数記あたり、イスラエルによるカナン諸民族の殲滅の記録が続く。酸鼻の極み。
新約を通して旧約をみるということがなかったら、とても聖典として読めたものではない。
現実にイスラエルがパレスチナで行っている蛮行のモデルのようなものだ。
民数記31章8節、一身を賭して神の言葉を伝え、イスラエルに祝福を贈ったベオルの子バラム、
彼がなぜ敵対者とともに滅ぼされるのか、
わからないことがまた増える。

賛美歌は211、先日も話題にしたメンデルスゾーン/ストウ夫人の「朝風静かに吹きて」
旧約は詩編121、「主は汝が出ずるをも入るをも守りたまわん」
どちらも慰めに満ちている。

*****

帰宅すると、福島は三春のAさんから荷物が届いている。
中からはAさん手製の三春人形の絵が三点、やはり手製の紙の額縁に入って。
かわいいな、さすがだな。
Aさんとは四半世紀の付き合い、彼女は患者として、僕は医者として、それぞれ駆け出しだった頃に出会ったのだ。明日、許可をもらって写真をアップしよう。


傷つかない力/衝動買い

2013-08-04 07:43:22 | 日記
2013年8月4日(日)

朝のラジオで、芥川賞受賞作家へのインタビューあり。
藤野可織『爪と目』、書店に山積み、サイン会の広告も出ていたっけ。

中で主人公が亡母の綴っていたブログに出会う場面があり、「ブログは時間を編集する」という表現が用いられているんだそうだ。

なるほどなあ・・・

洗練度の高い「作品」としての提示もできるし、そういうブログも多いのだろう。そちらが本線かな。
良いものがずいぶんあるんだろう。
当ブログは取り散らかしの雑記帳で、恥ずかしいことである。
恥ずかしくはあるが、なるべく未編集で素材を書き留めておこう。

この作品で何を描きたかったかと、定番の無茶な質問も想定内と見えて、
「傷つかない力」を中心にきれいに答えをまとめた。

なるほど・・・
この作家のスタンスは分からないが、ある確かな社会の流れを直感的に(?)つかんでいるようにも想像される。いかに傷ついたかという話なら、飽きるほど聞かされてきた。

朝刊一面には、世界で初めて原爆症と診断された女性のこと。
広島で被爆の後、東京の実家に急帰したが8月24日に亡くなった。
その幻のカルテの一部が発見されたとある。
トラウマだって?
原爆を知ってから口にしようや。

今、はやっている小説を読めないのは、昔からのクセみたいなものだが、たまには読んでみようかな。

*****

何時の頃からか、頼みもしないのにタダで送られてくるようになった「H社の本棚」
そこに小池昌代という作家が『山姥(やまんば)の辞書』なるエッセイを連載している。
最新のものを、転記させていただく。

この著者も大した人だが、佐野洋子さんの逸話もすごい。
女性たち、すごいな。

*****

十 「咲く」

 梅雨に入ったのだろうか。灰色の雲が重たい日。駅前の花屋を通りかかると「芍薬祭」をやっていた。五本で千円。花を買うことなど、普段、めったにないが、ハンサムなお兄さんに、「白、ピンク、濃い桃色」と気分よく指図して、三種とりまぜ、衝動買い。
「蕾は混ぜますか?」
「混ぜてください」。
 衝動買いは楽しい。身銭というが、それを切るとき、本当に刃物で薄く傷付けられた気がする。人にごちそうしてもらったり、タダで何かを見たり味わったりしても、こういうふうには傷つかない。傷を負わないのは、もちろんありがたいが、身銭を切るときの痛い感じ、あれこそは生きる実感である。
 身を張って仕事をし、それで得た金をぱっと使う。プラスマイナスゼロになるという感覚は、日常における爆発であり、それは小さな「死」に似ている。
 佐野洋子さんは、癌とわかって余命を知らされたとき、ジャガーを衝動買いしたそうだ。ジャガーと芍薬。スケールが違いすぎる。が、わたしには、佐野さんの心が分かる気がする。芍薬を買うとき、わたしは日常の「崖」を、ひょいと飛び降りるような気分だった。
 花を買う。何の理由もなく花を買う。買ったとき混ぜてもらった蕾は、なんと、一夜にして、すべて開いた。あきれるほど、華やかな花。その鮮やかさが心に映り、わたしの心が咲ききったかのようだ。
 芍薬を、これほど美しいと思ったことはない。わたしは驚いていた。自分の飢餓感に。「まことの花」とはこのように、心に照り映えた花のことか。若くない今だからこそ、芍薬の魂そのものに同化できるのだろう。
 二十年くらい前、わたしは祖母が最後に入院していた病院へ、芍薬の花をどっさり持っていった。紫紅色ばかり。二十本ほどもあっただろうか。祖母は花を見て、「わあ」と驚きの声をあげた。
 日頃、宝飾品を身につけるようなこともない、とても質素な祖母だったが、化粧を落とした、その末期の横顔は、鼻筋高く、額は秀で、わたしの目には麗人に見えた。
 お医者様のなかに、お気に入りの男性がいて、診てもらうとき、ドキドキすると言っていたらしい。老女にすぎない祖母の心臓にも、芍薬のような魂が咲いていたのだ。
 黒っぽい、地味な洋服ばかり着るわたしに、お願いだから、ぱーっと華やかなものを着なさい、お金あげるから、おしゃれをしなさい、と言った。
 わたしも今、同じことをよく、人に思う。だけど、本当に、色物を着こなせるのは、むしろ白髪が生えてきてからじゃないか。
 若い頃、わたしはピンク色が大嫌いだったが、いよいよ、これからだ、この色を着るのは。いつか、銀髪にショッキングピンクのシャツを着て、街を歩いてみたいのである。
 ああ、芍薬の花。百本欲しい。