散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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小昆虫記/N先生の義務

2013-08-17 15:38:05 | 日記
2013年8月17日(土)

朝、家族全員でお墓の掃除。

我が家の背後を上っていくと、丘の上が集落の墓地になっている。
田舎でもあり過疎地でもあって、この一帯の所有権や分画には曖昧なところがあったりする。
曾祖父に始まる一画と、その父にあたる人を祭った一画が、さしあたり僕らにかかわる墓所ということになる。

墓碑・墓標を前に家族の歴史をふりかえるのは、悪いものではない。
曾祖父自身と祖父母はクリスチャンだったが、曾祖母は仏教徒として亡くなった。特定の宗教に依らない単純な柱状の墓碑と、クリスチャンなら十字の下に俗名、仏教徒なら戒名を記した墓標の組み合わせは、父が人に相談しながら知恵を絞った結果である。

小一時間、三代七人で掃除に精を出した。
その間、足下の地面ではジガバチが一心不乱に作業中である。
真っ黒な身の丈は3㎝ほどもあろうか、若葉色のバッタを運んできたものの、大きすぎて用意の穴に入らないらしい。穴を掘り広げては、獲物を運び込もうとする作業を続けている。

その脚の使い方が見事なものだ。
砂粒を前肢で掴み、体の下を後方へ送る。アメフトのプレーヤーの要領だ。
一度でポンと行かないときは、中肢・後肢で押してやる。これを素早く繰り返して、かなりのスピードで土を掘っていく。
獲物は既に麻酔済みなのだろう、ピクリとも動かない。
これを運ぶときは後肢でがっちり把持し、前肢・中肢を使って前進する。
巧妙であり力強い。

この蜂には覚えがある。
確か二年前にも、一家でお墓掃除の日に同じようなジガバチが同じ場所に穴を掘っていた。むろん蜂は短命なのだろうから代替わりしているはずだが、よほど好条件の場所であるのか。この蜂はあの蜂の子か孫か、それともまったく別系統か。
二年前は、僕がハチ毒アレルギーと知っている長男が、蜂にいち早く気づいてフマキラーを取ってこようとした。「この蜂は刺さない」と制して、あの時も皆で見事な作業ぶりに見とれたのだ。

ふと、親近感。
ジガバチは「似我、似我」(我に似よ、我に似よ)と鳴くのでジガバチであり、その呼び声に応えて、似ても似つかぬ獲物の中から親そっくりの蜂が出てくるのだという。そのジガバチが代を重ねて居ついているとは、家族の墓所に似つかわしい仕合わせだ。
見事に獲物を引き入れるのを確認し、脱帽一礼。

***

帰り道で長男が、目の前の梢を指さした。
「初めて見た」という指先で、カマキリがセミを横抱きに抱えている。
セミはバタつくこともできない。

僕はたぶん三度目だ。最初に見たときは、捕まったセミがそれこそ「豚が塩辛食べたみたいに」大騒ぎするのを、カマキリはお構いなしに抱え込んでいた。

そういうことがあるのだと東京あたりで話すと、「へぇ、そうなんですか」と皆目を丸くするが、見ないものは信じないといった空気が目の周りに漂っている。それはそうだろう、これはちょっとした奇観であり、圧巻だもの。

***

屋敷に戻り、汗かきついでに庭を手入れしていて、蜂の巣を見つけた。
これは先ほどのジガバチとは違う。小ぶりだけれどスズメバチの係累と思われる黄色まだらのユニフォームが、サカキの葉陰に20匹ほども群れて貼りついている。作り始めたばかりの巣とおぼしきものが見える。放っておけば一ヶ月後には巨大なコロニーになるだろう。

何度刺されても蜂という生き物が嫌いになれず、今日もまた心が痛むのだがこれは放置しておけない。蜂の生態についてはあらためて書くけれど、秋口のキイロスズメバチみたいな凶暴な相手でない限り、蜂の巣を落とすのは難しくない。巣のかかっている枝をタカバサミで静かに根元から切りとり、そっと他所へ移してしまう、それだけだ。

ハチの高度な能力にはいくつか盲点がある。たとえば彼らは巣の位置を空間座標によって認知するから(別に教科書に書いてあるわけではない、僕の推論だが確信ある推論だ)、巣が真下に落とされてもそれを探索し発見することができない。ついさっきまで巣のあった空間を虚しく飛び回るだけで、憎むべき侵略者(僕のことだ)がパンツ一丁で横に立っていても、これに報復することも思いつかない。巣を落とすだけなら、フマキラーも不要なのはこのためだ。

***

一息入れて家に入るとN先生がメールをくださっていた。
「明治神宮の狸」以来、今日は何かなと開いてみる。

 我が家に集まった孫達に蝉の脱皮を見せました。

と本文にあり、見事な写真をHPにアップしておられる。
ブログにリンクを張るおゆるしを求めると、すぐにお返事あり。

 どうぞご自由になさって下さい。
 今回のことは孫達への私の義務だと思っていました。

お孫さん達に、ジガバチやカマキリをお目にかけたかった。
僕の写真の腕では無理だ。今度N先生に教わりにいこう。

下記ごらんあれ、素晴らしい写真だからね!
「はち切れて落ちなんとする燕の子」(M先生『杭瀬川』より)

http://www10.ocn.ne.jp/~knomura/toppage.htm
http://www008.upp.so-net.ne.jp/nagahara-ch/

庭仕事と海遊び

2013-08-17 11:10:42 | 日記
2013年8月16日(金)

朝、庭仕事。

父は次男を連れ、薪炭林へ向かう道に積もった落ち葉の処理に精を出している。
昔、大量の落ち葉は貴重な燃料になった。今はただの邪魔者で、取りのけておかなければミカン畑への間道が通行不能になってしまう。
張り合いの乏しい作業だが、ついでに伸びすぎた竹を伐る音が、丁々と響いて清々しい。

僕は屋敷うちの雑草を刈り、伸びすぎた木の枝を払っている。
滝のような汗をかき、ようやく帰省の実感が湧く。
汗は町でもかくけれど、こういう快適さはない。

もう20年以上も、折々こうして汗をかきながら、いろんなことを庭から教わった。
うつ病の「鬱」の字が「鬱蒼と茂る」の「鬱」である理由も、庭仕事をしながら悟った。樹冠は間伐し、風通しをよくしておかなければいけない。空気がこもると虫がつき、樹木の健康が損なわれる。さまざまな思いが整序されずに茂り過ぎ、心の風通しの悪くなった状態が「鬱」なのだろう。
ここでも漢字は叡智を刻んでいる。
「気がふさぐ」といった日本語表現は、この仔細に対応する。

***

夕、海辺で遊ぶ。
これも十年ほど、海遊びは鹿島と決まっている。
先に書いたように両親の生い立った土地は、四国北西部の西向きの斜面に位置している。海岸線まで4㎞ほど、その向こうにはこんもりと二(ふた)こぶ姿の小さな島が浮かんでいる。これを鹿島と書いて「かしま」と呼ぶ。瀬戸内海国立公園の一部である。

鹿島もまた、島であると同時に山である。周囲1.5㎞、標高113m、上ればかなりの急坂だが、僕らはいつも南側の砂浜で遊んで帰ってくるだけだ。
1980年代に松食い虫が猛威を振るったときは、陸地と同じく見る影もない枯れ山になってしまったが、今はしたたるような緑が戻っている。
そして名前の通り、野性の鹿が住んでいる。

神功皇后が三韓征伐(この言葉、今は大丈夫かな?)の途上に立ち寄ったそうで、これにまつわる「御野立ちの巌(おのだちのいわお)」や「神洗磯(かみあらいいそ)」の跡もあり、西の沖合の夫婦岩には毎年四月に長さ30mの注連縄を張るので、「夕日の二見」などと呼ばれる。水軍の根拠地でもあったろうことは、想像に難くない。

400mほどの海域を二隻の小さな船が20分毎に往復するが、乗客はそんなに多くはない。のんびり出かけ、のんびり遊び、のんびり帰ってくる。
砂浜で、今年は息子たちにシュノーケルとフィンの使い方を教えてみた。20歳前後に悪友のMから教わって沖縄などでずいぶん楽しんだものだが、意外に使い方が知られていない。潜った後、浮上後に管の中の海水を吹き出すところにコツが要る。
長男はあれこれいじくり回してなかなか潜らない。次男はすぐにやってみるが使い方がズレている。三男は一、二度失敗した後、慣れたもののように使っている。特徴が見事に表れる。
浜辺で相撲もとった。
皆、強くなっているが、自分も思ったほど衰えてはいない。

戻る船の中で、三男が頭上を見上げてニヤリとする。
「定員48名、重量3,600㎏」と表示されているのを、「一人あたり何㎏か」と計算したくなるのは本能みたいなものだが、その昔これをまともに考えようとして「300÷4と同じだろ」と次男に一蹴されたことを、この船に乗ると思い出すらしいのである。
三男は就学前後、次男は小学校の高学年、そんな時分だったろうか。
この夏、三男は次男を抜いて家族中で最長身になった。

僕は浜辺の松を船から眺めていて、ふと古代の装束の女性が扇を使いながら歩いてくるような気がした。松の木には何か、時間をあっさりと超越させるものがある。

動き出した渡船の後尾をモーターボートが横切りざま、乗っている二、三人がこちらに手を振った。
こんなことは初めてだ。