散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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拾遺の拾遺

2013-10-09 23:47:08 | 日記
2013年10月9日(水)

> 爆笑問題の太田光が「タイタンの妖女」を愛読していて、石丸先生が悲しすぎると言ったこの結末について救われたと書いていました。「今までの人類の歴史なんてなんかの冗談なんだよって言われたらすごく救われる」と。
 人の出会いと別れも人類の歴史さえも誰かの手のひらの出来事で、しかも大した意味などなかったという結末にすごく救われた気がするのは私も同じです。人間ってもっとちっぽけでいいと思うんです。

私が「悲しすぎる」と言ったのは、繰り返しますが物語のトータルな行方についてではなく、ここに現れる二組の友情の結末についてです。
自分の唯一の親友をそれと知らずに絞殺し、その後も親友との再会を希望として生き続けるアンク。
そのアンクに真実を知らせることによって彼のかすかに残った自己肯定を打ち砕き、自らタイタン行きを望むように仕向けるラムフォード。
さらにラムフォードは、トラルファマドール星から来た機械人のサロに、巧妙かつサディスティックな仕打ちを加え、彼を自殺(=自己破壊)に追い込みます。

これらの結末に「救われた」と言うのも読者の自由でしょうが、私には理解できません。
「人間ってもっとちっぽけでいい」という言葉についても、半ば同意しますけれど全面的にではありません。自分をちっぽけなものと扱われて喜んでいられるほど、人間ができていませんから。

人間はちっぽけなものだから、家族をヒロシマで焼かれたことも恋人を通り魔に殺されたことも、私ひとりの悲しみであって実は大した意味はない、そう言われて「その通り」と言えるなら、救われるがよかろうと思います。

太田光氏はさておき、勝沼さんがそういう主張をする人でないことはよく承知しています。
承知のうえで敢えて以上のことを書きました。失礼があったらお赦しください。

そう簡単に「救われる」ことを、この作品は望んでいないと私は思います。



読書メモ 017 『タイタンの妖女』(付:弓手と馬手/虹)

2013-10-09 07:23:37 | 日記
2013年10月9日(水)

留守中の新聞をめくって、連載小説と棋譜に目を通す。

うわばみが大暴れだ。

 (絵師の圓秀は)それでも、さながら残飯を漁る野良犬のように、おどおど、びくびく、外の様子を覗おうとしている。弓手に唐紙の破れ紙、馬手に筆を持っていて、その勇んだ横顔だけなら番士たちも顔負けだ。

左手は弓手、右手は馬手、嬉しいな、この文字づかい。
「ゆんで」「めて」のしなやかな響きに、「弓」「馬」の厳めしい文字。

「にじ」もそうだ。
漢字の由来だけに関心を向けるのは、片手落ちというものだった。
けれど、この大和言葉の由来は手許ですぐには分からない。

古くは「ぬじ」とも呼んだらしい。
その発音は、「第一拍の中で下降し、あるいは長呼したもの」という。
(国語大辞典)

 ここに日の虹の如く輝きて、その陰上にさす。
 『古事記』

***

「くろしお」と新幹線の移動時間のおかげで、読みかけにしていた『タイタンの妖女』を読み終えることができた。カート・ヴォネガット比較的初期の代表作で、作風の転機を画したともいう。
バイブル・ベルト地帯では二十世紀に入って焚書の栄に浴した作家だから、牧師研修会の行き返りにこんなもの読んでたと知れたら、アメリカなら火あぶりにされかねない。

平たい感想をもっともらしく書くのは、この作家に関しては特に避けたいところだけれど、やっぱりちょっと悲しすぎるかな。

特に友情の末路に関して。

アンクとストーニイの、サロとラムファードの、二組の友情にこんな酷い終わらせ方をさせなくてもと思うんだが、それこそ「単時点的 punctual」な感傷というものか。
特にサロに対するラムファードの仕打ちはあんまりだし、ラムファードがフランクリン・ルーズベルトのある側面を模したものと解説で読んで、憎悪に近い感情が湧いてきた。
哀れなアンクは無論、作者自身だ。
合衆国陸軍兵士として父祖の国ドイツと闘い、そこで捕虜となってルーズベルトの軍隊によるドレスデンの破壊を目撃した。

そうか、そうなると、感情をおさえてもう一度読まなければ。
言葉遊びがそこかしこに仕掛けられているから、本当は英語で読まないとダメなんだけど。

タイトルの「妖女」、原題は Sirens である。
心ときめかす歌声で船乗りを誘い、耳傾ける者を破滅に引きずり込むギリシア神話の Siren からだ。だけど「妖女」っていうと、魔法使いの婆さんを連想しないか?
物語後半のビアトリスは、確かに「妖女」の姿と暮らしぶりだ。
確か『プレイヤー・ピアノ』にも、ニューヨークの地下道に住み着いた老女が描かれていたような気がする。

愛する女性を魔法使いの婆さんにしてしまわないと気のすまない何かを、ヴォネガットは抱えている。
そして彼の描く「息子」たちは、どれもこれも怪物ばかり。

恐るべき作家だ。

 過去に存在したあらゆるものは、これからもつねに存在しつづけるだろうし、未来に存在するだろうあらゆるものはこれまでもつねに存在したんだ。(ラムファード)

 「わたしを利用してくれてありがとう」と彼女はコンスタントにいった。
 「たとえ、わたしが利用されたがらなかったとしても」(ビアトリス)

 「おれたちはそれだけ長いあいだかかってやっと気づいたんだよ。人生の目的は、どこのだれがそれを操っているにしろ、手近にいて愛されるのを待っているだれかを愛することだ、と」(アンクことマラカイ・コンスタント)

※ マラカイはマラキ、つまり旧約聖書の預言者だ。ヴォネガットの登場人物の名前にはこの種の仕掛けが多く、ゆめおろそかに読み過ごせない。

 「インディアナ州インディアナポリスは、合衆国ではじめて、白人がインディアンを殺した罪で絞首刑にされた土地なんだ。インディアンを殺した罪で白人を縛り首にするような人びと - 」とコンスタントはいった。「それこそおれの仲間だよ」

 「おれが - このおれが天国へ行けるのか?」
 「おれにそのわけを聞くんじゃないぜ、相棒」とストーニイはいった。
 「だがな、天にいるだれかさんはおまえが気にいっているんだよ」