2013年10月21日(月)
土曜日の補遺。
放送大学で授業をやっていると、いつも他の教室のことが気になってしまう。
こちらよりもずっと面白そうで、そっちにもぐりこみたくなるんだな。
特に文京SCは教室が多いので目移りする。
ゼミの小休止でペット茶を買いにフロアへ。行き返りに窓越しに覗いてみる。
角の大教室は株式のシステムについて。50名以上もぎっしり満員。
その隣りの小教室は、ぱらぱらと5~6人。変成男子に「へんじょうなんし」、差別に「しゃべつ」とルビを振っている。これは仏教用語について解説していたのだと、帰宅後に知った。
角を折れて小教室では、社会と産業のS先生が7~8人を相手にゼミ。受講者はやや年輩の男性ばかり。誰も廊下など見もしない。
その向かい側はフランス語のQ先生が5~6人の男女学生と、みっちり原典を読んでいるらしい。
面白そうだなあ・・・
こちらも負けずに集中に努める。
「最近は自分が精神障害者であることを、皆さん隠さなくなりました。周りも以前よりはずっと普通に受け止めます。」
広島のソーシャルワーカーのコメントに、群馬の精神科医、東京の福祉系公務員が深く頷く。
時代は動いている。
***
日曜日の追加。
ひとつ:
聖書、殊に福音書のメッセージは、メタ・メッセージとでもいった形をとっている。
イエスの「言葉」は旧約同様、僕らに完全を求める。
「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」
(マタイ5:48)
しかし弟子たちは(=僕らは)およそ完全な者ではありえない。
それどころか欠けだらけで、ボロボロだ。イエスはそのことを百も承知である。
行動において、イエスは僕らの不完全を覆って十字架の贖いとなる。
それがイエスの言葉を無意味にするかといえば、決してそうではない。
「すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」
(マタイ5:18)
この聖なる矛盾こそが、福音の魅力なのだ。
ふたつ:
祈る時になぜ手を合わせるか。
他のものを手にすることを断念し、手の内に何ももたないようにするため、と教わったような気がする。
それなら、相撲の取り組みにおける力士の所作と同じ意味だ。
しかし別の意味を昨日は感じた。
捕縛された人間が手を縛られる時、手首を揃えて相手に差し出す。
祈る時、僕らは聖なる手に縛られることを肯んじているのではないか。
不自由?
そうかもしれない。
「自由であるとは、何者かによって自由にさせられることである。」(ヤスパース)
ある種の自由を断念することによって、別の(真の)自由を得るということは、そんなに突飛な発想とも思われない。
***
今週は木曜日に某所で講演の予定がある。
「生きる力」というテーマをもらっていて、これはこの女子大の今秋の主題なのだそうだ。
暑い盛りにこの話をもらったとき、やや考えて「生きる力と生かす力」というタイトルを決めた。その狙いは御賢察の通り。
いよいよ日が迫ってきたので、そろそろ配布資料を作らないといけない。
原稿は作らない。
20年前には、人前で話すとき完全な原稿を用意した。
やがて原稿を用意して話すことが苦痛になり、またそれが最善の、最も誠実な準備であるとも思えなくなった。
理由は簡単で、原稿を書く時の心理状態と、実際に話す時の心理状態とは、ほぼ確実に異なるからである。それは僕の想像力の不足に依るものかもしれないが、要するにそこに聴衆がいるという事実が違いを作るのだ。
その日、そこにやってきて話を聞く(あるいは聞かない)人々の発する無形の欲動と時々刻々の反応が、僕に伝わって次の言葉を選択させる。
それに耳と心を開いて話すなら、言葉は当然準備したものとは違ってくる。
むろん基本的なアイデアは準備するし、準備しなければ不誠実というものだ。
しかし、その場で起きる力動に委ねるべきことまでも事前に決定し固定してしまうのは、これまた不誠実というものではないか。
だから今は、ずいぶん早くからその日のことを意識するけれど、原稿という形で言葉を固定してしまうことはしない。そんなことをしたら話せなくなる。
***
直前まで内容を流動的にしておくには、もうひとつの理由がある。
不思議なもので、意識をそちらへ向けて待っていると、話にぴったりの素材が直前に飛び込んでくることが、必ず起きるものだ。
今朝のこと、一枚の写真がメールに添付されて届いた。
美味しそうなバナナケーキ、
外来に通っている若い女性が、眠れぬ夜の慰みにつくったものだ。
「生きる力」あるいは「生かす力」
何とぴったりの象徴ではないか!
土曜日の補遺。
放送大学で授業をやっていると、いつも他の教室のことが気になってしまう。
こちらよりもずっと面白そうで、そっちにもぐりこみたくなるんだな。
特に文京SCは教室が多いので目移りする。
ゼミの小休止でペット茶を買いにフロアへ。行き返りに窓越しに覗いてみる。
角の大教室は株式のシステムについて。50名以上もぎっしり満員。
その隣りの小教室は、ぱらぱらと5~6人。変成男子に「へんじょうなんし」、差別に「しゃべつ」とルビを振っている。これは仏教用語について解説していたのだと、帰宅後に知った。
角を折れて小教室では、社会と産業のS先生が7~8人を相手にゼミ。受講者はやや年輩の男性ばかり。誰も廊下など見もしない。
その向かい側はフランス語のQ先生が5~6人の男女学生と、みっちり原典を読んでいるらしい。
面白そうだなあ・・・
こちらも負けずに集中に努める。
「最近は自分が精神障害者であることを、皆さん隠さなくなりました。周りも以前よりはずっと普通に受け止めます。」
広島のソーシャルワーカーのコメントに、群馬の精神科医、東京の福祉系公務員が深く頷く。
時代は動いている。
***
日曜日の追加。
ひとつ:
聖書、殊に福音書のメッセージは、メタ・メッセージとでもいった形をとっている。
イエスの「言葉」は旧約同様、僕らに完全を求める。
「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」
(マタイ5:48)
しかし弟子たちは(=僕らは)およそ完全な者ではありえない。
それどころか欠けだらけで、ボロボロだ。イエスはそのことを百も承知である。
行動において、イエスは僕らの不完全を覆って十字架の贖いとなる。
それがイエスの言葉を無意味にするかといえば、決してそうではない。
「すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」
(マタイ5:18)
この聖なる矛盾こそが、福音の魅力なのだ。
ふたつ:
祈る時になぜ手を合わせるか。
他のものを手にすることを断念し、手の内に何ももたないようにするため、と教わったような気がする。
それなら、相撲の取り組みにおける力士の所作と同じ意味だ。
しかし別の意味を昨日は感じた。
捕縛された人間が手を縛られる時、手首を揃えて相手に差し出す。
祈る時、僕らは聖なる手に縛られることを肯んじているのではないか。
不自由?
そうかもしれない。
「自由であるとは、何者かによって自由にさせられることである。」(ヤスパース)
ある種の自由を断念することによって、別の(真の)自由を得るということは、そんなに突飛な発想とも思われない。
***
今週は木曜日に某所で講演の予定がある。
「生きる力」というテーマをもらっていて、これはこの女子大の今秋の主題なのだそうだ。
暑い盛りにこの話をもらったとき、やや考えて「生きる力と生かす力」というタイトルを決めた。その狙いは御賢察の通り。
いよいよ日が迫ってきたので、そろそろ配布資料を作らないといけない。
原稿は作らない。
20年前には、人前で話すとき完全な原稿を用意した。
やがて原稿を用意して話すことが苦痛になり、またそれが最善の、最も誠実な準備であるとも思えなくなった。
理由は簡単で、原稿を書く時の心理状態と、実際に話す時の心理状態とは、ほぼ確実に異なるからである。それは僕の想像力の不足に依るものかもしれないが、要するにそこに聴衆がいるという事実が違いを作るのだ。
その日、そこにやってきて話を聞く(あるいは聞かない)人々の発する無形の欲動と時々刻々の反応が、僕に伝わって次の言葉を選択させる。
それに耳と心を開いて話すなら、言葉は当然準備したものとは違ってくる。
むろん基本的なアイデアは準備するし、準備しなければ不誠実というものだ。
しかし、その場で起きる力動に委ねるべきことまでも事前に決定し固定してしまうのは、これまた不誠実というものではないか。
だから今は、ずいぶん早くからその日のことを意識するけれど、原稿という形で言葉を固定してしまうことはしない。そんなことをしたら話せなくなる。
***
直前まで内容を流動的にしておくには、もうひとつの理由がある。
不思議なもので、意識をそちらへ向けて待っていると、話にぴったりの素材が直前に飛び込んでくることが、必ず起きるものだ。
今朝のこと、一枚の写真がメールに添付されて届いた。
美味しそうなバナナケーキ、
外来に通っている若い女性が、眠れぬ夜の慰みにつくったものだ。
「生きる力」あるいは「生かす力」
何とぴったりの象徴ではないか!