散日拾遺

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三男の偉大な先輩

2013-10-26 18:12:26 | 日記
2013年10月26日(土)続き

わが家の三匹の子豚たち、小学校はみな地元の区立へ通った。
おかげで12年間にわたり、この学校の運動会を楽しむことができた。

中学からはそれぞれ別の道を辿り、それが良かったようである。
三男は家の目の前にある区立中学校の三年生。
1973年にここへ引っ越して以来、グラウンドから聞こえる中学生や先生方の声を楽しんできた。
当時はクラスが多く、生徒はグラウンドを分け合って野球やサッカーをやっていたが、今は2クラスだけで統廃合の候補に挙がっているらしい。残念だな。

「学校があってうるさい」というのは僕には分からない。喜ばしいことだ。
うるさくて困るのは竿竹屋に廃品回収車、選挙演説車、仕事にも何もなりはしない。
生徒らの声も、通学路に面した戸建てなどは大変だろうけれど。

さて、のんびりした地元中学校に今日はちょっとしたニュースあり。
地域に開放して行われる学習発表会に、今を時めく森田泰弘氏が講演に訪れたのだ。
誰かって?

9月14日にイプシロンロケット打ち上げに成功した、JAXAのプロジェクト・リーダーだ。
何と三男の通う区立中学校の卒業生なんだよ!

***

講演の内容は、くどくど書くよりも下記を見た方が早い。
スライド画像も大半はそこにあるものだが、ロケットの打ち上げって何であんなに感動的なのかな。
http://scienceportal.jp/HotTopics/technofront/15.html ← テクノフロント
http://www.youtube.com/watch?v=aLryF495Uc8 ← 打ち上げ動画

森田さんは上記サイトの写真にある通りの笑顔で、話も上手だ。
レベルを下げることなく、中学生に伝わる話を1時間半、生徒も保護者も聞きほれている。二日前の自分を考えて忸怩たる思いだが、それはこの際どうでも良い。

内容について印象的なのは、イプシロンロケットが世界の常識を覆すことの連続でここまで来たことだ。
「できるはずがない」「無理」と失笑され、笑った者を結果で笑い返すことを繰り返してきたのである。

日本のロケット研究は、まだレーダー追尾技術の(あるいは資金や設備の?)ない時代に始まった。
レーダーがないので高空に打ち上げられない。それなら地上で水平に打てば実験できるではないか。
ペンシルロケットの開発者であり、「日本の宇宙開発・ ロケット開発の父」と呼ばれる糸川英夫(1912-99)の発想だそうだ。
森田さんは糸川の孫弟子にあたるが、この大先生には会ったことがないという。しかしその伝説はしっかり口承され、今も関係者の力となっている。

1970年に国産初の人工衛星「おおすみ」(世界で4か国目)を軌道に乗せたのは、ラムダロケット。
これに続くミューは打ち上げ後の誘導制御装置をもたず、当初は「風まかせ」と評されたが「斜め打ち上げ」と推力方向制御で問題をクリアした。その後着々と進歩を重ね、1997年に完成したMV(ミュー5)は世界最高の科学探査衛星用ロケットといわれて、森田さんにとっては分身のようなものだったという。
その分身が、主としてコストの問題で開発中止となった時、森田さんは「夢も希望もない状態」に陥った。そこから立ち直らせてくれたのは、大学院時代の恩師の一喝。
あらためて森田さんらは、「これまでよりも安くて性能の高いロケットを開発する」という無理難題に取り組むことになる。この難問への解答が、小型軽量・固体燃料・そしてモバイル制御として結実した。

僕にきちんと理解できているとは思えないが、モバイル制御のエレガンスは直感的に理解できる。


上記 web site の図4がこれ↑だ。
アポロ型と森田さんの呼ぶ従来のロケット打ち上げは、100人単位の関係者が大きなフロアを埋めて不眠不休の作業、熱気あふれるお祭り騒ぎだった。個人的にはこの風景が好きだったという森田さんらは、これをPC2台(1台でも行けるが、故障に備えて2台)とスタッフ8人にシェイプアップしてしまったのである。
8月27日、発射18秒前の「中止」判断は微妙な時間差に対する情報システムの過剰反応であったらしいが、考えようによっては機械の自動制御能力の一面を示したものでもあったらしい。

「固体燃料」については、僕も思い出すことがある。
ラムダロケットの失敗が続き、国産の人工衛星がなかなか上がらない。
こうしたことのひとつひとつに、皆が切ないような期待をかけていた時代だ。メディアも容赦なく失敗を責める。
ある日の「天声人語」だったように思うが、違っていたら申し訳ない。
固体燃料の実用化の難しさに失敗の原因を帰し、いつまで固体燃料にこだわるのかという趣旨の記事が載った。
ふぅん、そういうものかと思った子どもの記憶が今に残っていて、森田さんの口から「固体燃料」という言葉が出た時には驚いた。驚いてから感動した。
彼らは叩かれても信念を譲らず、こうして立派に開花させたのだ。

***

「くどくど書かない」とか言いながら夢中で再現してしまったが、こういう話なら森田さん、どこでもしている。
今日、この中学校でしか聞けなかった話。

1972年のミュンヘン五輪の男子バレーボールと言えば、僕らにとっては少年期の輝かしい思い出だ。
森田・横田・大古らの大砲を名セッター猫田が自在に起用し、「一人時間差」などの妙技を駆使して金メダルに輝いた。
優勝候補の筆頭ながら楽な道ではない、準決勝のブルガリア戦ではまさかの苦戦でセットカウント0-2、第3セットも4-7まで追いつめられてから見事に逆転したのである。

その優勝チームの中に、この中学校の卒業生が2人も入っていたのだ。
木村憲治と嶋岡健治、二人のケンジがそれである。
大会後に嶋岡が母校を訪れ、金メダルを見せてくれた。
中学校時代の嶋岡が「オリンピックで金メダルを取りたい」と公言していたことを恩師が話してくれた。
森田少年は、自分も自分の金メダルを取りたいと思った。

「皆、自分の夢を見つけて、自分の金メダルを取ってください」

それが講演の締めくくり。
今年度生徒会長の三男は、感謝の言葉を壇上で伝えた後、もくろみ通り森田先輩に握手してもらい、御満悦で帰ってきた。

***

森田さんは二学年下のようだから、僕らがここに移ってきた時には中学野球部のメンバーとして、眼下のグラウンドを駆け回っていたはずである。
そうそう、森田さんは東京の生まれ育ちなのに、なぜか熱烈阪神ファンなんだって。

退席する森田さんに、通りすがり一瞬の質問。

「ポジションはどこだったんですか?」

「中学はキャッチャー、高校ではファーストでした」と返事が返ってきた。

「田淵のファンだったんですよ。」


(http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/otherballgame/2011/09/09/post_17/)