散日拾遺

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天の火もがも/『風立ちぬ』その2

2013-10-18 22:51:04 | 日記
2013年10月18日(金)

フランス語などの詩を邦訳する際、力強さが削ぎ落とされて優美繊細に変えられる傾向があると言ったが、そもそも力強い愛の歌が日本語にないかといえば、そんなことは断じてない。

 君が行く 道のながてを繰り畳ね 焼きほろぼさむ天の火もがも
    狹野茅上娘子(さぬのちがみのをとめ)、万葉集(巻15、3724)

せっかくだから、呉音による(!)万葉仮名原文も記しておく。

 君我由久 道乃奈我弖乎 久里多〃祢 也伎保呂煩散牟 安米能火毛我母

「焼き滅ぼさむ、天の火もがも」・・・どうです、すごくないですか?
これならピアフの熱唱に堂々対抗、ヤマトナデシコの面目躍如だ。

読まれた状況については諸説あり、たとえば官女として御法度の民間人との恋に落ち、発覚して恋人が流罪になる、その配流の道を「閉ざして焼き滅ぼす天の火がほしい」との絶唱だという。

やっぱり、さすが、万葉集だ。
古今も新古今もいいけれど、万葉あっての日本人である。

***

本題に戻れば、O先生とM先生のやりとりを聞いた瞬間『風立ちぬ』を読まなければと思った次第で、つまりこの有名作品を僕は読んだことがなかった。

翌17日(木)、さっそく一読。

読み終えた瞬間に、「あ、そう」と大きな声で言ったとかで、家人らが笑い出した。
え~っと、何が「あ、そう」だったのかな・・・

まずは感銘を受けた部分から記そう。
八ヶ岳山麓の自然が活写される中、ちょうど全体の三分の一あたりのところ。

サナトリウムの一室で、主人公と婚約者はこの世でほとんど二人だけの閉じた生活を送り始める。

 ・・・それらの日々が互いに似ているために、その魅力はなくはない単一さのために、ほとんどどれが後だか先だか見分けがつかなくなるような気がする。(悪文!)
 と言うよりも、私たちはそれらの似たような日々を繰り返しているうちに、いつか全く時間というものからも抜け出してしまっていたような気さえするぐらいだ。そして、そういう時間から抜け出したような日々にあっては、私たちの日常生活のどんな些細なものまで、その一つ一つがいままでとは全然異なった魅力を持ちだすのだ。私の身近にあるこの微温(なまぬる)い、いいにおいのする存在、その少し早い呼吸、私の手をとっているそのしなやかな手、その微笑、それからまたときどき取り交わす平凡な会話、- そういったものをもし取り除いてしまうとしたら、あとには何も残らないような単一な日々だけれども - 我々の人生なんぞというものは要素的には実はこれだけなのだ、そして、こんなささやかなものだけで私たちがこれだけ満足していられるのは、ただ私がそれをこの女とともにしているからなのだ、ということを私は確信していられた。

二者関係への退行の中でのいささか病的な至福、そう言っては実も蓋もないようだが、ここには確かにひとつの小さな楽園が描かれている。それを背景としていくつかのことが起きる、そのひとつ。二人は山の景色に見入っていて・・・

 私は、このような初夏の夕暮れがほんの一瞬生じさせている一帯の景色は、すべてはいつも見馴れた道具立てながら、おそらく今を措いてはこれほどの溢れるような幸福の感じをもって私たち自身にすら眺め得られないだろうことを考えていた。そしてずっと後になって、いつかこの美しい夕暮れが私の心に蘇って来るようなことがあったら、私はこれに私たちの幸福そのものの完全な絵をみいだすだろうと夢見ていた。
 「何をそんなに考えているの?」私の背後から節子がとうとう口を切った。

この後の2ページほどのやりとりが、作品の白眉でもあり作家の才能の証明でもあると思われる。
主人公は、いわば二人が完全な共感の中で同じ風景を同じ心でみていると(呑気にも)思っているのだが、結核という死病に命数を限られ、そのことをはっきり自覚している婚約者によって、当然ながら現実に引き戻されることになる。

 ・・・そのとき、突然、私の頭の中を一つの思想がよぎった。そしてさっきから私を苛ら苛らさせていた、何か不確かなような気分が、ようやく私の裡ではっきりしたものになりだした。・・・「そうだ、おれはどうしてそいつに気がつかなかったのだろう?あのとき自然なんぞをあんなに美しいと思ったのはおれじゃないのだ。それはおれたちだったのだ。まあ言ってみれば、節子の魂がおれの目を通して、そしてただおれの流儀で、夢見ていただけなのだ。・・・それだのに、節子が自分の最後の瞬間のことを夢見ているとも知らないで、おれはおれで、勝手におれたちの長生きした時のことなんぞ考えていたなんて・・・」

***

序曲、春、風立ちぬ、冬、死のかげの谷

旺文社文庫版で100ページ足らずの全体は、この五部で構成されている。
序曲から冬まで、去っていくものと留まるものが、限られた時間を限られた場所で密着して過ごす。
共感と隔絶をこもごも描き出して上述のような洞察に満ち、好みはさておき見事だと思う。

気にいらないのが最終部で。

まず、「死のかげの谷」というのは聖書の読者にはあまりにも有名なフレーズ、詩編23からの引用である。
ただ、原文は神への信頼を歌う麗しい詩なのであるが、堀はこれを完全に裏返して使った。

 こんな人けの絶えた、寂しい谷の一体どこが幸福の谷なのだろう・・・死のかげの谷・・・そう、よっぽどそう言ったほうがこの谷には似合いそうだな、少なくともこんな冬のさなか、こういうところで寂しい鰥(やもめ)暮らしをしようとしているおれにとっては。

これが最終部のタイトルの謂れであり、本文中には主人公が当該詩編を口ずさむ場面がある。

 そこで私はともすれば滅入りそうな自分の心を引きたてようとして、「たといわれ死のかげの谷を歩むとも禍害をおそれじ。なんじ我とともに在(いま)せばなり」と、そんなうろ覚えに覚えている詩篇の文句なんぞまで思い出して自分自身に言ってきかせるが、そんな文句も私にはだた空虚に感ぜられるばかりだった。

ははぁ、お気の毒さまで。

婚約者の存命中から二人で信心していたわけでもないのだから、ここで聖書の言葉が出てくるのも唐突な話である。しかし堀のこだわりは念が入っていて、この「死の谷」にはいつの間にか小さなカトリック教会が建ち、ドイツ人の神父が信徒もないのに毎日ミサを立てているという。

主人公は日曜日の朝、「何を求めるでもなしに」教会へ行き、小一時間そこに座った後、抜け出して帰ってくる。後から神父が主人公を探して会いに来るが、キリスト教に関心のない主人公は少々迷惑している様子であり、当然話もかみ合わない。ただ・・・

 「こんな美しい空は、こういう風のある寒い日でなければ見られませんですね。」神父がいかにも何気なさそうに口をきいた。
 「ほんとうに、こういう風のある、寒い日でなければ・・・」と私は鸚鵡返しに返事をしながら、神父のいま何気なく言ったその言葉だけは妙に私の心にも触れてくるのを感じていた・・・

外国人の神父にしては随分こなれた日本語で、日本人のように気象を語り自然の美を愛でる、その時だけこの異邦人との間に心の通い道が開かれる。その余のことは、およそ主人公の魂には届かない。
婚約者を死病に奪われた主人公の魂にどれほど慰め難い空虚が残されているか、どうやらそれを裏書きするだけのために詩篇と教会が引き合いに出されているらしい。それも自由ではあるが、御大層な話である。「ぽっかり空いた胸の空虚は、何によっても埋められることがなかった」と書けばすむことだ。
苦悩を強調するのにわざわざ他の何かを、しかも異文化の中から引っ張ってきてその無力を描いて見せる必要もなかろう。
終章のとってつけたような印象が、どうも僕には煩わしくてかなわない。

***

要するに二つの洋物、ヴァレリーから想を得たとする『風立ちぬ』のタイトルと、終章に集中する(裏返しの)キリスト教的装いと、これらが僕には引っかかる。
そして両者は別のことではない。
『死のかげの谷』を本来の聖書のメッセージから反転させ、空虚の象徴として用いる手口は、『風立ちぬ』をヴァレリーの原義とは微妙に違ったニュアンスで借用する手法と、程度の差はあっても基本的に通底している。
借用してきたものの本来もつ意味や、それが息づいていたオリジナルの文脈に、作家は関心をもたず敬意を払ってもいない。

仮にこの二つの借り物を作品から剥ぎとったら、どうなるのだろうか?
死にゆく婚約者と生き続ける自分の、時空を限られたがゆえの無常の至福、それが過ぎ去った後の男の心の救いがたい空虚、上にも述べたそのことだ。
それはどこにでも転がっている平凡な悲劇だが、それを非凡に際立たせることに作者は十二分に成功しており、愚かしい嘆きが少しも愚かしくは思われない。
みごとと言ってよい。それで十分ではないか。

折角のその労作の仕上げに、ヴァレリーや聖書から手前勝手にきりとったものを塗りつけて飾る、その魂胆がどうかと思うのだ。それは日本の多くのインテリが繰り返し陥ってきた悪弊であり、飛躍するようでも今日の善男善女のブランド漁りとさほど隔たっていない。
あちらのものを重ねるなら重ねるで、もっとしっかり咀嚼し消化したうえでするものだ。
どうやらこのあたりに、「あ、そう」の由来があるらしい。

「要素的には」すばらしく良いものを蔵しながら、目ざわりなメッキで仕あげたばかりに名作になりそこねている。残念だが好きになれない作品である。

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ところで、閑古鳥って本来カッコウの別名だったんですね。
この作品のおかげで知りました。