2013年10月14日(月)
この年になって、こんなことも知らないということが、いくらでもある。
それがしかし、いくつもの情報が足並みそろえてやってきて、声を揃えて教えてくれるとなると、これはこれまた嬉しくて・・・何を言ってるの?
漢字の音読みと訓読みの二重構造にしきりにこだわるけれど、音読みと言っても一通りではないこと周知の通り。いわゆる呉音と漢音だ。
僕はこれにまったく注意を払っておらず、中国は広いから発音にも多系統あって不思議ないわな、ぐらいに考えていた。
ふと注意を喚起されたのは、先日来ゆっくりゆっくり読んでいる『日本書紀』の、詳細をきわめた例の補注。
古事記・万葉集と日本書紀の万葉仮名は、その依拠する中国の字音に相違がある。古事記は、百済を経由して伝来した、五、六世紀ごろの、揚子江下流地域の発音に拠っている(=呉音、石丸注)。書紀は、これに後れること百年以上の、北方中国の長安・洛陽の地方の発音に拠っている(=漢音、同)。従って、両者の間には、子音にも、母音にも、多くの相違点がある。(『日本書紀(一)』岩波文庫、P.320)
これで初めてピンと来た。
五、六世紀ごろの揚子江下流は、東晋(317~420)とこれに続く南朝が栄えた地域だ。
ここから発して百済を経由して伝えられた文字のセットが、日本人の初めて手にした「漢字」である。
これに後れること百年以上、つまり六、七世紀以降の北方中国とは、言うまでもなく隋(589~618)と唐(618~907)だ。後漢滅亡からおよそ400年を経て、久々に中国全土を統一した隋唐帝国の出現は、政治的な事件であるとともに文化的な変容をも意味しただろう。
古事記・万葉集と日本書紀の字音の違いは、中国史上のこの遷移に連動している。
連動とは、どんな連動だろう?単に伝わった時期の先後の問題、先に伝わった呉音が古事記に反映され、ついで新たな正統として伝わった漢音が日本書紀に反映される、それだけの違いだろうか?
成立年代を見てみる。
古事記は712年、日本書紀は720年に選上された。万葉集は大したもので、最も新しい歌は759年の収録とされるが、編集の開始はほぼ百年前に遡る。何と堂々たる進め方ではないか。
その開始時点の用字法を継続したとすれば、万葉集が最も古い形を(従って、より古い呉音を)残しているのは当然として、古事記と日本書紀の成立にはわずか8年の違いしかない。年代だけで説明するのは難しそうである。
そこで日本書紀の補注を読み進めると、こんな記載に出会った。
このように、書紀の仮名が依拠する字音は、古事記・万葉集とは相違が大きいが、それは書紀が、当時の中国の首都の所在地の発音を手本としたからである。書紀の字音は、当時の北方中国の発音をかなり微妙な点まで反映しているところがあり、北方中国語を熟知している人が編修に参与していることを推測させる。そして、おそらくその人は日本人ではないだろうと大野晋はいう。(前掲書、P.322)
本当に、わくわく、ぞくぞくしてくる。
そうだとすれば、古事記と日本書紀の字音に関する違いは、後者の編集に際して、ある外国人(おそらくは長安・洛陽あたりから出た中国人)が新たに加わったことによって生じた、そういう理屈になる。
その人物は、遣隋使・遣唐使の帰国に際し招かれて同道した者に違いない。何という名のどういう人(たち?)だったのか。
きっと調べた研究者がいるんだろうな。
***
情報が連れ立ってやってきたというのは、またしても碁の話、週刊『碁』の連載記事のことである。
大阪商業大学・学長の谷岡一郎氏が、『囲碁十九路盤の起源』という著作を上梓した。
2013年3月発行なのに、アマゾンでは早くも品切れで中古本が¥3,450から出ている。
出版界はどうなってるの、というのは脱線で、その「ハイライト」記事から抜粋する。
現在「碁」の中国語の発音は、日本人には「キィ/チィ」と聞こえます。囲碁は「ウェイキィ」です。もともと棊も棋も碁も同じ字ですから、不思議ではないわけですが、この発音は「漢音」と呼ばれる発音で、隋王朝の601年に統一され、唯一正式な発音と決められたわけです。
「碁」を「ゴ」と発音したのは南北朝における南朝、特に呉地方のこと。漢音に対して「呉音」と呼ばれます。現在なら杭州と呼ばれるあたりで、東晋の首都建康はここに位置したのですが、王羲之が内史(知事)を務めていた会稽(かいけい)も目と鼻の先です。
漢音も呉音も日本に複数のルートで、もしくは複数の時代に入っています。たとえば「其」のツクリをもつ「期」は「キ」が漢音の読みでこれが普通ですが、「最期」や「一期一会」など、「ゴ」と発音することもあり、これが呉音のヨミです。呉音の読みは主として仏教用語で多かったようです。
ともかく「碁」の文字は、「中国南部(呉地方)から、発音統一以前に日本に伝わった」と考えてよいでしょう。でなければ碁には「キ」の発音が残ったはずですから。
「棋」というと多くの日本人は「将棋」を先に考えるが、「琴棋書画」は君子のたしなみと言われたように、もともと「棋」は「碁」のことだった。「ことだった」というより、そもそも同じ字だったというのである。
それが「碁(ゴ)」と呼ばれるのは、南朝から伝わった呉音を反映しており、隋唐帝国が中国を再統一する以前の古い層に連なっているということ、「碁」は古事記・万葉の字音に属し、「棋」は日本書紀の族であること、何でこういうことがこんなに気持ちを昂揚させるんだろうか。知って嬉しくてたまらない。
***
「ゴ」の音と「キ」の音、比べてみるに「ゴ」は丸くて柔らかく、「キ」は角張っていて鋭い感じがしないだろうか。
それはそのまま、揚子江下流の肥沃で海洋的な風土と、黄河上流の峻嶮で山岳的なそれとを象徴するように思われる。
「物語に見る人格類型」の話がもう少し進んだところで、パールバックの『大地』に触れる予定だ。主人公の王一家が飢饉にあって南方に逃れた時、そこに見出した対照が連想される。
いろいろなものが、こうしてつながってくる。
この年になって、こんなことも知らないということが、いくらでもある。
それがしかし、いくつもの情報が足並みそろえてやってきて、声を揃えて教えてくれるとなると、これはこれまた嬉しくて・・・何を言ってるの?
漢字の音読みと訓読みの二重構造にしきりにこだわるけれど、音読みと言っても一通りではないこと周知の通り。いわゆる呉音と漢音だ。
僕はこれにまったく注意を払っておらず、中国は広いから発音にも多系統あって不思議ないわな、ぐらいに考えていた。
ふと注意を喚起されたのは、先日来ゆっくりゆっくり読んでいる『日本書紀』の、詳細をきわめた例の補注。
古事記・万葉集と日本書紀の万葉仮名は、その依拠する中国の字音に相違がある。古事記は、百済を経由して伝来した、五、六世紀ごろの、揚子江下流地域の発音に拠っている(=呉音、石丸注)。書紀は、これに後れること百年以上の、北方中国の長安・洛陽の地方の発音に拠っている(=漢音、同)。従って、両者の間には、子音にも、母音にも、多くの相違点がある。(『日本書紀(一)』岩波文庫、P.320)
これで初めてピンと来た。
五、六世紀ごろの揚子江下流は、東晋(317~420)とこれに続く南朝が栄えた地域だ。
ここから発して百済を経由して伝えられた文字のセットが、日本人の初めて手にした「漢字」である。
これに後れること百年以上、つまり六、七世紀以降の北方中国とは、言うまでもなく隋(589~618)と唐(618~907)だ。後漢滅亡からおよそ400年を経て、久々に中国全土を統一した隋唐帝国の出現は、政治的な事件であるとともに文化的な変容をも意味しただろう。
古事記・万葉集と日本書紀の字音の違いは、中国史上のこの遷移に連動している。
連動とは、どんな連動だろう?単に伝わった時期の先後の問題、先に伝わった呉音が古事記に反映され、ついで新たな正統として伝わった漢音が日本書紀に反映される、それだけの違いだろうか?
成立年代を見てみる。
古事記は712年、日本書紀は720年に選上された。万葉集は大したもので、最も新しい歌は759年の収録とされるが、編集の開始はほぼ百年前に遡る。何と堂々たる進め方ではないか。
その開始時点の用字法を継続したとすれば、万葉集が最も古い形を(従って、より古い呉音を)残しているのは当然として、古事記と日本書紀の成立にはわずか8年の違いしかない。年代だけで説明するのは難しそうである。
そこで日本書紀の補注を読み進めると、こんな記載に出会った。
このように、書紀の仮名が依拠する字音は、古事記・万葉集とは相違が大きいが、それは書紀が、当時の中国の首都の所在地の発音を手本としたからである。書紀の字音は、当時の北方中国の発音をかなり微妙な点まで反映しているところがあり、北方中国語を熟知している人が編修に参与していることを推測させる。そして、おそらくその人は日本人ではないだろうと大野晋はいう。(前掲書、P.322)
本当に、わくわく、ぞくぞくしてくる。
そうだとすれば、古事記と日本書紀の字音に関する違いは、後者の編集に際して、ある外国人(おそらくは長安・洛陽あたりから出た中国人)が新たに加わったことによって生じた、そういう理屈になる。
その人物は、遣隋使・遣唐使の帰国に際し招かれて同道した者に違いない。何という名のどういう人(たち?)だったのか。
きっと調べた研究者がいるんだろうな。
***
情報が連れ立ってやってきたというのは、またしても碁の話、週刊『碁』の連載記事のことである。
大阪商業大学・学長の谷岡一郎氏が、『囲碁十九路盤の起源』という著作を上梓した。
2013年3月発行なのに、アマゾンでは早くも品切れで中古本が¥3,450から出ている。
出版界はどうなってるの、というのは脱線で、その「ハイライト」記事から抜粋する。
現在「碁」の中国語の発音は、日本人には「キィ/チィ」と聞こえます。囲碁は「ウェイキィ」です。もともと棊も棋も碁も同じ字ですから、不思議ではないわけですが、この発音は「漢音」と呼ばれる発音で、隋王朝の601年に統一され、唯一正式な発音と決められたわけです。
「碁」を「ゴ」と発音したのは南北朝における南朝、特に呉地方のこと。漢音に対して「呉音」と呼ばれます。現在なら杭州と呼ばれるあたりで、東晋の首都建康はここに位置したのですが、王羲之が内史(知事)を務めていた会稽(かいけい)も目と鼻の先です。
漢音も呉音も日本に複数のルートで、もしくは複数の時代に入っています。たとえば「其」のツクリをもつ「期」は「キ」が漢音の読みでこれが普通ですが、「最期」や「一期一会」など、「ゴ」と発音することもあり、これが呉音のヨミです。呉音の読みは主として仏教用語で多かったようです。
ともかく「碁」の文字は、「中国南部(呉地方)から、発音統一以前に日本に伝わった」と考えてよいでしょう。でなければ碁には「キ」の発音が残ったはずですから。
「棋」というと多くの日本人は「将棋」を先に考えるが、「琴棋書画」は君子のたしなみと言われたように、もともと「棋」は「碁」のことだった。「ことだった」というより、そもそも同じ字だったというのである。
それが「碁(ゴ)」と呼ばれるのは、南朝から伝わった呉音を反映しており、隋唐帝国が中国を再統一する以前の古い層に連なっているということ、「碁」は古事記・万葉の字音に属し、「棋」は日本書紀の族であること、何でこういうことがこんなに気持ちを昂揚させるんだろうか。知って嬉しくてたまらない。
***
「ゴ」の音と「キ」の音、比べてみるに「ゴ」は丸くて柔らかく、「キ」は角張っていて鋭い感じがしないだろうか。
それはそのまま、揚子江下流の肥沃で海洋的な風土と、黄河上流の峻嶮で山岳的なそれとを象徴するように思われる。
「物語に見る人格類型」の話がもう少し進んだところで、パールバックの『大地』に触れる予定だ。主人公の王一家が飢饉にあって南方に逃れた時、そこに見出した対照が連想される。
いろいろなものが、こうしてつながってくる。