S君より:
おはようございます。すっかり秋になりましたね。昨日の台風にひっかかりませんでしたか?
些細なることにてありき本日のためらい捨ててフジバカマ咲く(鳥海昭子)
フジバカマはキク科で、あの日のことを思い出す、という意味があるそうです。大宮駅
(「季節の花300」http://www.hana300.com/fujiba.html より拝借)
想起、か。
鳥海さんの歌には、むしろ前へ向き直る潔さ、みたいなものを感じるけれど。
*****
映画『風立ちぬ』が話題になっているが、ここは元祖、堀辰雄の『風立ちぬ』について。
昨夕、コースの作業があらかた終わって休憩の時、O先生とM先生の会話に耳が吸いついた。
社会福祉の研究者として一流のお二人は、コースにとっては慈父と賢母のような存在だが、フランス語に堪能というちょっと意外な共通点をおもちである。それを予備知識として。
「『いざ生きめやも』、という訳が間違いだとはいえない、それは『あり』だとは思うんですけれども、しかしバレリーの原詩に立ち返った時に、それが適切かどうかというのは別の問題で、」
「そうですね、Il faut には『ねばならない』という、命令とか義務を読みとるのが自然ですから。意志としても、とても強い意志・・・」
「そうなんです、『生きめやも』も意志には違いないけれど、詠嘆を含んで抒情的な、ある種の迷いや逡巡を含んだものになっていますよね、」
聞きほれてしまった。
***
『風立ちぬ』というタイトルのイメージは、ヴァレリーの詩「海辺の墓地」から採られている。その訳の当否をお二人は論じているのである。
原詩の該当箇所はこういうのだ(アクサンはこの画面ではうまく打てないので御勘弁)。
Le vent se leve, il faut tenter de vivre.
思いっきり散文的に訳すならば、「風が立つ、(私は)生きようと試みねばならない」となる。
どう日本語に落とし込むかはゆっくり考えるとして、il faut ~ は英語の must に相当する強い命令ないし義務を表し、「好むと好まざるとに関わらず、私は生きる試みを起こさねばならない」というほどのニュアンスがそこに伺われる。
フランス語もフランス人も猛烈に個人主義的なくせに、il faut といい、on で始まる構文といい、意味上の主語を省略できるところが面白いとかねがね思う。
しかしここで「生きることを試みねばならない」のは私以外ではありえない。
いっぽうの「いざ生きめやも」だが、僕にはそもそも、この句の意味が分からない。
「生きめ」は動詞「生く」+助動詞「む」で、「め」は「む」の已然形だ。
「やも」は係助詞「や」+係助詞「も」で、古語の中でも上代に属する用法である。
文末用法の「やも」は、活用語の終止形に付く場合と、已然形に付く場合があり、終止形ならば疑問・反語、已然形なら反語と決まっている。(『大辞林』ほか)
従ってここは反語、大好きな憶良の歌「まされる宝、子にしかめやも」(=子どもに如く、より以上の宝があろうか、否、ありはしない)が典型的な用例だ。
するとどうなるのだ?
「生きめやも」・・・生きていこうか、否、生きたりはできない・・・?
そんなバカな。
バカなとは思うものの、手許の辞書・文法書類からは他の解釈を発見できない。
それでは話が始まらないので、「さあ、生きていこう」という意味にとっておく。
「生きむ(=生きよう)」を修飾する、「やも」は肯定的な詠嘆ということになるか。
辞書には載っていない用法だけれど。
***
『風立ちぬ』に触れる前に、O先生とM先生の話に戻って僕にも思い当たることがある。
フランスものの場合に特に顕著かどうかわからないが、外国語の詩や歌詞を日本語に訳す場合に、原文の力強さを削ぎ落として情緒纏綿たる柔らかい文に焼きなおすことが、ちょいちょいあるようなのだ。
典型例は、シャンソンの『愛の讃歌』である。
いちばん人口に膾炙している歌詞は、たぶんこれだろうか。
清水が湧くように 静かにあふれくる
心の泉よ 愛の喜び
さす日に輝いて いつでも美しく
心にあふれる ひそかな幸せよ
(小林純一 詞)
少し強烈なのがこれ、
あなたの燃える手で あたしを抱きしめて
ただ二人だけで 生きていたいの
ただ命の限り あたしは愛したい
命の限りに あなたを愛するの
(岩谷 時子 詞)
ところで原詞はどうかといえば、
Le ciel bleu sur nous peut s'effondrer
Et la terre peut bien s'ecrouler
Peu m'importe si tu m'aimes
Je me moque du monde entier
青空が落ちてこようが
大地が裂けようが
ちっともかまわない、あなたが私を愛してくれさえすれば
世界がどうなろうと私には関係ないの
(石丸とりあえず訳)
凄いだろう?そしてどうだろうね、これ。
確かに直訳では曲に乗りそうにもないけれど、曲に乗る歌詞をひねり出す過程で、歌の印象というものが根本的に変わってしまったことは否み難い。特に小林版ではそうだ。
両先生の会話を聞いていて、ひょっとして堀辰雄も同じようなことをやっているのではないかと、少しばかり勘ぐってしまうわけだ。
***
探したら、もうひとつあった。
http://blogs.yahoo.co.jp/boitepostale2006/37534791.html
というサイトで詳しく紹介している人がある。
空がくずれ落ちて 大地がこわれても
恐れはしないわ どんなことでも
愛が続く限り かたく抱きしめてね
何もいらないわ あなたのほかには
世界のはてまで わたしは行くわ
おのぞみならば
かがやく宝ぬすんで来るわ
おのぞみならば
祖国や友をうらぎりましょう
おのぞみならば
あなたのために何でもするわ
おのぞみならば
もしも いつの日にか あなたが死んだとて
なげきはしないわ わたしもともに
とわのあの世へ行き 空の星の上で
ただふたりだけで 愛を語りましょう
これならば「訳詞」と言ってよい。永田文夫という名が記されている。
面白いのは、いくらかマイルドな岩谷訳に依った越路吹雪はストレートで強烈な歌い方、原詞に忠実な永田訳を用いた岸洋子は上品な歌い方と評されていることだ。
永田訳を越路吹雪が歌ったら、エディット・ピアフの熱唱にかなり近づいたことだろう。
(この項つづく)
おはようございます。すっかり秋になりましたね。昨日の台風にひっかかりませんでしたか?
些細なることにてありき本日のためらい捨ててフジバカマ咲く(鳥海昭子)
フジバカマはキク科で、あの日のことを思い出す、という意味があるそうです。大宮駅
(「季節の花300」http://www.hana300.com/fujiba.html より拝借)
想起、か。
鳥海さんの歌には、むしろ前へ向き直る潔さ、みたいなものを感じるけれど。
*****
映画『風立ちぬ』が話題になっているが、ここは元祖、堀辰雄の『風立ちぬ』について。
昨夕、コースの作業があらかた終わって休憩の時、O先生とM先生の会話に耳が吸いついた。
社会福祉の研究者として一流のお二人は、コースにとっては慈父と賢母のような存在だが、フランス語に堪能というちょっと意外な共通点をおもちである。それを予備知識として。
「『いざ生きめやも』、という訳が間違いだとはいえない、それは『あり』だとは思うんですけれども、しかしバレリーの原詩に立ち返った時に、それが適切かどうかというのは別の問題で、」
「そうですね、Il faut には『ねばならない』という、命令とか義務を読みとるのが自然ですから。意志としても、とても強い意志・・・」
「そうなんです、『生きめやも』も意志には違いないけれど、詠嘆を含んで抒情的な、ある種の迷いや逡巡を含んだものになっていますよね、」
聞きほれてしまった。
***
『風立ちぬ』というタイトルのイメージは、ヴァレリーの詩「海辺の墓地」から採られている。その訳の当否をお二人は論じているのである。
原詩の該当箇所はこういうのだ(アクサンはこの画面ではうまく打てないので御勘弁)。
Le vent se leve, il faut tenter de vivre.
思いっきり散文的に訳すならば、「風が立つ、(私は)生きようと試みねばならない」となる。
どう日本語に落とし込むかはゆっくり考えるとして、il faut ~ は英語の must に相当する強い命令ないし義務を表し、「好むと好まざるとに関わらず、私は生きる試みを起こさねばならない」というほどのニュアンスがそこに伺われる。
フランス語もフランス人も猛烈に個人主義的なくせに、il faut といい、on で始まる構文といい、意味上の主語を省略できるところが面白いとかねがね思う。
しかしここで「生きることを試みねばならない」のは私以外ではありえない。
いっぽうの「いざ生きめやも」だが、僕にはそもそも、この句の意味が分からない。
「生きめ」は動詞「生く」+助動詞「む」で、「め」は「む」の已然形だ。
「やも」は係助詞「や」+係助詞「も」で、古語の中でも上代に属する用法である。
文末用法の「やも」は、活用語の終止形に付く場合と、已然形に付く場合があり、終止形ならば疑問・反語、已然形なら反語と決まっている。(『大辞林』ほか)
従ってここは反語、大好きな憶良の歌「まされる宝、子にしかめやも」(=子どもに如く、より以上の宝があろうか、否、ありはしない)が典型的な用例だ。
するとどうなるのだ?
「生きめやも」・・・生きていこうか、否、生きたりはできない・・・?
そんなバカな。
バカなとは思うものの、手許の辞書・文法書類からは他の解釈を発見できない。
それでは話が始まらないので、「さあ、生きていこう」という意味にとっておく。
「生きむ(=生きよう)」を修飾する、「やも」は肯定的な詠嘆ということになるか。
辞書には載っていない用法だけれど。
***
『風立ちぬ』に触れる前に、O先生とM先生の話に戻って僕にも思い当たることがある。
フランスものの場合に特に顕著かどうかわからないが、外国語の詩や歌詞を日本語に訳す場合に、原文の力強さを削ぎ落として情緒纏綿たる柔らかい文に焼きなおすことが、ちょいちょいあるようなのだ。
典型例は、シャンソンの『愛の讃歌』である。
いちばん人口に膾炙している歌詞は、たぶんこれだろうか。
清水が湧くように 静かにあふれくる
心の泉よ 愛の喜び
さす日に輝いて いつでも美しく
心にあふれる ひそかな幸せよ
(小林純一 詞)
少し強烈なのがこれ、
あなたの燃える手で あたしを抱きしめて
ただ二人だけで 生きていたいの
ただ命の限り あたしは愛したい
命の限りに あなたを愛するの
(岩谷 時子 詞)
ところで原詞はどうかといえば、
Le ciel bleu sur nous peut s'effondrer
Et la terre peut bien s'ecrouler
Peu m'importe si tu m'aimes
Je me moque du monde entier
青空が落ちてこようが
大地が裂けようが
ちっともかまわない、あなたが私を愛してくれさえすれば
世界がどうなろうと私には関係ないの
(石丸とりあえず訳)
凄いだろう?そしてどうだろうね、これ。
確かに直訳では曲に乗りそうにもないけれど、曲に乗る歌詞をひねり出す過程で、歌の印象というものが根本的に変わってしまったことは否み難い。特に小林版ではそうだ。
両先生の会話を聞いていて、ひょっとして堀辰雄も同じようなことをやっているのではないかと、少しばかり勘ぐってしまうわけだ。
***
探したら、もうひとつあった。
http://blogs.yahoo.co.jp/boitepostale2006/37534791.html
というサイトで詳しく紹介している人がある。
空がくずれ落ちて 大地がこわれても
恐れはしないわ どんなことでも
愛が続く限り かたく抱きしめてね
何もいらないわ あなたのほかには
世界のはてまで わたしは行くわ
おのぞみならば
かがやく宝ぬすんで来るわ
おのぞみならば
祖国や友をうらぎりましょう
おのぞみならば
あなたのために何でもするわ
おのぞみならば
もしも いつの日にか あなたが死んだとて
なげきはしないわ わたしもともに
とわのあの世へ行き 空の星の上で
ただふたりだけで 愛を語りましょう
これならば「訳詞」と言ってよい。永田文夫という名が記されている。
面白いのは、いくらかマイルドな岩谷訳に依った越路吹雪はストレートで強烈な歌い方、原詞に忠実な永田訳を用いた岸洋子は上品な歌い方と評されていることだ。
永田訳を越路吹雪が歌ったら、エディット・ピアフの熱唱にかなり近づいたことだろう。
(この項つづく)