散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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書き物のアイデア 001 『ニッポン対比列伝』

2014-02-03 21:26:34 | 日記
2014年2月3日(月)

 プルタルコス『対比列伝』

 テセウスとロムルスに始まり、ペリクレスとファビウス・マクシムス、アレクサンドロスとカエサル、デモステネスとキケロ等々、類似したギリシアとローマの偉人たちの豪華な対比。
 しかし真に素晴らしいのは、プルタルコスのこのアイデアだ。

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 笑っちゃダメだよ、実際、笑うようなことでもないんだから。
 
 横井庄一氏と小野田寛郎氏の対比についてH君と語らっていた時に、円谷幸吉と君原健二の悲劇的な対照のことを思い出した。そういう目で見直したら、日本の近現代史の中に同様に豊かな対比があるのではないかと考えたりして。

 『ニッポン対比列伝』

 もちろん、二組では、てんで寂しい。
 他にないかな、良い組み合わせが。

茶の湯とミサと利休居士/ちょっと気になること

2014-02-03 19:21:09 | 日記
2014年2月3日(月)

 新聞の文化欄が、半ページ使って「茶の湯の作法」と「カトリックのミサにおける司祭の所作」の類似性を紹介している。「キリスト教の影響を受けていたとする説がある」いっぽうで、「資料はなく偶然のものとの反論もある」と慎重なスタンスだけれど。

 僕はずっと「そうに決まってるじゃん」と思っていた。僕だけじゃないと思うな。
 キリスト教びいきとか、これはそういう問題ではない、両方に出てみれば納得するほかない。そのぐらい似ている。
 「利休は黒田如水などと違ってキリスト教徒ではなかった」と言うんだが、これは全く反論にならない。利休は「茶」のためなら何でも取り込んで噛み砕く、厚かましいぐらい貪欲で骨太な先駆の人だった。信徒の立場から言えば、美学だけを抜粋して信仰を顧みない邪(よこしま)をそこに見ることも可能で、それというのも彼にとっては「茶」こそ神であり全てだったからだ。だからキリスト教びいきとは関係ないと言うのだ。
 利休を描いた小説をいくつか読んだが、ある種の怪物を相手にしているような薄気味悪さがいつも抜けない。実際そんな人物で、だからこそ秀吉に譲ることなど、ハナから考えなかっただろう。
 「体を滅ぼしても魂を滅ぼせない者を恐れるな」(マタイ10:28)
 茶の湯が彼の魂である限り、利休は秀吉を恐れる理由がなかったし、恐れるわけにはいかなかった。その意味でなら、信仰の手本といっても良い。
 

***

 「皆が読んでる話題作は読む気になれない」というのは、きっと僕だけじゃないよね。案外あることだろうと期待する。
 この超ベストセラーも、そんな事情がなければとっくに読んでいたかな。いかにもそそるテーマであるうえ、執筆した作家もユニークな遅咲きの経歴で、講演や学校の特別授業などに引っ張りダコの時の人だ。そういうことなら、なおさら当分読まずにおこうと思っていましたが・・・
 最近開催されたNHKの最高意思決定機関である経営委員会で、この人物が中韓との関係に関わる微妙な問題について「必要最低限の知識を伝える番組」の必要性を提案したと、新聞の未確認情報。同委員会は番組編集の基本計画を決定できるものの「個別の番組」についての「干渉」は禁じられており、異例の発言だそうな。
 NHK新会長の就任会見での失言は、いわゆる氷山の水上部分。前会長が「中立性」をめぐって現政権から嫌われ、異例の短期で退任したことなど早くも水面下に封じられている。

 さっさと読んだ方がいいかもな。

ナショナル・ダイエット/お腹にありがとう

2014-02-03 15:46:08 | 日記
2014年2月3日(月)

 月曜の朝からブログなんか書いてヒマなことだが、今日は代休なのだ。昨日、某学習センターで単位認定試験の監督をしたので。

 都内の電車はウィークデイと違って閑散としており、のんびりした通勤は休日出勤の悪くないところである。
 地下鉄のホームで電車待ちの間、駅名表示の下に「Natl Diet Bldg」の字が見えて、何だかおかしくなった。National Diet Building ~ 国会議事堂は、なるほどそうなるんだね。
 国を挙げてのダイエット、冗談に使えそうだ。
 そういえば、national election(国政選挙)に引っかけたケッサクなジョークがあるんだが、当ブログの品位に関わる艶笑ネタなので敢えて秘す。どうしても知りたい人は有料ね。

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 むきつけに言ってしまえば、年末に上部消化管、一昨日は下部消化管、それぞれファイバースコープで検査を受けたわけだ。こんなことを詳しく書くのは悪趣味なので控えていたのだけれど、違う意味で書き留めておきたい。
 要するに、人体ってスゴい、素晴らしいということなのだ。医者のくせに今さらだけど。

 特に感動したのは結腸 ~ 上行結腸・横行結腸・下行結腸を検査では逆にたどる ~ だ。三角形の断面が襞を作って奥へ奥へと続いていく。腹腔内でも、ぬめぬめと不定形に収容された小腸(空腸・回腸)と違い、結腸は堂々たる三辺の回廊を為してがっちり固定されている。
 そうだ、解剖学で教わったっけ、結腸の構造上の三つの特徴。結腸膨起・結腸ヒモ・脂肪錘・・・確かこの三つだ。ヒモ状の結合組織が縦走して長径を制約する結果、アコーデオン状の襞ができる。それが内腔(ということはトポロジカルには体の外側)からもはっきりわかるのだ。
 強い意志をもって建設された、古代の建築物に分け入っていくような壮麗な感覚。しかもその実体は死せる大理石ではなく、生きた細胞である。
 「粘膜に毛細血管が透けて見えますね、きれいですね。」
 と、施術者はモニター上を示しつつ観光ガイドのように説明してくれる。そうだった、それに違いない。
 「これが健康な正常粘膜です。潰瘍が起きると、白っぽくなって血管は見えません。たいへん良い状態ですね。」
 
 堅牢にして機能的なこの構造物のもうひとつ驚くべき点は、それが絶えざるスクラップ&ビルドによって維持されていることだ。構造と機能は生涯にわたって一貫しているのに、物質は絶えず入れ替わる。細胞や組織はすべてそうだが、消化管粘膜はとりわけそれが顕著なのだ。腸管の粘膜上皮細胞は、たしか約三日ですべて交代する。それほど消耗を強いられる激務を担当しているのである。
 そのように回転が速いからこそ、放射能被曝の急性期に最初に傷害されてひどい下痢を起こす。骨髄抑制などは、ずっと遅れて起きる症状である。

 「生命とは、動的平衡 dynamic equilibrium である。」(ルドルフ・シェーンハイマー) 
 いま目の前に開けているのは、動的平衡の最高のモニュメントに他ならない。 

 構造美と機能美、動的平衡、その象徴である腸管に寄せるもうひとつの賛辞は、一日も休むことなく働き続ける勤勉に対してだ。こんな素晴らしい器官が自分にも備わっていること、ただそれだけで自分というものの存在が何ほどか誇らしく感じられる。造化の粋にして神慮の賜物、真にもって僕の腹は僕の頭より偉い。脱帽。

 腸を見習って、文句言わずに毎日働こう。
 少しはお腹に優しくしよう。
 
 ありがとう、僕のお腹。

言葉の紳士録 008: 「几」の字と「もたれる」

2014-02-03 14:29:17 | 日記
2014年2月3日(月)

 几という字は象形文字だったのね。

 なるほど、2本の(偶数本の)脚が天板を支えるイメージか。
 だから「机」にもなるし、「床几」にもなる。

 「凭(もた)れる」なんて、実によくできてる。
 支えとなる「几」に身を「任せる」のが「凭れる」という動作だ。
 これは字の話。

 次いで、例によって「もたれる」という大和言葉の由来が気になるところ、他動詞「もつ」の受動形「もたる」あたりかと予想を立てて調べてみるが、古語辞典には意外に用例が少ない。
 「大辞典」にはいくつか載っているが、すべて室町時代以降だ。

 岸なだれ岩にもたるるふし松の これより後は風騒ぐとも(為尹千首 1415)

 冷泉為尹(ためまさ)は室町時代の歌人、足利4代将軍・義持の命によって千首歌を詠じたものが『為尹卿千首』として遺った。ところでこの歌、例の崇徳院に似てない?

 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の 割れても末に会はんとぞ思ふ

 恋路の覚悟を歌った趣旨も近いよね、きっとそうだ。

 動詞「もたれる」については、「しつこくつきまとう」「腹にもたれる」という意味での用例が、江戸時代に確認されている。
 意外だな、この新しさ。記紀万葉にはなかったのか。

劍號巨闕 珠稱夜光 ~ 千字文 007/『千字文』と『李注』/ヘビ退治の過ち

2014-02-03 09:02:32 | 日記
2014年2月3日(月)

◯ 劍號巨闕 珠稱夜光(ケンゴウキョケツ シュショウヤコウ)
剣は巨闕と号するもの(が名高く)、珠は夜光と称するもの(が名高い)

[李注]
 昔、趙王が五張の宝剣をもち、巨闕はその最上のものだった。春秋時代の名匠。欧冶子がこれを造った際、雨師(雨の神)が水をまいて清め、雷師(雷の神)が拍子をとり、蛟竜(こうりゅう、みずちと竜)が炉を捧げ持ち、天帝が炭を焚いたそうな。
 剣に七つの星が宿り、五色の竜の模様が見えたという。隣国の王が一目見たいと駿馬三千疋をさしだしたが、見せてはもらえなかったと。

 夜光は楚王のもちもので、海竜王の息子のプレゼントだった。王子が蛇に変身して草むらで遊んでいたところ、牛飼いの少年らに見つかって打ち殺されそうになった。たまたま通りかかった楚の臣・隋侯が哀れんで助けとり、手当てをして放してやった。
 夜、庭が突然明るくなったので、すわ賊の侵入かと剣を手に出てみたが人影はなく、代わりに一匹の蛇の子が玉をくわえてそこにいた。7寸の真珠を隋侯は楚王に献じ、館の奥深く安置された玉は夜にはいつも光り輝いていたという。

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 おさらいになるが『千字文』の成立は6世紀初頭、南朝・梁の武帝が周興嗣に命じて作らせたものだ。注をつけた李暹(りせん)は北魏の人とあるが、ネットで検索すると「後漢末の武将・李暹」ばかりが出てくる。漢室の忠臣ということか献帝を守ろうとした人物らしく、三国志演義では曹操の部将・許褚に一刀のもとに斬られた。
 千字文注釈者の李暹はもちろん別人である。北魏(439-534)の人で、『文子(フミコではない、モンシかブンシか、何しろ老子の言行を解説した道家の書)』にも注をつけている。
 待てよ、『千字文』本文が6世紀初頭の成立で、『李注』も534年までには書かれたはず。となると、本文と注釈の時間差がずいぶん小さいではないか。時は中国の南北朝、本文は南朝の梁で書かれ、直後に注が北朝の北魏で書かれたということは、政治的境界を越えて文化交流が活発であった証拠だ。いつの時代にも、そういうことがあるんだな。
 ちょうどこの時期に漢字が日本へ伝えられる。まず南朝系の呉音、ついで北朝系の漢音。これは先に『古事記』と『日本書紀』における漢字の使い方の違いで触れた。日本もまた、交流の中に姿を現しつつあったのだ。

 え~っと違うよ、さっき言いたかったのは何だっけ、6世紀初頭の李暹の注に「趙」や「楚」の故事がしきりに現われる面白さだ。いわゆる春秋五覇に、楚(荘王)は見えるが趙はない。戦国七雄には両者が出てくる。そのあたりである。
 何しろ春秋戦国時代が逸話の源、歴史と神話が相半ばして汲めども尽きぬイメージの宝庫なのだろう。

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 小学生の頃、今から思えばひどく酷いやり方で蛇を殺したことがある。アオダイショウか何かを幼い頭で危険な毒蛇と思い込み、それならそれで逃げるのが正しいところを、なぜか妙に殺気だって「退治」してしまったのだ。
 今でも思い出すと悲しくなる。まして海神の嘆きはいかばかりか。
 僕はその寵を永遠に失った。