散日拾遺

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恭惟鞠養 豈敢毀傷 ~ 千字文 020/皮膚自我/予定調和と信仰

2014-02-16 08:51:09 | 日記
2014年2月16日(日)

◯ 恭惟鞠養 豈敢毀傷
 つつしんで(父母に)守り育てられたことを思えば、
 どうして敢えて身体を傷つけたりできようか。

 「身体髪膚」から連続するメッセージ。
 「恭惟鞠養」は「(父母の養育の恩を)つつしんで思い、(父母を)鞠養(キクヨウ)せよ」の意味だが、それでは豈敢毀傷にうまくつづかないので、「鞠養せよ」ではなく「鞠養の恩」と読ませるのが、李注などの苦心するところらしい。

 二回のまとめ、
 「身体髪膚、これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり」(孝経)
 「身体髪膚、これを神に受く。敢えて毀傷せざるは、信の求めなり」(散日経)

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 昨日とうって変わっての晴天、先週も土曜の大雪の後、日曜は青空だった。
 ヘレン・ケラーが「愛」の意味を問うたとき、サリバン先生が「雨上がりの空に太陽がさす」風景で答えたと、子ども向けの伝記で読んだ覚えがある。Mさんから教わったように、日差しは目でなく肌で分かるものなのだ。

 肌 ~ 皮膚感覚のかけがえのなさ。
 「今日のメンタルヘルス」の分担執筆者である山口創先生が、この方面での啓発的な仕事を営々と積んでおられる。貴重な社会貢献だ。
 D・アンジューの『皮膚自我』は刺激的だった。

 口唇期に先立って皮膚期が存在するとするか、あるいは全ての発達段階においてそれらを裏打ちするものとして遍在すると考えるか、ともかく皮膚の意味は根源的で比類なく大きい。何しろ外と中との境界なんだから、細胞にとっての細胞膜と同じで、それがなかったら僕らは存在できない。精神における自我境界の見えるモデルでもあり、今日いちじるしく揺らいでいる人の側面に関わっている。
 発達期の皮膚にたっぷり栄養をもらっていないと、長じてそこに不安が残ってリスカの一因となる・・・「そんなに単純じゃないですよ」と山口先生に笑われそう。

  

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 予定調和と信仰の違いは・・・不調和なもの、容認しがたいことまでも、人生の一部として引き受けることか。
 だからヨブ記なのか。

 日曜の朝、天気晴朗なれども風強し。