散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

クロワッサンとトルコ風/スピロヘータ、鉄砲を抜く

2014-02-08 19:07:33 | 日記
2014年2月8日(土)

 ソチ冬季五輪開幕。
 この地名を以前から知っていた人は偉いね。僕はもちろん知らなかった。
 黒海の北東岸、300㎞ほど西にはクリミア(クリム)半島がある。クリミア戦争の舞台であり、セヴァストポリ要塞の攻防戦は酸鼻を極めた。下っては、半島南端のヤルタで第二次世界大戦の戦後処理に関わる首脳会談が行われるなど、近現代史のきな臭さが刻印されている。
 「東西文化の十字路」とは、黒海対岸のイスタンブールに冠せられる美称だが、広く黒海沿岸全体がそのような意味をもつだろう。この土地をロシアが領有する現状自体、長く困難な歴史の産物である。グルジア人の思いはとりわけ複雑と思われるが、スターリンがグルジア人であることを考えたりすると、もう訳が分からない。
 ・・・などと書きながらふとインターネットを見たら、開会式で各国選手団の入場にあわせて、その国の地図を地面に映し出す際、グルジアとの係争地でロシアが一方的に独立を承認している2地域(アブハジア自治共和国、南オセチア)は白い雲様の映像で覆われていたそうだ。
 グルジアでは「ロシアはグルジアの面目を潰した」といった声が早速あがっているらしいが、他人事と思うなかれ、北海道東部のいわゆる北方領土も同じくボカシが入ったんだそうだ。ほんと?
 ちなみに僕は領土拡張主義者ではないけれど、ポツダム宣言の趣旨からすれば北方四島だけでなく千島列島全体が日本の固有領土のはずではないかと思う。今さらそれを主張しようというのではない、ポツダム宣言を素直に読むなら、そうなるはずだという意味でね。 

***

 戦争が異文化間コミュニケーションを劇的に促進することは、悲しくも峻厳な歴史の現実である。
 いつも真っ先に思い出すのは中国で発明された「紙」の製法が、西方世界へ広まった経緯だ。西暦751年、中央アジアのタラス河畔で唐とアッバース朝の軍隊が戦った。戦闘はアッバース朝の勝利に帰し、唐人の捕虜の仲に紙作り職人のいたことが歴史を動かした。イスラム世界で改良を加えられた製紙法は12世紀にはヨーロッパに伝わる。いわゆる12世紀ルネッサンスとの関連は分からないが、下って1450年頃にグーテンベルクが活版印刷法を考案したとき、紙の潜在的な可能性が爆発的に開花したことは疑いない。

 軽い話題に逃げよう。
 クロワッサンの由来である。あの三日月形はトルコの新月旗(「いわゆる」新月旗、新月は三日月と違うのに)を象ったものだという説があるよね。
 Yahoo 知恵袋の回答者が紹介する逸話は、以下のようだ。
「昔、オーストリアがトルコと戦っていた頃、トルコ軍が攻めてきてウィーンの街は包囲されました。ある早朝、奇襲作戦に出たトルコ軍の兆候に、仕込みをしていたパン職人が気が付き、いち早く軍隊に知らせたことからトルコ軍の作戦は失敗し、それがきっかけでトルコ軍は引き上げました。
 その勝利を祝い、トルコの国旗にある三日月に似せたパンを作り、有名になったのが起源、といわれています。
 その後、マリーアントワネットがフランスに嫁いだ際、連れて行ったパン職人がこれをフランスに伝え、クロワッサンとしてフランス国内のみならず世界にひろまった、とか。」

 オスマン・トルコによるウィーン包囲は二次にわたるが、経過からも時期からしてもこの件は、第一次包囲(1529)ではなく第二次包囲(1683)に違いない。
 後世から見るとこの包囲戦はトルコ側の大失敗で、オスマン帝国凋落のきっかけともなるのだが、当時のウィーン市民やヨーロッパ列国にとっては心胆の凍えるようなできごとだった。
 それを思うとき、「恐るべき強敵のシンボルをパンに象って食べる」って、なかなか意味深長ではないか?敵を噛み砕き呑み込むわけだから、まずは恐怖を打ち消す象徴的行為と解釈できる。しかしそれを日々くりかえし食べては消化吸収することによって、同一化が生じる側面も無視できない。
 すなわち、攻撃者との同一化(あるいは同一視) ~ identification with the aggressor ~ この防衛機制は相当強力なのだ。
 そういえばどこかの部族の食人の風習について、「食べることによって敵の偉大な力をわがものにする」という意味がこめられていると聞いたな。「旗」は強烈なシンボルなんだから、敵の旗の型どりを食べることは、敵そのものを食い尽くすことにかなり近い。象徴的な「食敵」である。

 トルコといえば、モーツァルトに『トルコ風』を副題にもつ作品があり、映画『アマデウス』にも「トルコ風」がウィーンに流行する場面がある(どの程度ほんとうのトルコ風を反映しているかどうかはともかく)。トルコの軍楽隊の音楽は独特だが、僕の知る限りでそれが西洋音楽の旋律なり形式なりに本格的な影響を及ぼしたとは思えない。しかし少なくとも、ある一連のイメージを喚起する力を「トルコ」がもったことは間違いない。それが面白い。
 恐るべき軍事力をもち、宗教を異にする ~ 単に異にするばかりでなく真っ向から敵対する ~ 「不倶戴天の」敵、全盛期を過ぎたとはいえ、18世紀後半においてトルコの脅威は決して過去のものではなかった。その敵の存在が文化的な刺激となることが、何とも不思議で触発的である。

***

 戦争以上に効率の良いコミュニケーション手段が、たぶんひとつだけある。
 性的交渉だ。こんなことばっかり書いてると、そのうち破門されちゃいそうでおっかないけど。

 論より強力な証拠がここにある。
 AIDS出現までは歴史上最も危険な性病であった梅毒。この病気は元来、中南米のみに存在した病気だった。それが他の地域へ進出を開始したのは西暦1492年、コロンブス御一行さまのお土産とするのが通説で、彼の人々の旺盛な好奇心と生命力を証明するものでもある。
 それはさておき、この病気は ~ 病原体は、というべきか ~ その後めざましいスピードで東進し、遅くとも1512年には日本に到達した。遅くともというのは、明らかに梅毒と思われる病気「唐瘡」がこの年に京都で大流行したことが、文献で確認されるからだ(『再昌草』三条西実隆、『月海録』竹田秀慶)。その間わずか20年、マゼラン一行の世界周航(1519~22年)すら達成されていない当時の交通事情を考えるなら、まさしく驚異的なスピードである。
 ついでに言うと、梅毒は伝来の途中で鉄砲を追い越している。ヨーロッパにおける鉄砲の発明年代を正確に決めるのは難しく、また本来の起源は中国であってヨーロッパ人がこれを改良したに過ぎないというお決りの異論もあるが、何しろ梅毒よりもはっきり早く14~5世紀のある時期にヨーロッパを出て、1542-3年の「マラッカ銃、種子島渡来」に至るわけである。梅毒はあっという間にこれを抜き去り、30年も早く日本に到達した。
 鉄砲の伝播の速さも相当なもので、軍事技術の浸透性の大きさを物語る例証とされるが、それを遥かに凌駕する梅毒の伝播速度には、もはや言葉がない。

 性交渉のもう一つの偉大な特性は、そこで遺伝子が入り交じり、ハイブリッドとしての子孫が生み出される点だ。混血児の運命はしばしば困難なものになるが、急性期を乗り越えることができれば新たな文化が生み出される可能性がある。現に中南米の人々は、そのようにして別天地を創り出した。
 
 産めよ、増えよ、地に満ちよ!

あまりにも絶好/五番町の由来/天寿院/なさぬ仲

2014-02-08 12:41:42 | 日記
2014年2月5日(水)

「あまりにも絶好」
 この表現はいかが?

 「それってヘン!」と笑ってくれれば嬉しいところ。「絶好」は「比較を絶する好さ」とでもいうような究極表現だから、「少し絶好」とか「なかなか絶好」とか、程度を修飾する言葉とは折り合わない。むろん「すごく絶好」も「あまりにも絶好」もペケ、「絶好」は「絶好」だ。
 しかしこれも、Nさんほどの才媛が書いたとなると、案外ワザとかなという気もしたりして。

 新聞の囲碁観戦記、これは誰でも書けるものではない。事実の正確な把握、ドラマ性に対する感受性、気を逸らさない文章表現力、それらに加え、記者自身がある程度(というか相当に)碁が強くなければならない。プロの解説を聞いて、それを理解できる水準というと、アマも高段の実力だよね。
 朝日新聞には現在3人の記者が寄稿しているが、それぞれ個性があってたぶんブラインドでもあてられる。紅一点のNさんはお利口で有名な女子大の囲碁部OGだが、お目にかかるとちょっとイメージが違って、何というか存在感があるのだ。何でお目にかかったかというと、ときどき石倉教室を手伝いに来られるんだな。
 講義の聞き手を務めることもあるが、たぶん打ち合わせよりも過激にツッコみすぎて、碁の授業だか掛け合い漫才だか分からなくなる時がある。対局の時間には、見て回りながら「ここはこう打つんでしょ」みたいな指導をポンポン入れるので、苦手な人もありそうだが僕は大いに楽しみで。
 どんな碁を打つのかな、盤を囲んでもポンポン打ち込んでくるのかな。ポンポン書いて時たまポカをやる、愛すべき才媛である。

***

 ハーンの『日本の怪談』を検索したときに、また別の『日本の怪談』コレクションが見つかったので読んでみた。『四谷怪談』『牡丹灯籠』『皿屋敷』『乳房榎』のコレクションである。面白いという言葉があたるかどうか、感想は保留するとして、副産物がとりあえず嬉しかったので。
 日本の碁の中心組織である日本棋院は、市ヶ谷駅の近くにある。住所が千代田区五番町 ~ 「碁盤町」と引っ掛かけのきく、良い地名を選んだものだと感心するが、その五番町の縁起が『皿屋敷』の中にある。

 「徳川家康が天下を平定したのち、柳営(りゅうえい、将軍の陣営・幕府)勤仕の侍たちに江戸城近傍の屋敷が与えられた。
 武役の番士を諸所散り散りに配置し、非常の事態が起きたときのために、書院番・小姓組・大番組・小十人組・徒(かち)組という役を置いた。これらの組の者は行列の際に供奉し、将軍のそばを決して離れぬ役柄で、この五役の面々を五番衆といった。
 (中略)
 五番士勤功の者たちを一つの曲輪に住ませたところから、その地を五番町と称した。また、縦横に小路が走り、四角形に分けられた様子が、まるで碁盤の目のようであったため盤町とも呼ばれたという。」

 道理で。

 でも、今は千代田区に一番町から四番町までもあるよね。元祖の五番町からカウントダウンしたのかな。
 Wiki をカンニングしたら下記のようにあった。大同小異、このほうがわかりやすいかな。五番町の優先性は、これだとはっきりしないけれど。

 「江戸時代の旗本のうち、将軍を直接警護するものを大番組と呼び、大番組の住所があったことから番町と呼ばれた。大番組は設立当初、一番組から六番組まであり、これが現在も一番町から六番町に引き継がれている。」

***

 この本の副産物として、他にもいくつかの歴史トリビアに出あった。
 たとえば天寿院、将軍秀忠の娘で、豊臣秀頼に嫁がされたあの千姫である。坂崎出羽守が落ちる寸前の大坂城から救い出し、家康は約束通り千姫を妻に与えようとしたが、坂崎があまりに醜男であったため姫が頑なに拒んだという。
 無念の坂崎に代え、重臣本多忠勝の嫡孫に再嫁したが、夫が早世したため出家して天寿院となった。この天寿院が美貌ながら身持ちが悪く、屋敷を気ままな猟色の舞台に変じた。これが皿屋敷であるとされる。
 ここを舞台に凄惨な怪談が展開するのだが、脚注のような形で麹町平河町の山田浅右衛門に言及のあるのが嬉しい。山田浅右衛門は代々、死罪の者の首切り役を務めた。ある代の浅右衛門(朝右衛門)を主人公とした劇画『首斬り朝』は、小池一夫・小島剛夕の名コンビによる奇なる傑作である。

 史実は知らず、作中の天寿院は飽くことを知らぬ淫蕩に加え、嫉妬に駆られて侍女とその恋人を惨殺する夜叉の如き女性である。そして作者は、次のような解釈を
もって締めくくりとしている。

 「天寿院は6歳の時に大阪へ輿入れし、秀頼との仲も睦まじかった。落城のみぎり、逃れ出てから三度嫁ぎ、夫ではない男と幾人となく契ったのは、過去の宿業とはいうものの、ひとつには大坂方の戦死者の怨念がその身に報いたのであろう。『悪鬼がその身に入る』とはこのようなことを言うのであろう。」

***

 ついでにもうひとつだけ、「なさぬなか」ってどんな仲だ?
 「生さぬ仲」と書き、血のつながりのない親子の間柄を言うのだ。この言葉を、何となく「世に入れられない男女の仲」ぐらいに思い込んでいる手合が多い・・・なんて偉そうに言えない、僕も40年ぐらい前はてっきりそうだと思ってたんだから。
 だけど、言葉の専門家がこれをやっちゃあマズイですよ。
 「おきせとなさぬ仲になった磯貝は、師匠の重信を邪魔に感じるようになっていた。<師匠の重信は絵を描き終えたら帰ってきてしまう。いっそ重信を亡き者にして、おきせと天下晴れて楽しもう>」(『乳房榎』)
 ここは笑うところじゃないのでした。

雪の記憶 その1(いずれその2は、山形について)

2014-02-08 10:33:37 | 日記
2014年2月8日

 東京では16年ぶりの大雪だそうだ。
 1973年にこの地域に移ってきてから、主な「大雪」については何かしら記憶がある。

 最初は1974年、高校二年の冬。この時は怖い思いをした。
 学校帰り、最寄り駅からの急な下り坂にさしかかって、いきなり派手に滑った。身軽な年齢でケガは免れたが、立ち上がろうとして容易ならぬ事態に気づいた。立とうにも幅3mほどの路面が一様に凍っていて、手がかり足がかりが何もない。急坂の最上部だが坂の上には引き返せないし、前には30mほどの急坂がおいでおいでをしている。車でも来ようものならどうなるか。
 文字通り這々(ほうほう)の体でどうにか路側の塀にとりついたが、これがまた手摺りのないのっぺりした高さ2mの障壁である。恥も外聞もなく、塀の小さな突起に指をかけながら30㎝刻みで横滑りを繰り返し、どうにか坂を降りきって安心した途端、もう一度派手にコケた。
 山形など雪深い土地にも住んだから、怖さや対策を知らない訳ではない。ただ、日頃の帰宅路(朝は違う道を通ることが多かった)が凍結しているという予測のないまま、危険地帯に踏み込んで気づいたお粗末の段。靴も年中一張羅のバックスキンで、むろん靴底はツンツルテンであった。

 次がちょうど10年後の1984年、この冬はこれが東京かと思うぐらい、よく降り、よく積もった。必然的に春の到来も遅く、ついでにイースターも遅かった。
 イースター(復活節)はいわゆる移動聖日で、「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」と決まっている。クリスマスが冬至の祭りと不可分であるように、イースターは春の祝祭と深い関わりがあるが、そこに「満月」が介在するのは中東地域の太陰暦との兼ね合いである。ユダヤ風に言えば「ニサンの月」の満月の次の日曜日である。
 イースターは理論上3月22日から4月25日の間のどこかに落ち着くことになるが、1984年はそれが4月22日とぎりぎり近い遅さだった。それと歩調を合わせるように、春の到来も珍しいほど遅れたのである。4月22日の日曜日は抜けるような晴天、東京のソメイヨシノは満を持して一斉に満開を迎えた。こんなに遅い桜は記憶にない。
 その日に受洗した。覚えているわけだ。
 桜は連休前まで咲き誇っていたっけ。

 さらにその次は1998年。前年にアメリカから戻り、長男は区立の小学校、次男は教会附属幼稚園、三男は初夏の誕生に向けてぬくぬくと成長中の冬だった。。
 1月だか2月だかの祝日、幼稚園で父親を集めてプレイデイをやることになり、僕は何だったか役割をいただいた。当日が大変な積雪で、長靴で膝までの雪を踏み分けながら、1㎞あまりの道を会場までたどり着いたものである。これもなかなか凄かった。
 昨日からしきりに「16年ぶり」と聞こえるのは、この年以来なんだな。

***

 温暖化が懸念される中、冬に雪が降るの報に安堵する自分がいるが、実害を被る人々にはそれどころではない。病院の玄関で転んでケガをするといった話は、雪が降る度に聞こえてくる。今日明日は私大入試日程の山で、大学関係者や受験生は気が気でないはずだ。そして、高齢者やハンディキャップを負う人々。「コミュニティの崩壊」とは、「大雪の日に一緒に雪かきする仲間がない」ということだ。
 福井市の交差点には角毎に緑のスコップが設置され、信号待ちのわずかな時間に人々が雪をかく姿がある。負荷を逆手にとって、コミュニティ形成のためのバネとする知恵である。
 新年ではないけれど、いつぞやの引用をもう一度。
 
 新しき年の始めの初春の 今日降る雪のいや重け吉事 (大伴家持)


推位讓國 有虞陶唐 ~ 千字文 012

2014-02-08 08:24:23 | 日記
2014年2月8日(土)

◯ 推位讓國 有虞陶唐(スイイジョウコク ユウグトウトウ)
帝位を推(ゆず)り、国を(臣下に)譲ったのは、舜や尭であった。

 尭は陶唐氏と号し、位を譲って舜に与えた。舜は有虞氏と称し、位を譲って禹に与えた。

[李注]
 尭は聖王とされるが、52年の治世の間に9年も洪水に襲われ、自身に徳がないことを悟った。実子の丹朱は不肖で国を治める能力がなかった。尭は舜の噂を聞いて ~ 継母の讒言で父に命を狙われながら、ついに父を裏切ることがなかった稀代の孝行息子と ~ これを召し、帝位とともに二人の娘を妻に与えた。
 舜は手を拱(こまね)いて何もしなかったが、世界全体がその徳に帰した。在位82年、子の商均が不肖だったので、位を伯禹に譲った。禹は夏后氏と号し、夏・殷・周の祖である。

 伝説を通して、徳に基づく王道を解説するものだが、かつて伝説上のものと思われていた殷は今日では実在が確認されている。そのうち夏の遺跡も発掘されたりするかも知れない。してみると、これは歴史教育にも関わっている。
 今日は社会科、『千字文』は万能の教材たるべく、実によく工夫されている。

 さて、今日は本当に雪になった。かなりまとまった雪だ。