2014年2月18日(火)
遅い昼休みに、ふと思い出したことを。
クロワッサンの由来がトルコの新月旗らしいという話をこないだ書いた。クロワッサンと言えば・・・
「あたし、クロイッサントが大好きなの、あれ美味しいでしょ?」
「クロイッサント?」
「知らない?ほら、こんな形のサクサクの、フランスのパンよ」
「ああ、クロワッサン・・・」
会話の相手はセントルイス時代のお隣のサラ、高校の英語の(つまり国語の)先生で立派な教養人、それだけにクロイッサントにはつい笑った。
カラクリははっきりしていて、あれは croissant と綴るから、耳からでなく目から知った英語人には「クロイッサント」と読めてしまう。字母が共通だからこそ起きるマチガイである。
この種の例はいくらでもあるだろう。確か『ロッキー』の第2作で、一躍人気者になった主人公がCF撮りに引っ張り出されるが、rendez-vous を「レンデズヴァウス」とか何とか読んでNGになっちゃう場面があった。
むろんフランス語だけではない、たとえばドイツ語。僕らがクシャミをすると、サラはドイツ風に "Gesundheit!" と声かけてくれるんだが、その発音が「グズンダイト」としか聞こえず、かえって鼻がグズグズしちゃったりして。先祖にドイツ系がいるので、大学ではその文化を学んだ、と胸を張るジョージ某の "Ich liebe dich" は、何度聞いても「イック・ライビー・ディック」だった。
ここからが大事なところで、「フランス語やドイツ語の発音は、同じヨーロッパ系である英米人の方が、日本人よりも当然上手い」とはいえない、同じヨーロッパ人だからこそ、誤った発音に陥りやすいということがある、それで終わりにしたらいけないのね。
ひっくり返せば、僕らは中国語に関して、ちょうど仏独語に対する英語人の立場にある。漢字が読めちゃうから、本来の発音がかえって頭に入らないということが、ヤマほどあるのだ。
毛沢東はマオ・ツェトン、小平はテン・シャオピン、初めて聞いたときは奇異な感じがしたものだが、考えてみれば奇異なのはこっちの発音なわけで、そのことが腑に落ちるまでに僕なんかけっこう時間がかかった。漢字なんかまるで読めない欧州人の方が、音としての中国語と中国文化に予断なく入っていけるということがある。小癪に障ると思ったけれど、そういうことは確かにあるのだ。お互いさま。
マオ・ツェトンが腑に落ちるより遥かに早く、麻雀用語はすぐになじんだ。「東南西北(トンナンシャーペー)」に「七対子(チートイツ)」に「四喜和(スーシーホー)」、これだって訛ってるんだろうけれど、はるかにオリジナルに忠実だし、少なくとも忠実たらんとしている。そうでなければ、麻雀にならないよね。
身軽なサブカルチャーは、鈍重な公式文化の行間をいつも風のように吹き抜ける。
「同文同種」という言葉はとっくに死語だし、中国の漢字簡略化、韓国の漢字離れなどは、実体的にも「同文」性に引導を渡した。漢字フェチとしてそれを惜しむ気持ちは捨てがたいが、かつて「同文同種」というイデオロギッシュな虚構が発揮した斉一化の暴力を思えば、これはこれで良いのかもしれない。
「同じだから/近いから、分かる」というア・プリオリな決め込みには、いつだって自戒が要る。遠いから見えないこと以上に、近すぎて見えないことが、この世に多いのだ。
老眼になると、なおさらね。
遅い昼休みに、ふと思い出したことを。
クロワッサンの由来がトルコの新月旗らしいという話をこないだ書いた。クロワッサンと言えば・・・
「あたし、クロイッサントが大好きなの、あれ美味しいでしょ?」
「クロイッサント?」
「知らない?ほら、こんな形のサクサクの、フランスのパンよ」
「ああ、クロワッサン・・・」
会話の相手はセントルイス時代のお隣のサラ、高校の英語の(つまり国語の)先生で立派な教養人、それだけにクロイッサントにはつい笑った。
カラクリははっきりしていて、あれは croissant と綴るから、耳からでなく目から知った英語人には「クロイッサント」と読めてしまう。字母が共通だからこそ起きるマチガイである。
この種の例はいくらでもあるだろう。確か『ロッキー』の第2作で、一躍人気者になった主人公がCF撮りに引っ張り出されるが、rendez-vous を「レンデズヴァウス」とか何とか読んでNGになっちゃう場面があった。
むろんフランス語だけではない、たとえばドイツ語。僕らがクシャミをすると、サラはドイツ風に "Gesundheit!" と声かけてくれるんだが、その発音が「グズンダイト」としか聞こえず、かえって鼻がグズグズしちゃったりして。先祖にドイツ系がいるので、大学ではその文化を学んだ、と胸を張るジョージ某の "Ich liebe dich" は、何度聞いても「イック・ライビー・ディック」だった。
ここからが大事なところで、「フランス語やドイツ語の発音は、同じヨーロッパ系である英米人の方が、日本人よりも当然上手い」とはいえない、同じヨーロッパ人だからこそ、誤った発音に陥りやすいということがある、それで終わりにしたらいけないのね。
ひっくり返せば、僕らは中国語に関して、ちょうど仏独語に対する英語人の立場にある。漢字が読めちゃうから、本来の発音がかえって頭に入らないということが、ヤマほどあるのだ。
毛沢東はマオ・ツェトン、小平はテン・シャオピン、初めて聞いたときは奇異な感じがしたものだが、考えてみれば奇異なのはこっちの発音なわけで、そのことが腑に落ちるまでに僕なんかけっこう時間がかかった。漢字なんかまるで読めない欧州人の方が、音としての中国語と中国文化に予断なく入っていけるということがある。小癪に障ると思ったけれど、そういうことは確かにあるのだ。お互いさま。
マオ・ツェトンが腑に落ちるより遥かに早く、麻雀用語はすぐになじんだ。「東南西北(トンナンシャーペー)」に「七対子(チートイツ)」に「四喜和(スーシーホー)」、これだって訛ってるんだろうけれど、はるかにオリジナルに忠実だし、少なくとも忠実たらんとしている。そうでなければ、麻雀にならないよね。
身軽なサブカルチャーは、鈍重な公式文化の行間をいつも風のように吹き抜ける。
「同文同種」という言葉はとっくに死語だし、中国の漢字簡略化、韓国の漢字離れなどは、実体的にも「同文」性に引導を渡した。漢字フェチとしてそれを惜しむ気持ちは捨てがたいが、かつて「同文同種」というイデオロギッシュな虚構が発揮した斉一化の暴力を思えば、これはこれで良いのかもしれない。
「同じだから/近いから、分かる」というア・プリオリな決め込みには、いつだって自戒が要る。遠いから見えないこと以上に、近すぎて見えないことが、この世に多いのだ。
老眼になると、なおさらね。