2015年9月26日(土)
「被爆二世」様、重ねてのコメントありがとうございます。ちょうど「希望」の項にいただけたことも幸いでした。
『桜美林論集』のこと、取りよせて御覧くださったのですね。ずいぶんスムーズにお手に入ったようで少し驚いています。「共感」に強く心引かれていた時期に書いたもので、照れくさくもあり懐かしくもあります。こんな風に参照していただき、文字にしておいた甲斐がありました。当時、少し追加して一冊にまとめてみたいとも思いましたが、「共感」について書かれたものは既に数多く、屋上屋を架すに過ぎないのではないかと先延ばしにして10年経ちました。
さしつかえなければ、御連絡先をお教えくださらないでしょうか?放送大学・生活と福祉宛てに、お葉書いただけましたら幸いです。
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石丸 昌彦 先生
小学校の校長先生から、石丸先生のBlogにコメントさせていただいた「母の被爆体験と被爆二世の思い」を各クラス担任の先生が読んで、小学6年生に伝えてもらったと報告をいただきました。
さて、これまで、私は「もらい泣き」してしまう自分を「共感しなければいけないのにダメだ」と、否定しておりました。
石丸先生から弁じていただいた言葉に励まされましたので、さらに深く知りたくなり、sympathyについて先生の論文を読ませていただきました。
その中の「身代わり地蔵の治療構造」に自分と皆さんの姿を重ね、感銘を受けました。
以下、勝手にすいません。引用させてください。
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私が病む.地蔵が病む.共に病む.私が地蔵を手当てする.私が地蔵に託した私を手当てする.
(中略)
人が地蔵を慕っていくのは.こうした交感のネットワークへのアクセスを確認するためではないのか.身代わりとは身が代わること.自分が他の何者かになり.他の何者かが自分になることである.私は独りではない.二人であり.多数であり.そして一つなのである.
石丸昌彦(2003) empathyについて 『桜美林論集』 30号 pp.21ー41
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(中略)
あえて自分に涙を許すこともあろう.それを一段高次の意味であらためてsympathyとよぶことも、この語の正当な用法の内に数えて良いと思う.
empathyとの対比においては常に損な役回りを強いられるsympathyのために.最後に一言弁じておく.
石丸昌彦(2005)sympathyとempathy 『桜美林論集』 32号 pp.71ー83
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《母》が病む、《私》が病む、《共》に病む、《母》が《私》の手当てする、《私》から《母》に託した《私》を手当てする
これが、交感ネットワーク
《母》から《私》、《私》から《石丸先生》《校長先生》から《担任の先生》、《担任の先生》から《子供たち》へと多数へ共鳴し、sympatheticなネットワークの回復が起きて治癒が起きるだけでなく
こうして、平和への願いが伝わるのではないかと、希望を持ちました。
http://tencoo.fc2web.com/jinja/xkg-gumyo.htm より拝借