2015年9月19日(土)
「被爆二世」様
拝復
コメントをありがとうございます。
「同情ではなく共感を」とおっしゃるのは、『精神医学特論』の内容を踏まえて書かれたのでしょう。PTSDの章の記載もお読みかと思います。こうして勉強を生かしてくださること嬉しく存じます。
そして何よりも、痛みに満ちた貴い体験を語ってくださり、ありがとうございました。お言葉どおり、まずは精一杯共感を働かせて拝読しました。繰り返し聞かされてきながら、性懲りもなく忘れてしまう大切なことをお伝えくださって、心から感謝しています。100人内外のブログ読者の皆さんも深い共感をもって読んだことでしょう。私にとっては、学生さんからいただいた貴重な「喝!」でもありました。へこたれている場合ではないと、鞭を入れられた気持ちです。
お書きくださったことの中で、とりわけ心に残ったのは、「二世」でいらっしゃるあなたが震災を他人事と思えず、ボランティアに駆けつけたこと、そして長いこと沈黙してこられたお母様が、御高齢に至ってインタビューに答える決意をなさったことでした。苦悩や孤独が世代間連鎖を起こすばかりでなく、これに打ち克つ力や連帯も世代を超えて伝わっていきます。世代を超える共感と言ってもよいかもしれません。強く励まされました。
私の父方の祖父(=父の父)は中国戦線で長く軍務に服した人でしたが、その日には呉にいました。光線を浴びたかどうかは定かでなく、十数年後に60歳そこそこで白血病で亡くなったこととの因果関係は不明です。同じ日のその時刻、母は瀬戸内海を望む農道を歩いていて、ふと北の方角で何かがピカッと光るのを感じたそうです。御存じの通り松山は海をはさんで広島のお向かいさん、直線距離で50kmそこそこの近さですから、母の勘違いではなかったでしょう。その光の下で何が起きているか、当時は知るよしもありませんでした。
他の時ではない、2015年9月18日の晩にこうして共感を呼びかけてくださったことが、私には天啓と思われます。ただ、共感とともに同情もまた動くことをどうぞお許しください。カウンセラーを志望する学生さんにいつも言うことにしています。生の同情では面接はできない、共感と共感的理解をしっかり学ばなければいけない。同時に同情する心を失ってはいけない。人の苦悩に触れて涙する素朴な同情を底に秘めない共感は、技法としては合格でも援助者として大事なものが欠けている、と。
お母様に、くれぐれもよろしくお伝えください。心身の健康が守られますようお祈りしています。そしてあなた御自身にも清浄な秋が訪れますように。いずれ面接授業の場などでお目にかかることもあるでしょうか。その時にはどうぞ「私がコメントの発信者です」と教えてくださいね。
敬具
石丸昌彦