散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

拝復、被爆二世様

2015-09-19 08:03:13 | 日記

2015年9月19日(土)

「被爆二世」様

 拝復

 コメントをありがとうございます。

 「同情ではなく共感を」とおっしゃるのは、『精神医学特論』の内容を踏まえて書かれたのでしょう。PTSDの章の記載もお読みかと思います。こうして勉強を生かしてくださること嬉しく存じます。

 そして何よりも、痛みに満ちた貴い体験を語ってくださり、ありがとうございました。お言葉どおり、まずは精一杯共感を働かせて拝読しました。繰り返し聞かされてきながら、性懲りもなく忘れてしまう大切なことをお伝えくださって、心から感謝しています。100人内外のブログ読者の皆さんも深い共感をもって読んだことでしょう。私にとっては、学生さんからいただいた貴重な「喝!」でもありました。へこたれている場合ではないと、鞭を入れられた気持ちです。

 お書きくださったことの中で、とりわけ心に残ったのは、「二世」でいらっしゃるあなたが震災を他人事と思えず、ボランティアに駆けつけたこと、そして長いこと沈黙してこられたお母様が、御高齢に至ってインタビューに答える決意をなさったことでした。苦悩や孤独が世代間連鎖を起こすばかりでなく、これに打ち克つ力や連帯も世代を超えて伝わっていきます。世代を超える共感と言ってもよいかもしれません。強く励まされました。

 私の父方の祖父(=父の父)は中国戦線で長く軍務に服した人でしたが、その日には呉にいました。光線を浴びたかどうかは定かでなく、十数年後に60歳そこそこで白血病で亡くなったこととの因果関係は不明です。同じ日のその時刻、母は瀬戸内海を望む農道を歩いていて、ふと北の方角で何かがピカッと光るのを感じたそうです。御存じの通り松山は海をはさんで広島のお向かいさん、直線距離で50kmそこそこの近さですから、母の勘違いではなかったでしょう。その光の下で何が起きているか、当時は知るよしもありませんでした。

 他の時ではない、2015年9月18日の晩にこうして共感を呼びかけてくださったことが、私には天啓と思われます。ただ、共感とともに同情もまた動くことをどうぞお許しください。カウンセラーを志望する学生さんにいつも言うことにしています。生の同情では面接はできない、共感と共感的理解をしっかり学ばなければいけない。同時に同情する心を失ってはいけない。人の苦悩に触れて涙する素朴な同情を底に秘めない共感は、技法としては合格でも援助者として大事なものが欠けている、と。

 お母様に、くれぐれもよろしくお伝えください。心身の健康が守られますようお祈りしています。そしてあなた御自身にも清浄な秋が訪れますように。いずれ面接授業の場などでお目にかかることもあるでしょうか。その時にはどうぞ「私がコメントの発信者です」と教えてくださいね。

 敬具

石丸昌彦


喝!

2015-09-19 07:35:41 | 日記

2015年9月18日(金)~19日(土)

 先週の午後を大学の仕事で休診にしたこともあって、今日はいつになく忙しかった。患者さんは皆それぞれ工夫を凝らして生きている。双極性障害の若い女性に、どうやら季節性の要素があるらしいと分かった。一卵性双子の妹さんにも同じ病気があるらしいが、こちらはここ数年いたって安定している。それも合点がいくというのは、パートナーの仕事の関係で常夏のシンガポールに住んでいるからである。気温の高低よりも、日照時間の振れ幅の小さいことが安定に寄与する理屈だ。秋冬に備えて人工照明法など伝授し、ついでに・・・

 「君も移住するか、常夏の国へ?」

 「ハイ、カレシに指令します!」

 ピンクのホットパンツ姿で元気よく出ていった。まずは常夏のシンガポールならぬ、薄曇りの埼玉へお出かけだそうである。

 

 帰宅してぼんやり過ごす。高尾九段半目負け、ヤクルト逆転負け、日本サッカーの父・クラマーさん他界、安保法案成立へ・・・元気の出しどころがない。きっぱり止めたはずの cosumi にだらだらハマって寝そびれ、久しぶりに夜更かししてしまう。ふくれっ面でラヂヲ体操に起きたら、ブログにコメントが届いていた。昨夜のうちに届いていたのだ。

 もう一度決意、できることを僕もしよう。

 

***

 

・コメントを書いた人: 被爆二世

・タイトル: 母の被爆体験

・コメント:

石丸昌彦先生

  放送大学で先生の精神医学を学んでいて、お邪魔いたします。私は、被爆者 二世です。同情でなく、共感してもらいたくて母の被爆体験を書かせてください。

 長文になってしまったので、お時間のある時にお読みいただければ、幸いです。

《被爆した母の話》

1945年  原爆投下の時、14歳だった私の母は、爆心地から4キロくらい離れた実家で、

ピカッと光った後、爆風に遭いましたが、無事でした。

 

爆心地近くの城山小学校が工場になっていて

工場に動員されていた姉を探して

一人で焼け野原に入りました。

戦争で、学生は、勉強はできず、兵器工場などで働かされていたそうです。

 

火傷でケロイドで真っ赤になった人々が

「水を、水を」とうめき、すがりついてきて、恐ろしかったそうです。

 

誰からか、川の水をあげたら死ぬからあげてはいけないと聞いて

水をあげなかったけど、

結局皆、亡くなって行き、

後から、あの時せめて

亡くなる前に

水をあげれば良かったと

ずっと、ずっとその事を悔やんでいました。

 

「姉さん、姉さん」と、探して呼ぶ声に振り返ったあの真っ黒こげの眼鏡の人が、

ギロッと見て怖かった。

 

でも、あれが変わり果てた姉だったかもしれないと、思い直して翌日、探しに行った時には、その人は、もう居なかったそうです。

 

秀才で作家になりたいと言っていた大好きな姉とは、とうとう会えず、お別れも出来なかったそうです。

 

毎夏、蝉しぐれの頃になると、母は、あの焼け野原の夢を見ていたらしく

決まって夜中に、うなされていました。

被爆2世の私は、夜中 母のうなされる声で、何度も起きて怖かったけど、母が心配でたまりませんでした。

戦後35年~40年経っても、その状態でした。

 

そのせいか、2011年、

私もあの焼け野原とそっくりの東日本大震災の光景を見て、他人事だと思えず、何度か東北の被災地に

畑を耕したり、心のケアのボランティアに駆けつけました。

 

2007年  戦後62年経ち、母は、76歳になって、ようやく

重い口を開いて、平和のため語らないといけないと

NHKのインタビューに被爆体験を語りました。

 

半世紀以上、人に話せなかったのは

言葉にすることも辛い、苦しい体験だったからだと、母は言いました。

 

身体には、所々に爆風で飛んだガラスが身体に刺さった傷があり、

被爆者という偏見と

子孫への影響が心配で、結婚も諦めていたそうです。

 

でも、だから、無事に生まれた子どもの私と兄をとても可愛がってくれました。

 

私は、毎年、母に手を引かれ、城山小学校と平和公園にお参りに行きました。

 

私の両親とも公務員の平均的な家庭で、母は倹約して、スーパーで1円でも安い買い物をしていましたが、

戦争で片足を失った人がアーケード街に座って募金箱を置いていると、必ず、お札を入れていました。

 

幼い私には、千円か一万円か分かりませんでしたが、戦争で大変な思いをした人だから、そうしているんだと思い、母を尊敬しました。