散日拾遺

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読書メモ: 歌よみに与ふる書(続)

2015-09-07 14:58:18 | 日記

2015年9月7日(月)

 そういえば、『歌よみに与ふる書』を読んだ後からふと気になったことがあった。すぐにその箇所を見つけ出せなくて歯がゆいのだけれど、要は「勅撰集」の権威に関わるやりとりで、これを尊び「国歌」(national anthem のことではなく、純日本風の歌謡のこと)を崇拝する類いの論者に対して、子規が例の調子で遠慮会釈もなくとっちめているのである。ああ、あった、あった。

 「日本文学の城壁ともいふべき国歌」云々とは何事ぞ。代々の勅撰集の如き者が日本文学の城壁ならば、実に頼み少なき城壁にて、かくの如き薄ッぺらな城壁は、大砲一発にて滅茶滅茶に砕け可申候。生は国歌を破壊し尽くすの考にては無之、日本文学の城壁を今少し堅固に致したく、外国の髭づらどもが大砲を発(はな)たうが、地雷火を仕掛けうが、びくとも致さぬほどの城壁にいたしたき心願有之・・・(以下略)」(『六たび歌よみに与ふる書』)

 書かれたのは明治31年、つまり日清戦争後・日露戦争前の微妙な時期だが、「勅撰集如き」云々といった言葉尻を右翼に取られる心配のなかったことが面白い。近頃の若い人が「昔」と一括りにして明治も昭和も区別しないと以前に書いたが、実はこの種の歴史音痴は自分の中にこそあり、あらためて明治と昭和の違いを確かめるのである。おちおち息もできないような治安維持法の時代とは違った、ある種の開放感が子規の時代にはあった。『坂の上の雲』の、あの明るさに通じるものである。

 ただ、それを礼賛ばかりはできない。明治時代の日本の民衆とマスコミがよほど好戦的であり、同時に現実を知らなかった/知ろうとしなかったことは、日露戦争の和睦の条件が不満だと言って騒ぎになった例の一件や、当時の新聞の論調がよく示している。日露戦争で薄氷の判定勝ちをおさめた時、ありがたい、これで植民地になるのを免れたと天に感謝して矛を収める謙虚があれば、その後の歴史も変わっていたはずで、夜郎自大とは他ならぬ僕ら日本人一般のことだ。軍人ばかりを責めるものではない。

 ついでに飛び火するなら、こういう「世論」の無責任は、例の判官贔屓の無責任と一脈も二脈も通じており、スポーツの話で済ませるわけにいかないというのは、このところである。さらに飛び火して、五輪エンブレムの件で「誰が悪いのでもない(=誰の責任でもない)」という発言が公の場で為されたのは、あらゆる種類の日本の組織に蔓延する痼疾の表れだ。こうした「組織の無責任」と「世論の無責任」が奇妙に噛み合い、そこに今日の異常に発達した技術が委ねられる時、巨大な人災が準備されるのに違いない。

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 子規に戻りまして。

 溜飲を下げたことのひとつに、子規の宣長批判がある。具体的に言うなら、宣長の例の有名な歌に対する批判である。

  敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花

 これは「大和心(大和魂)」に関する誤解を正して擁護する立場からしばしば引かれ、その限りでは良いものだと思っていた。ただ、信州出身で今は日本有数の神経生理学者になっているK君が、自分の知っている「ヤマザクラ」とはどうも合わないとボヤいたことを思い出すのだけれど。いっぽう、子規先生の批判のポイントはそれではない。

 「余は毫もこの歌に感動せられざるのみならず、なかなかに浅薄拙劣なるを見る。(中略)その大欠点は、「人問はば」の一句にあり。上に「人問はば」とあらば、下に「と答へん」と置かざるべからず。「と答へん」の語なければ「人問はば」の語、浮きて利かず、従ひて嫌味を生ずるなり。されど天下多数の人が感動するは、この平凡にして解しやすき趣向と、この嫌味ある言葉(人問はば)の働きとにあるべく、宣長の作意もまたここにあるべし。宣長の詩趣の解し加減と、天下多数の人の詩趣の解し加減と、あたかも一致してこの大喝采を博せり。大喝采的の作必ずしも可ならざるなり。」(『人々に答ふ』)

 何だか上述の「組織の無責任/世論の無責任」に呼応するような論だが、ともかく大賛成、一言の異論もない。今日だって同じことで、この種の嫌味が歌や句に限らず、むしろ日常言語の中で蔓延するのこそ耐えがたいのだ。それはいわゆる「若者言葉」とは違う。若者言葉はいつの時代にも端倪すべからざるものである。恣意的なルール破りを洒脱と履き違える嫌味の横行は、老若には関係ないよ。

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 もう一カ所引用して、子規の書をいったん閉じることにする。

 「もし蛍なら蛍の題にて歌を作らんと思はば、一人にて十首ばかり作るべし。なお陳腐ならば二十首も作るべし。一題を作る事二、三十首に及ばばやや陳腐を脱するを得べきか。しかも普通の歌よみなる者は、一題にて二首も作ればはや趣向つきたりという、その趣向の乏しき事笑止の至りなり。」(歌話)

 これを愚直に守ったら、自分も何かできるかな・・・