散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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言葉の紳士淑女録: しのぎ・鎬・シノギ

2015-09-03 21:56:56 | 日記

2015年9月3日(木)

 「しのぎ」という言葉の響きが好きなんですが、これ実は案外多義なんだね。 動詞「凌ぐ」から転じた「凌ぎ」という名詞がひとつあるが、それだけではない。大辞林三版から転記する。

【凌ぎ】

① その時の障害や困難に耐え、またそれを克服すること。また、その手段。「当座の ー にはなるだろう。」

② (「一時をしのぐ」意から)会葬者に振る舞う食事。非時食(ひじじき)。

③ (接尾辞的に用いて)しのぐこと。「その場 ー 」「「退屈 ー 」

 

そして、もう一群あるんですよ。

【鎬】

① 刀身の、棟と刃の中間で鍔元から切っ先までの稜を高くした所。鎬筋。

② [建]角材の上端を真ん中で高く両端へ山形に削った背峰。

③ 風炉の灰型の高く角張っている部分。

④ 柄杓の名所(などころ)。螻首(けらくび)より下の柄をいう。

いちいち挿絵がいるが、それは省略するとして、以下トリビア。

 

★ 「鎬を削る」が正しく、「凌ぎを削る」は誤り・・・考えれば当然。しかし、「鎬を削る」状況ってすごいな。

★ その道の用語で「しのぎ」といえば、「暴力団の資金稼ぎ(の仕事)。「でかい ー 」」。(サンコクから。大辞林は載せてない。)山口組の本部が名古屋の弘道会に移るとかで、関係者は落ち着かないことだろう。

★ 囲碁用語の「シノギ」は、「攻められている一団の石を首尾よく生きておさまること」の意。やっぱり「凌ぎ」から来たんだろうね。シノギ上手になりたいんだが、なかなか難しい。技術だけでなく、冷静さとか厚かましさとか、複合的な資質が必要なようだ。

 ちなみに、今日から第40期名人戦七番勝負が始まっている。シノギ勝負が見られるかもな。

*** 以下、「古語辞典」 (小学館)から ***

 「凌ぐ」は「ものを自分の下へ押さえるようにする」が原義であろう。

① 押しのけ、押し分けて進む 「秋萩 - ぎ鳴く鹿も」(万葉集 1609)

② 押さえたわませる 「高山の菅の葉 - ぎ降る雪の」(万葉集 1655)

③ あなどる、犯す、争う

④ 堪える

 

 「互いに鎬を削り合い、時を移して戦ひけるに、新田四郎は新手なり、十郎は宵よりの疲れ武者・・・」(曾我物語)

 

曾我兄弟 歌川国芳画 (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%B7%9D%E5%9B%BD%E8%8A%B3)


読書メモ: フォン・シーラッハ『犯罪』 ~ これでおしまい、リンゴではない

2015-09-03 20:51:10 | 日記

2015年9月3日(木)

 雨が降ってきたので、皇居回りの散歩はおあずけ。2泊の出張から帰ってみたら家財道具があらかた運び出され、テーブルに一通の手紙が置かれており、妻が子供たちを連れて出て行ってしまって、連絡を取ろうとすると警察が立ちはだかる・・・そんな状況に置かれたらどうするだろうと、妄想をめぐらしながら帰宅した。は?いや、うちは大丈夫ですよ、今のところは。

 『犯罪』の特筆事項として、登場人物たちの出自の多彩さが挙げられる。作家自身は名前から分かるとおり生粋のドイツ人で、物語の舞台もベルリンをはじめとするドイツ各地である。しかるにその主要登場人物は・・・

 『フェーナー氏』 ドイツ人

 『タナタ氏の茶盌』 トルコ人、ギリシア人、日本人

 『チェロ』 ドイツ人

 『ハリネズミ』 レバノン人の一家

 『幸運』 東欧のどこか人

 『サマータイム』 パレスチナ人、ドイツ人

 『正当防衛』 身元も国籍も完全に謎の人物

 『緑』 ドイツ人

 『棘』 ドイツ人

 『愛情』 ドイツ人

 『エチオピアの男』 エチオピア人

 ざっとこんな具合だ。そしてこれが、現ドイツの少なくとも都市部の状況をよく現しているらしいことに、今さらながら一驚する。ドイツ人のステレオタイプは、決して異邦人に対して寛容なものではない。けれども2015年のドイツは第二次大戦までのドイツでもなければ、冷戦期の西ドイツの単純な拡張形でもない。自由主義陣営随一の、それも一時的な勢いによるのではない、安定した社会基盤に支えられた経済的繁栄がある。そこに旧東独を迎え入れ、さらにEU時代のグローバルに開けた社会構造を模索する中で、人口の約20%をトルコや東欧からの移民が占めるという新しいドイツが出現した。それは混沌であると同時に、可能性とエネルギーの坩堝でもある。

 外国人や移民では、学校の中退率も失業率も高く、従って犯罪との親和性が高いことは想像に難くない。しかしフォン・シーラッハの筆致は決してこの人々を排除する方向に向かわない。むしろドイツ人も移民・外国人も、それぞれのやり方で一様に愚かであり、懸命であり、愛すべき存在であることを歌う。

 11の独立した短編の中で、最も痛快なのは『ハリネズミ』である。揃いも揃って犯罪者のレバノン人兄弟の末っ子が、ただ一人まちがって生まれたように知能が高くモラルも確かなのだが、兄たちは誰もそのことに気づかない。この末っ子カリムが、何とも巧妙なやり方で一人の兄の窮地を救う。アラビアンナイトから翻案したかと思うような愉快さである。

 『幸運』では、兄を殺され身ひとつで故国を逃れてきた若い女の窮状を、同じように行き場のない若者が身を張って救おうとする。「愛ゆえの死体損壊」を連邦裁判所は不問に付し、主人公は強制退去を免れる。

 同様に感動的なのが『エチオピアの男』で、主人公はまさしくどうにもならない事情から銀行に「侵入」するが、そこでモデルガンの銃口を下に向け、消え入るような声で女子行員に頼む。「お金が要るんです。申し訳ない。本当に必要なんです。どうかゆるしてください。」彼は逮捕され裁判にかけられるが、量刑は可能な限り減じられ、参審員らが金を出し合って彼の帰国のための航空券を買うという騒ぎである。

 末尾に近づいて、語り手の言葉はほとんど作品をはみ出してしまっている。

 「銀行強盗は、かならずしも常に銀行強盗であるとはかぎらない。私たちはミハルカの何を責めることができるだろう?私たちみんながうちに抱えていることを行動に移しただけではないだろうか?彼の立場にいたら、みんな、同じ行動を取ったのではないか?愛する者の許へ帰りたいという思いは、人間だれしも持つ憧れではないか?」

 ついでに言うなら、『緑』は統合失調症と呼ばれる精神の危機に関しての、出色のドキュメントになっている。『愛情』には、日本人サガワ・イッセイの名前も出て来たりする。ふと、『予告された殺人の記録』を思い出した。この方がもっと好きだけれど、文学のある種の力を証しする点で相通じるものがある。

 Ceci n'est pas une pomme. これはリンゴではない。

  1964年 ルネ・マグリット

 

 

 


3Bの今昔 / 読書メモ: 『犯罪』 ~ (続き)

2015-09-03 08:57:05 | 日記

2015年9月2日(水)

 (続き)

 独逸を目ざす難民が墺太利経由でやってくるルートを地図上に追ってみて、少々レトロだが「3B政策」のことを思い出した。カイロ・ケープタウン・カルカッタを鉄道で結ぼうという英吉利の3C政策(別名セシル・ローズの夢)に対して、ベルリン・ビザンチウム(=イスタンブール)・バグダッドを鉄道で連結する独逸の構想を後世「3B政策」と呼んだという。こちらはヴィルヘルム二世の夢というところか。何しろ受験世界史の超重要事項である。

 最初に教わったときは、アフリカからインドまでを広く覆う3Cの巨大な正三角形に対して、ユーラシアの一画に強引に引かれた3Bの短い線分がいかにもみすぼらしく、後発独逸の力(りき)みが滑稽に感じられたのだが、よく見れば案外そうでもない。3Cは雄大だが、その領域には仏蘭西はじめ列強の勢力範囲がモザイク状に入り組み、とても英吉利の排他的勢力圏とはいえない。一方の3Bは、独逸・土耳古の同盟が強固である限り他の容喙し得ないもので、露西亜の南の境界を抑えて中東に直結する地政学上の要地を走る。碁でいえばゆるやかな地模様と確固たる厚みのようなもので、「戦い」に強いのはむしろ後者であったりする。

 3Cと3Bの角逐は三国協商 対 三国同盟を経て第一次世界大戦へと破局的に解消されたが、いま難民が独逸を目ざしてくる道は、奇しくも3B構想が描かれたルートと大いに重なっているのではないかしらん。遡れば、オスマン・トルコが二度の維納攻囲のために進軍し、撤退・敗走したルートも同じなんだろう。さらに遡って、古代羅馬の軍団はどういう線に沿って運動したんだろうか。維納は古名をウィンドボナと言って、羅馬の北の防衛拠点だった。

 きりのない無駄話だが連想の発端は、3Bの時代にはこの線に沿ってドイツが中東に押し出していくことが、一方向的にイメージされたのではないかということだった。(石油資源の価値が理解されるのはもう少し後のことである。)けれども今は、この線に沿ってドイツに押し寄せる難民の群れが大きな問題になりつつある。『犯罪』という一冊の至るところに、そうした歴史状況が反映されている。

***

 フェルディナント・フォン・シーラッハの『犯罪』は、そのタイトル通りの短編小説集である。2012年度の本屋大賞・翻訳小説部門第1位だというので買ってみたのだが、これは面白かった。計11編の独立した短編のそれぞれが、特異な犯罪の発端から顛末までを描いている。正直言うと、冒頭の『フェーナー氏』の殺人場面の描写があまりにもの凄いので、あと読むのを止めようかと思った。しかし、その後はさほどのこともなく ~ というよりこちらが慣らされたのかもしれないけれど、次々と一気呵成に読み切ってしまった。猟奇的というのではない、むしろ帯の宣伝にもあるように、自分同様の「ただの人」が犯罪に引きずり込まれていく過程の、それもほとんどが事実に取材しているらしい現実感に捕まったのである。

 描写はテンポがよく、しかし決して巧緻とは言えない。笑っちゃったのは、日本人が主人公になっている『タナタ氏の茶盌(ちゃわん)』で、タナタ氏は棚田氏か何かであるらしいが、その居宅で窃盗犯が仕事する部分はこんな具合である。

 「しばらくして目が暗闇に慣れた。サミールは顔の血をぬぐった。マノリスが照明のスイッチを見つけた。家は日本風だった。サミールとオズジャンは、よくこんな家に人が住めるなと思った。それからものの二、三分で、金庫を見つけた。事前の説明どおりだった・・・」

 この式なら下調べも考証も要らなくて楽なことだが、確かにこの場面で家がどう日本風であるのかを、事細かに描写する必要はないかもしれない。いっぽう人物描写、ことに行動や機能の特性を描出するには秀逸な部分がある。

 「普通の詐欺師というのは口がうまいだけだが、ヴァーグナーのやり口は手が込んでいた。”成功”した”たたき上げのベルリンっ子”を装ったのだ。一般市民はそれでころりと騙されてしまう。粗野で、声が大きく、品もよくないが、だからこそ、まちがいなく実直だと思い込んでしまうのだ。しかしヴァーグナーはたたき上げでもなければ、実直でもなかった。本人の物差しでは”成功”すらしていなかった。知性の使い道をただ誤っただけの男で、弱点だらけだから、他人の弱点もよくわかったのだ。自分に都合が悪くなると、すぐその弱点を利用した。」

 この類いの悪党が次から次へと登場し、展開するストーリーは刺激的である。そしてその中に多くの歴史と現代が ~あるいは歴史としての現代が ~ はめ込まれている。

(再び中断)


きっぱりと秋、どっさりと秋

2015-09-03 07:34:12 | 日記

2015年9月3日(木)

 「エレバンはきっぱりと秋が来ました。先週末の雨以来,連日40度の気温が20度台になり、朝の散歩途中で望むアララトもくっきりしてきました。女房は少し疲れ気味ですが、二人とも元気にやってます。」

 光太郎の詩を愛するT君は、「きっぱりと冬が来た」をアルメニアの秋に重ねて清々しい。僕はセントルイス時代、アメリカに圧倒されそうな自分を山上憶良の詩で支えた。即戦力を性急に求める教育が、こんな力を与えてくれるだろうか?

 「ブログ、拝見してます。最近では駒大苫小牧の初優勝の話が面白かった。あの決勝戦の日、僕は鳥海山の登山帰りの車のなかでラジオを聞きながら感涙にむせんでいたのです。君がそんなに腹立たしく思っていたとは知らなかった。言ってることはまったく正しいと思います。でも、判官びいきの不公平を怒る気持ちのどこかにやはり郷土愛があったと思うよ。やはり愛媛だもんな。」

 ごもっとも、全く異論ありません。だからこそ郷土愛にも効用があると思うのね。相手チームが愛媛代表でなかったら僕も尻馬に乗って駒大苫小牧を応援したに違いなく、判官贔屓の身勝手さや数万観衆が一方ばかりに肩入れする不気味さ(「腹立たしい」というより、異様で怖かった)に気づくこともなかっただろうから。

 

 一方こちらは、みっちりと秋、あるいはどっさりと秋。アルメニアから帰ったら、君にも食べさせてあげようね。

 

 (愛媛県松山市産)