やや前後するが連休最終日、日頃お忙しの次男氏が珍しく在宅。
夕食の団欒で就活のことなど話題にし、ふと、どちらからともなく今の時代の閉塞感に言及して、思いがけず感慨を共にするところがあった。
そうなのだ。すごく閉塞感があるんだよ。
といっても、
『時代閉塞の現状』のことではなくて。
これは、1910年(明治43年)に当時24歳の啄木が書き遺した。早すぎる死の二年前と知れば遺書のようなものだ。心して注意深く読み込むべし、僕らがいま話題にする閉塞感と相通じつつも位相を異にする。
今、問題にするのは、
地球上に秘境というものがなくなりつつある。端的に言えばそのことだ。
地球上に危険が存在しないというのではない。
戦争があり、経済危機があり、貧困があり、環境破壊がある。しかし、それらはすべて我ら人間の愚かしさが作り出したものだ。
人間の愚かしさをあざ笑うように屹立し、あるいは人の立ち入ることを人類発祥以来、拒んできたもの、ジャングル・砂漠・荒海・極地・高山、それらすべてが踏破され調べ尽されつつあり、わずかに深海が最後の未踏の領域として残るばかりだ。
人間の外に立ちはだかる秘境は消滅し、人間の方が秘境にとっての脅威となっている。
今や自然環境の存続そのものが、一生物種に過ぎない人類の自己規制に委ねられている。
そういう意味で、諸々の危険の中で最も深刻なのは環境破壊・自然破壊だ。
ただし、自然を破壊することによって人類そのものが滅びるかもしれないということは、むしろ小さな問題。
それよりも、
環境や自然が破壊可能なもの、保護すべきもの、知り尽くされたものになってしまったことが深刻だと言うのだ。
秘境が消滅し、すべてが明らかにされ、すべてが管理下におかれ、すべてが去勢され馴化された世界、そんなものに何の面白さがあるのか?そんな世界に、どんな魅力を求めたら良いのか?
「宇宙へでも出るか?」と冗談にしてみて、すぐさまシオタレた。
宇宙こそ、政治と軍事によって最も排他的に管理されている領域ではないか。
私人にとって宇宙への直接のアクセスは存在しない。それはGPSの基準点でしかない。
つまらない。面白くない。面白いことが何もなくなってしまった。
これを「閉塞感」と言ったのである。
ふと、冷戦時代のことを思う。
あの時代、厳しい東西対立と一触即発の危機のいっぽうで、人に(少なくとも良心的な者には)不断の自己吟味を迫る緊張感があった。
自分たちのやり方は、ひょっとして最善でもなく唯一でもないのではないか、壁の向こう側の相手方は、もっと良い工夫をしていはしないか。そうした疑いが人を多少とも謙虚にする作用があったのではないかと思う。壁の向こうは互いにとって、一種の秘境だったのだ。
ソルジェニーツィンがソ連から国外追放され、結果的に西側への亡命を果たしたのは1974年である。
ソ連政府から「反逆者」のレッテルを貼られた彼は、西側に移ってからは共産主義のではなく、西側に蔓延する唯物論に対して戦いを挑んだ。アメリカの自由とは、子供にポルノグラフィを見せる自由だと喝破した。
彼はロシア正教徒として信仰の「秘境」に住まい、東と西とを問わずあらゆる物質主義に対して荒野の予言者として振る舞った。彼の存在は東西冷戦構造を突き抜けているが、そのあり方はどこか冷戦時代の緊張感に照応している。
だから、僕らはまだ良いのだ。
考えてみればすさまじいほどの、過去であれば数世紀分に相当する変化を僕らは目撃した。
直 前の世代は飢餓を知っていた。そこから解放され、復興から成長へ、飛躍から奈落へ、自分たちの国が激変する様子をまのあたりにした。初めて家にテレビが来 た日を思い出す。電話は近くへ借りに行った時代だ。いま、息子達はPCやスマホを駆使し、そしてそれが存在しない生活を知らないし想像できない。
壁のあった時代とその緊張感、「秘境」の与える恐れと勇気を、彼らは体験したくとも体験できない。
「そんなもの、体験できなくとも不自由しない」とは、冷戦はともかく「秘境」については言いづらい。
*****
突飛なようだが、マクロ世界で「秘境」がなくなるのと合わせて、僕らの身近のミクロ世界から「空き地」がなくなった。
「空き地」とは、ただ何もない空間という意味ではない。「空き地」には明確な特性があった。
それは誰かの地所であるはずなのに、どういうわけかほったらかされている。
立ち入ることが推奨されてはいまいが、厳しく禁止されてもおらず、少なくとも黙認されている。
誰も管理していないのに大人の目がほどほどあって、近隣の雷オヤジとか頑固ジジイとかは、野球のボールが飛び込んだときは厄介だが、大きな逸脱に対する抑止力になっている。
「空き地」には、いろいろなものが転がっている。
典型的には土管やドラム缶、いちおうは境界を区切っていたらしい鉄条網の切れっ端やベニヤ板、大人が捨てていったらしい古い週刊誌。
そうした「空き地」がそこここにあった。
日本中、どこへ転校していっても必ずそこに「空き地」があり、そこで仲間や敵に出会うことができた。
それは子供にとって運動場であり、社交場であり、秘密基地であり、隠れ家であり、想像力の働きによって何にでも変貌する身近の異界であった。
そして「空き地」には危険がつきものだった。
僕はそこで大やけどを負い、レイ・チャールズは ~ 彼の場合、広いアメリカの家の裏庭が「空き地」だったのだが ~ そこで弟に死なれた。
「空き地」が消滅したのは、いつ頃か。
子供をこうした不測の事故から守ろうとするもっともな大人の配慮から、現代人の度の過ぎた強迫性から、責任を問われることへの怯えから、その他様々の思惑から、「空き地」はある時期にきれいに消え去った。
一片の予告も断りもなく、僕らの国から消えた。
今、地域にあるのは、よく整備されたグラウンドであり、生徒以外は立ち入ることのできない校庭であり、大枚を払って利用するテニスコートである。すべて完全に管理され、安全が確保されている。
僕ら自身がそうでなくては落ち着かなくなってしまった。
「空き地」とともに絶滅した種族があるのに、気づいているだろうか。
ジャイアンだ。
舞台に見立てて放歌高吟する土管もなければ、のび太やスネ夫を追いかけ回し取っ組み合う地面もない、そんな国でジャイアンは生きてはいけない。
密林の衰退と共にオランウータンが絶滅に向かうように、「空き地」の消滅と共にジャイアンは死に絶える。「どらえもん」は、「サザエさん」や「フーテンの寅」と同じく、僕らがまだ持っているつもりで実は疾うに消え失せてしまった前時代の思い出話に他ならない。
前時代が終わったのはつい30年ほど前だろうか、しかし前時代と今の時代とを隔てるクレバスは恐るべく深く、もはや戻るすべはどこにもない。
僕らは向こうからこちらへ渡ってきた。
息子達は、こちら側しか知らない。何という困難を彼らに負わせてしまったことか!
「秘境」と「空き地」との対応関係・・・
「突飛じゃないと思うよ」と次男が言った。
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【蛇足①】
カート・ヴォネガットの作品の中では、『タイタンの妖女』が良いと勝沼さんは言う。
あれはひょっとして、「秘境」を再発見する物語だったのかな・・・?
ラムファードは私設宇宙船を作らせた最初の人間、という設定だった。
読み直してみよう。
【蛇足②】
ガルシア・マルケスの短編に、街にすむ男が妻とケンカしてプチ家出し、ほっつき歩いているうちに道に迷い、あろうことかインディオの集落に紛れ込んで数年間そこに留め置かれる話がある。犬のように首輪でつながれるやら何やら、たいへんな思いの末、どうにか生還するのだが。
(タイトルを書いておきたいが、手許に見当たらない。最近こればっかりだ!)
驚くのは、これが荒唐無稽な作り話ではないということだ。
二十世紀後半にこういうことが起き得たという、これが南米の豊かさだ。
都市生活のすぐ隣に、現に秘境があったんだよ!
今も、あるのだろうか?