散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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齋藤先生と地熱発電

2013-05-08 18:27:02 | 日記

香川の山崎先生のことを語った勢いで、岩手の齋藤先生の思い出を書き留めておく。


岩手SCの面接授業は、昨2012年の6月下旬だった。

梅雨時には北へ逃げるに限ると考えてのことで、その涼しさはよく記憶している。


というのも、


いつもながらのうっかりで宿を取るのがギリギリになり、駅からも学習センターからも遠いホテルしか取れず、北上川を越え商店街を抜けて30分以上歩くハメになった。夜も10時を過ぎて、涼しいというより寒いのである。


石川啄木の銅像の向かい側あたりで、長身の女の子が居酒屋か何かの呼びこみをやっている。

肩も露わに腿の付け根まで向き出しの肌が、頬も手も足も東北人らしく真っ白で、見ているこちらはいよいよ寒くなった。

しかし若いとは大したもので、元気な笑顔に震えやかじかみの気配もない。


この子には、何かもっと別の仕事をさせてみたい気がしたのが、涼しさの記憶という次第。

 

*****

 

齋藤先生は秋田の出身、仙台の東北大で学び、その後は岩手大学で定年まで奉職された。

東北コスモポリタンというところ。

「いわてだいがく」というとホテルのフロントが良く分からない顔をし、後の話も何だかヘンだと思ったら、岩手医科大学と混同している。

「がんだい」と言わなければ地元ではかえって通じない。その岩大である。

御専門は、もともと地熱発電だったのだそうだが、岩大に移ってからは災害予知に焦点を移した。


なぜかというと、


地熱発電の立地等を見当する基礎資料として、まずは地下の熱の分布を調べることが必要になる。このデータが、火山の噴火予知にあたって不可欠の資料となるのだ。

そして齋藤先生が東北大から岩大に移るのを待っていたかのように、岩手山が不穏の徴候を示し始めた。

 

 

岩手山は盛岡市北西20kmに位置する。

東北の広い空の下で高さを見失うが、標高2038mは岩手県最高峰だ。


「いわて」を「言わで」にかけて、古来よく歌に詠まれたとある。

知られじな 絶えず心に かかるとも 岩手の山の 峰の白雪 (続古今和歌集)

みやこ人が我が目で岩手山を見る機会も滅多になかったろうに、イメージの飛ぶことはまさに一瀉千里。

啄木が「ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」と詠じたのも、この山だ。

 

岩手山は二つの外輪山からなる複成火山で、wiki 等によれば以下のような噴火履歴をもつ。

1686年(貞享3年)噴火 ・・・ 生類憐れみの令の前年だ。

1731年(享保16年)噴火 ・・・ 現在の八幡平市で住民が避難。この時、北東山麓(八幡平に面した側)に形成された溶岩流が「焼走り熔岩流」として国の特別天然記念になっている。同じ年、徳川吉宗治下の江戸では大火が起きた。

下って1919年(大正8年)にも小噴火(水蒸気爆発)

そして1998年から2003年にかけて火山性地震と地殻変動が持続したとある、この時期に齋藤先生が岩大に来られたのである。


岩大在任中、齋藤先生の関心と注意は常に岩手山に向けられていた。

いかに正確に噴火を予知するか、

いったん噴火の際には、いかに小さく被害を抑えるか、

噴火は時間の問題と思われたので神経の休まる暇がなく、不眠をきたして医者に薬を処方してもらったこともあるという。

幸いにして、と言うべきかどうか、齋藤先生は噴火を見ることなく定年を迎えられた。

けれども営々と蓄積されたデータと工夫は無駄にされることがなく、放送大学の学習センター長に迎えられた後も、ことあるごとに講義・講演で防災の勧めを語られた。

2010年の秋からはシリーズで講演、2011年3月6日の日曜日には「津波」をテーマに話された。

その5日後、震災が起きた。


*****


齋藤先生の語られたことから、二つ書き留めておく。


まず、「想定外」について。

三陸地方の人々にとって、津波は「必ずやってくるもの」であった。

今回、宮古市で確認された津波遡上高は39.7m、確かに記録に残るものとして最大である。


ただし、


30mクラスの津波は決して珍しくはない。

近い過去を見ただけでも

1896年(明治29年)明治三陸地震津波

1933年(昭和8年)昭和三陸地震津波

1960年(昭和35年)チリ津波

過去115年間に三度、つまり約40年に一回はこのクラスの津波が襲ってくるものと想定せねばならない。

しかるに、東電原発の想定津波高はわずかに5.7mであった。

そのことが、齋藤先生のような防災関係者にまったく知らされていなかった。


「想定」とは根拠のない楽観のことか、それを超える事態は「想定外」なのか、

これについては、ぜひ齋藤先生御自身の書かれたものを見てほしい。


*****


もうひとつ、これは書かれたことではない、語られたことである。

「先生、しかし・・・」と思いつきを口にしてみた。

「原発がこうなった今、先生の本来の御専門である地熱発電は、あらためて脚光を浴びるのではないですか?」

先生は複雑な表情をなさった。

「国策として原発が推進されるようになって以来、地熱発電には研究費が付かなくなりました。金がなくては研究できないから日本の地熱発電研究は事実上中断し、大きな空白ができてしまったんです。今から再開するとしても、まずはその空白を埋めるところからやり直しです。それに、今さら地熱をやれと言われてもね・・・」


先日、高松の風景を見て、なぜ塩田を一部でも残しておかないのかと考えたとき、思い出したのはこのことだったのだ。


ある方向へ主力を傾注するのは良い。

しかし、なぜそれ以外のものを、一切合切やめてしまわなければならないのか。

それらを二度と取り戻せなくなることのコストとリスクを、後世に追わせて良いのか。


震災直後に原発廃止論が一時的な盛り上がりを見せたとき、僕自身は「全廃せず、一部は残すのがよい」と考えた。

原発のリスクをチェックし、より安全な運用の仕方を検討するためにも、実験的に少数は残しておくのがよい、と。


もちろん、今になってみればこんな議論は空しいね。

原発はナシ崩しに主役の座に戻り、代替エネルギーは「今さら」も何も、見えてくる気配がない。

そして40年も経てば、津波はまたやってくる。

僕などは、それを見ることもないだろうが。


【追記】

放送大学では昨2012年に特別セッションを行い、報告書をまとめた。

インターネットから全文をダウンロードでき、その中に齋藤先生の報告も読むことができる。

http://www.ouj.ac.jp/hp/o_itiran/2013/250403_2.html




 


地名・自由連想

2013-05-08 09:50:01 | 日記

人の名前と同じく、地名も面白い。

由来も面白いし、読み方も面白い。

 

小豆島は(アズキジマではなくて)「しょうどしま」だけど、行政単位としては小豆郡「しょうずぐん」なのだね。

島の玄関口にあたる土庄港は、「とのしょう」と読むのだ。


以下は自由連想。


島根・鳥取の県境にある中海は「なかうみ」なのだが、全国放送で「なかのうみに白鳥が飛来して・・・」などと紹介されることがあり、心外に思った小学生の頃。


医学生時代に浜松の聖隷ホスピスに見学に行った。

在所は武田・徳川の合戦で知られる三方原である。

当然「みかたがはら」と思い込んでいたが、地元では「みかたばら」であると知り、これはかなり衝撃だった。

地元で「みかたばら」なのに、何の権威をもってよそ者が「みかたがはら」を公称とするのか。


大分は別府の一年間、ここは標高1,375mの鶴見岳が海岸からいきなり立ち上がってそびえ、かなり急峻な土地である。

斜面には見晴らしの良い平地がところどころに開け、それらは「〇〇原(ばる)」と呼ばれていた。

西南戦争の激戦地は、熊本の田原坂(たばるざか)であった。

原を「はる」と発音するのは九州一円の習いか。

熊襲タケル以来だね、きっと。


別府を去る直前、初秋の夜半、十文字原(じゅうもんじばる)に車を停め、眼下を眺めて息を吞んだ。

漆黒の別府湾に、満月が皎々と輝いている。

空の月と海の月、闇の中でそれを見つめる自分。

一瞬、正気を失いそうになった。


信州は海のない土地であるのに、不思議に海に因んだ地名が多い。

祭りの神輿にも舟形をしたものが見られると、昨日お目にかかったY先生が教えてくれた。

海辺からやって来た、あるいは海を越えて渡来した人々が、その思い出と出自を地名・風俗に込めたものかと解説してくださった。


次はY先生のことを書いておきたいが、その前にお仕事でしたね。

頑張ろう!


結婚式 ~ 教え子の

2013-05-06 15:02:33 | 日記

5月5日は個人的に意義深い日だが、その前にこどもの日ということで、

起床と共に息子達にメールを送る。

今年は三人別の場所にいて、それぞれ元気なのがありがたい。

 

桜美林時代、この季節に通勤する楽しみがあった。

田園都市線で市が尾を過ぎ、鶴見川を渡ると右手に鯉のぼりが見える。

農家だろうか、広い庭先に歌の通り屋根より高い竿を立て、そこに立派な一揃い、

真鯉、緋鯉、チビ鯉たちが五月の風に勢いよく泳いでいる。

どこかのビルの宣伝用みたいに、荒巻の鮭様にぶら下がってはいない。

ああ、あれこそ鯉のぼりと嬉しかった。

 

ついでに、鯉のぼりの歌は「屋根より高い」ではなくて、「甍の波と雲の波」がいいなぁ。

めっきり耳にすることが減って、理由は「歌詞が文語だから」というんだが、そういうものなんだろうか。

「文語は若い者には受けない」と、オヤジの方が決め込んでるってことはないかな。

 

百瀬の滝を登りなば/たちまち龍になりぬべき/

我が身に似よや男子(おのこご)と/空に躍るや鯉のぼり

 

カッコイイじゃん!

 

*****

 

さて、今年の5月5日はA君の結婚披露宴に出かけてきた。

今は某大学博士課程で学ぶA君、桜美林時代から人気者で元気者だった。

メラニン産生系が欠損する先天障害のため、いわゆるアルビニズム。

肌は透き通るように白く、髪は染めたのではない金髪、そして高度の弱視。

苦労もあったに違いないが、桜美林へ進む頃には既に何か吹っ切れていたのだろう。

明るい性格で健常の学生達を巻き込んでリードし、市民活動の立ち上げも「趣味」として楽しむ風だった。

主体性も行動力も抜群でいて、甘え上手でへこたれない一面があり、教員からも学生からも実に愛されたのである。

 

福祉や心理の先生方は別に大勢おられる中で、なぜ彼が僕のゼミ指導を希望してきたか分からない。

指導と言っても「自学自習/自己責任」をモットーとする超放任ゼミだったから、彼がすべて自分で勉強したのであって、僕には彼を指導したという自覚も記憶もない。

それでも彼は僕のことを恩師と呼んでくれ、忘れた頃に連絡をよこし、嬉しそうに報告に来る。

 

今度は結婚の報告で、しかも2年前に入籍し、1歳半の息子さん連れの披露宴という。

旧弊なオジサンとしてはいささか秩序感覚を攪乱されつつ、ともかくワクワクと出かけていった。

皇居前を見下ろす都心の会場、用意されたCテーブルは恩師席とでもいうところで、小・中・高と彼を見守ってきた先生方、大学で接した僕、それに大学院の指導教授である全盲のK先生と奥様が円卓につく。

新婦もまた高校の途中から障害を得て弱視をもっており、このカップルを祝福すべく集まった人々の中にも、K先生はじめ視覚障害者が少なくない。耳の不自由な方もあるらしく、手話通訳者2名が司会者席の横に陣取り、会の最初から最後まで司会の言葉やスピーチを間断なく訳し続けた。

 

僕の左隣のK夫人、右隣のN准教授、たまたま二人とも福岡県の出身とわかり、「実は私、福岡の生まれで」と話が弾む。

「福岡市の、どのあたりですか?」

「赤ん坊の時代ですから見当がつかないのですが、何でも曙町という住所を聞いています。」

「曙町?まぁ懐かしい、私はそのお隣の、百道(ももち)なんですよ!」

「百道とは、百道の浜ですか?元寇防塁のある?よく連れていってもらったようで、写真も残っています。」

「まぁ・・・」

 

いっぽうのN准教授は仙台に住んで7年、紋切り型とは思いつつ震災後の様子をうかがうと、嫌がりもせずに体験を語ってくださる。

電気の 復旧は意外に早かったが、ガスに難渋した。

震災後にガス会社が最初にしたことは、火災を防ぐために全てのガス管を占めて回ること。

その後にあらためて復旧 した順に開栓していった。たいへんな人出が要ったことだろう。

自分のところにも、「中部ガス」の制服を着た職員が長いこと出入りしていた、等々。

 

和やかな会である。

A君の親友である全盲の音楽家は、巧みなスピーチで泣き笑いをとる。

「A君、幼稚園の頃、よく僕の見えない目の前にサッカーボールを転がしてくれましたね~」

島崎藤村の『若菜集』からの詩に、彼が曲をつけた箏の自演自唱が満場を沈黙させた。

A君がいかにオシャレであるか、胸に挿したバラの花や、ワインカラーのシャツ・ネクタイのことなど、夫人がK先生に逐一話して聞かせる。

「いや、そういうやつなんだよ、しょうがねぇなぁ、しかしそれがまた似合うんだよな」とK先生。

見えているのだ、はっきりと。

良い集まり、良い料理、役割の負担も何もなくて最高(と、この時点では思っていた)。

 

宴も半ばを過ぎ、いいかげん酔いが回ってきた頃、それまで個別に歓談していたCテーブルの7人が誰いうともなく「総合討論」モードになる。

それぞれの情報を出し合って、A君の生い立ちの軌跡を幼少期から今に至るまで皆でなぞり、それでいろいろと腑に落ちた。

大器は、もちろん一日にしてなるものではないのだ。

 

さて、お皿にはデザート、そろそろお開きかと思いきや、

「ではここで、サプライズ・スピーチに移らせていただきます。いきなりの御指名で恐縮ですが、新郎新婦からの御要望に従って二人の方にマイクをお渡ししますので、どうぞ御祝辞をお願いします。まずは新婦の方から〇〇様に・・・」

 

ははあ、こういうシカケだったのか。

油断させておいて、しこたま飲ませておいて、トリのスピーチを用意してあったわけね、しかもサプライズだって!

覚えてろよ~、これは高くつくからな・・・

 

マイクを握って僕がどんな話をしたか、内緒、というか思い出したくない。

愛情に溢れた話ではあったはずだが、A君はともかく、御両親に失礼がなかったかどうか。

直前に「総合討論」していたのが、せめてもの救いであった。

 

こどもの日、おめでとう!

 

 

 

 

 

 

 


ぼちぼちいこか ~ 名訳!

2013-05-06 13:57:19 | 日記

翻訳というと、つい批判がましい話が多くなってしまう。

 

が、

 

もちろん名訳も、世の中にはたくさんある。

自分自身の養われたものを挙げるなら、古くは井伏鱒二の『ドリトル先生シリーズ』、石井桃子の『クマのプーさん』や『楽しい川べ』、ちょっと飛んで新潮文庫版チェーホフ短編群の小笠原豊樹訳(何で絶版にするの!)、ハヤカワSFのカート・ヴォネガットのシリーズも良くこなれて立派な訳だと思う。

 

で、ここに小さな傑作がもうひとつ。

 

『ぼちぼちいこか』

 

という絵本だ。

 

「ぼく、消防士になれるやろか?」

「なれへんかったわ」

に始まるカバ君の自問自答シリーズがまさに秀逸、

 

「ぼちぼちいこか、ということや」

の締めくくりまで、実に文句なく楽しいのである。

 

何が素晴らしいと言って、"What can a hippocampus be?" の原題を持つアメリカの絵本を、関西弁で翻訳しようというアイデアがケッサク至極ではないか。

 

東京弁では、どう逆立ちしてもこの可笑しみは出そうもない。

 

 

ふと思いつき、訳者について検索してみた。

今江祥友(1932-)という人は、どうやらその道の大家であるらしい。

委細は省略、ともかくこの人が大阪市の出身であると確認して腑に落ちた次第。

 

繰り返すが、これを東京弁で訳したとしたら、まったく別の作品ができあがったことだろう。

 

ほんとうに、方言や訛りは豊かさの源なのだ。