散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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中国の古典 ~ 済美 vs 済々黌

2013-05-06 13:42:56 | 日記

ちょっと古くなっちゃったんだが、センバツでは久々に愛媛代表が活躍してくれて嬉しかったな。

広陵、済々黌、県岐阜商、高知高校、浦和学園

相手校がまたネームバリューも実力も十分の「好敵手」たちで、済美を応援しながら相手校にも拍手を送る気持ちがあった。なかなか毎回こうは行かないものだ。

 

で、対・済々黌戦。

 

「済美 vs 済々黌」、スコアボードを見て、どちらも「済」の字の付いてるのが気になったのだ。

由来は何だろう?

さっそく調べてみると、

 

済美高校のほうは『春秋左氏伝』。

おバカのATOKは、これを『春秋差し出ん』と変換しちゃうのだが、ともかくこれは孔子編纂とされる歴史書『春秋』に、後世が付した詳細な注解だ。

その中の「世済其美、不隕其名(世々その美を済し、その名をおとさず)」から取ったと学園のwebページにある。

「子孫が先祖の業を受け継いで、よい行いをする」つまり、先輩が残した立派な業績を後輩が受け継いで、ますます発展させていくの意。

この「済」は、何と読み下すのだろう。

漢和辞典の挙げる読みは、「わたる、すくう、なす、ます」の4つだ。

「世々その美を済(ま)し」かなぁ・・・

 

いっぽう、熊本の済々黌は『詩経』から。

「濟濟たる多士、文王以て寧んず」

いわゆる「多士済々」の語の由来だね。

 

それにしても、『春秋差し出ん』(違うったら!)に『詩経』、中国古典の影響力は大きい。

あるいは、大きかった。

これを捨てることないと思うけどね。

 

呉清源は、二十世紀最強の棋士とも言うべき巨匠である。

1914年生まれだよ。

この19日に満99歳だが、今も矍鑠として対局場に観戦に現れ、検討に加わったりする。

中国福建省の出身、日本の囲碁が江戸時代の蓄積を経て世界の頂点にあった時代、才能を認められて来日し、見事に開花した。

『呉清源とその兄弟 ー 呉家の百年』 桐山桂一 (岩波現代文庫)

これは時代の記録としても、当時の中国事情を伝えるものとしても、たいへん面白い。

その中に出てくるのだが、呉清源の幼年時代、つまり1920年代に入って辛亥革命を経た中国でも、教育の中心は依然として四書五経の学びと暗誦であったという。

それが決してバカにならないという話で。

 

「窮すれば通ず」

って、聞いたことある?

人間、追い詰められると底力が出る、ぐらいのことかと安直に考え、

野球の川上哲治さんの好きな言葉と聞いて、いかにも「らしい」ことと決め込んでいた。

 

実はこれ、不正確な引用であり、正しくは、

 

「窮すれば変ず、変ずれば通ず」

 

というのだそうである。

こちらは『詩経』と同じ五経中の、『易経』が出典。

そして、俗には省略される「変ず」こそが大事だと呉清源師。

 

追い詰められると、これまでのやり方では通じないことを悟って、自らを変える努力をする。

だから道が開けるのであって、窮したところでこれまでと同じやり方を工夫なく繰り返すだけでは、通じるどころか滅びるだけだと、言われてみれば当然のことなのだけれど。

頑固一徹のススメか、自己変革の促しか、この一句の解釈で『易経』全体のイメージが変ってくるようにすら思われる。

 

それにつけても、オリジナルにあたることの大切さを思う。

この点は、法学部での恩師と、医学部での恩師と、畑も個性もまったく違うお二人から、それぞれ厳しく教わったことだった。

「孫引きではいけない、必ず原典に当たれ」

K先生も、T先生も、それぞれの立場からそのように強調なさったのだ。

 

*****

 

愛媛には済美(さいび)高校あり。

いっぽう、岐阜には済美(せいび)高校があるのを見つけた。

こちらはキリスト教主義だそうで、学園公式HPに校名の由来の説明はなく、かわって同校が建学の拠り所とする聖書の句が掲げられている。

「神を畏れることは知識のはじめである」

有名な句だが、出典を確認すると、詩編110章10節と箴言9章10節の二つが出てくる。

新共同訳では同じ訳語だが、口語訳では詩編は「知恵のはじめ」、箴言は「知恵のもと」となっている。

おそらく言語が微妙に違うのだろう。

 

さぁ、オリジナルに当たらなくっちゃ!


国民不栄誉賞

2013-05-06 12:02:51 | 日記

松井が投げ、長嶋が振り、原が捕る。

国民栄誉賞授賞式を見ながら考えた。

いっそ、国民不栄誉賞というものを創設したらどうだろう。

 

受賞規定は国民栄誉賞に準ずるとして

 

 「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えること」

 

これが国民栄誉賞だから

 

「広く国民を落胆させ、社会に不安と絶望を与えることに顕著な業績があったものについて、その不名誉を記念すること」

 

こんな感じかな。

 

さしあたりの有力候補者は、都知事、あなたですよ。

五輪招致をめぐっての「失言」は、いくら何でもひどすぎたでしょう。

 

ネット情報によれば・・・

氏は、インタビューに対し、「ベストの開催地はどこだと思いますか?」と思わせぶりな質問をした。そして、立候補したトルコのイスタンブールやスペインのマドリードを挙げ、「インフラや洗練された競技施設がまだ整っていない」と指摘した。そして、トルコを念頭に置いてか、「イスラム諸国が共有しているのはアラーの神だけで、お互いにケンカばかりしている。これらの国には階級というものがある」と述べた。さらに、トルコの人々が長生きしたければ、日本のような文化を創るべきで、若者が多いだけではあまり意味がないとまで話した。

 

どんな時にも伝聞情報を鵜呑みにすべきではないし、人の名誉がかかっているときには特にそうだ。

ここは慎重に、氏がこの通り発言したのは事実であるという前提のもとで。

これはあんまりだ。

 

NY タイムズは、

「他都市の批判がIOCの行動規範に抵触する疑いがある」

と書いたそうだが、IOCの行動規範があろうがなかろうが、ライバルを悪どく非難することはスポーツマン精神に逆行するし、オリンピック招致メッセージとして大いに逆効果であることは疑いを容れない。

落選したければ、こうするとよいということを、氏はやってくれちゃったのである。

 

だけど僕の言いたいのはそのことではなくて。

オリンピック招致が実現するかどうかではなくて。

 

オリンピック招致の成否は、個人的にはどうでもよい。

功罪ともにあるだろうし、オリンピック開催は多くの国や地域が広く関わるのがふさわしい。

何度も招致せずとも、非ヨーロッパ地域で初のオリンピックを、敗戦から20年経たぬうちに成功裏に成し遂げた1964年の日本の栄誉は、それだけで誇るに十分である。

 

そうではなくてだな。

僕が残念でならないのは、この愚かな発言がトルコという国の人々の心証をひどく害しただろうということだ。

 

トルコはたいへん親日的な国だと聞いたことがある。

データを見るまでもなく、それはそうに違いないと確信されるのは、これも歴史ゆえ。

日露戦争のことを考えれば、そうでないはずがないと思うのだ。

 

「瀕死の病人」と渾名された19世紀の老大国オスマン・トルコを、当時のロシアは執拗に圧迫し続けた。クリミア戦争や露土戦争はその象徴的な事件で、トルコにとってロシアは恐るべき脅威だった。

そのロシアを日本が破った。

トルコ人の内に、歓喜がなかったはずがない。

 

有色人種として初めて白人国家に勝ったこと、それにも増して、あの憎いロシアに地球の反対側で一矢も二矢も報いてくれたこと、これがトルコとトルコ人の、日本と日本人に対する認識の初めであったはずだ。

 

大急ぎで註をつける。

 

だから日露戦争が義戦だったとか、戦争も悪いもんじゃないとか、そんなことを言っているのではないよ。

福沢の言うとおり、「立国は私」なんだからね。

二つのエゴイズムが衝突し、そしてこの時は幸いにも、そして辛くも、日本が薄氷の勝利をおさめた。

それだけだ。

 

ついでにもうひとつ、ロシアとトルコとどちらが正しかったかという問題でもない。

オスマン・トルコに支配されてきた諸地域にとっては、トルコの敗北こそが福音だっただろう。

そうじゃないのだ。

 

善悪はさておき、事実として戦争が起きた。

それが終結したとき、遠い彼方の国の人々の内に、我ら日本人に対する親愛の念が生じた。

これこそが、「不幸中の幸い」として大事に育てるべきものではないか。

そしてこれこそが、8万5千人におよぶ戦没者とこれに倍する負傷者が後世に遺してくれた、貴重な財産ではないか。

 

英霊に報いるとは、この種の無形の財産をたいせつに育てることの内にあるはずだ。

たいせつに育てるどころか、台無しにしかねない愚かな発言を、彼は為した。

友情を育てるはおろか、他国民を公然と侮辱し怒らせる言葉を吐き、しかもそのことに気づいていない。(あるいは気づかぬふりをしている。)

「陳謝」の後も、あいかわらず五輪招致の成否という観点からしか問題を見ていないことが、メディアから伝わってくる。

 

ええ、有力候補ですよ、都知事閣下。

それは私たちの功績でもありますけれどね。

「すべての国は、それに相応しい政府を持つ」(ド・メーストルの書簡)のだそうですから。

 

*****

 

【蛇足】

ウラル・アルタイ語族に属する顔ぶれと言えば・・・

日本、韓国・朝鮮、モンゴル、そしてトルコ

寿命が200年あるのなら、トルコ語を勉強してみたいんだけどな。

でも現状では、ロシア語が先だな。

オルハン・パムクは面白い作家なのに、もう少しマシな翻訳者はいないのかね。

ノーベル賞作家の邦訳が、まるで日本語になってないんですよ!

 

 


補遺: ライラックと方言と外人墓地

2013-05-06 10:19:06 | 日記

GWは自宅でのんびりするに限る。

あたり一帯に生活雑音がなく、東工大緑地の鳥のさえずりや東急線電車の発着音が、五月の風に運ばれて吹き過ぎる。こんなに静かなのは、他に正月ぐらいのものだ。

 

ブログの記載に反応し、あるいは修正してくれる人があって、ありがたい。

 

まず、4月25日のライラックの件。

「よく知らない」と書いたら、よく知っている人たちから反応があった。

 

「ヨーロッパを旅行したとき、ロンドン橋からヒースロー空港に向かう道すがら、ライラックの並木道がちょうど満開で美しかった思い出があります。帰ってきてからライラックの苗木を手に入れられないか探しましたが、見つからずそのうち忘れてしまいました。気候のためか、日本ではあまり見ませんね」

これは我が母。

 

次はT君。

北海道出身でロシア生活が長く、北海道でもロシアでもライラックを見慣れている。

 

「札幌では毎年6月はじめにライラック祭りをやっていたように記憶します。『リラ冷え』なんて言ったりします。モスクワで取ったライラック(リラ) の写真その他を送ります。こんな大きなライラックは北海道では見たことありませんでした。モスクワの最高の季節(5~6月)の写真です。」

 

彼が送ってくれた4枚の写真を連続して掲げる。タイトルは順に、「リラ」「タンポポと森と空と」「チューリップと鐘楼」「りんごと教会」

どれもよく撮れていて、空の広さ、空気のきよらかさが、胸の内を満たすようだ。


   

 

 

涼しい地方のものなんだね。

 

我が一族は四国の出身だから、旅先でもなければなじみがないわけだ。


*****


それぞれ他にも教示あり。


「きにょう」は松江の方言かと書いたところ、松山あたりでも「きにょう」「きんにょ」などという年寄りがある、と母。

さっそくネットで見てみたら、讃岐・伊予から海を渡って広島・大分などでも聞かれるようだ。環瀬戸内一帯に広く聞かれる訛りかな。


それで思い出したが、古くは広い地域で話されていた言葉が、中央では消えて辺縁に残ることはよく見られる。

松山では、「~できない」ということを「ええせん」と言ったりするが、古語における「え~せず」という表現と重ねてみると、不思議に雅な響きに聞こえるだろう。

「きにょう」なども、案外、平安時代はこれが正則だったかもね。
小学校6年の夏に松江から山形へ転校し、全体として言葉はひどく違うのに、どちらも「なぜ?」のことを「なして?」と言うのが不思議だったが、これもその式だろうか。


ちなみに、平安人は「はな(花・鼻)」を「ふぁな」と発音していたのだそうだよ。

ふぁなの色は 移りにけりな いたずらに・・・・・


再度T君に戻る。

ジョン・ミルン夫妻の墓が函館市船見町にあるらしいと書いたら、以下のように教えてくれた。

函館船見町の墓地は外人墓地と呼ばれてもいて、明治期の外人さんが多く眠っているようです。

妻のおばさんにあたるクリスチャン女性も、ここの墓地に眠ってます。」
 
 

御教示に感謝

 

 




オリーブの島の盲導犬オルガ

2013-05-05 08:45:22 | 日記

もう実名で行こう。

昨日、室崎さんから本が届いた。

「オリーブの島の盲導犬オルガ」(土居忠行)

さっそく読んでみよう。

オルガ、ローラ、クイニー・・・するとパンディは何代目かしらん?

「いびきをかいて寝ています」と昨日の室崎さんのメールにあった。

息することが、生きること、息遣いが聞こえるようだ。

 

吉備人出版 (1999/12)

ISBNは

4906577393

978-4906577392

14年前の出版で新本は品切れと見えるが、2件のカスタマー・レビューがいずれも手放しの絶賛である。これを紹介して当座の御礼に代える。

 

*****

 

その1:

瀬戸内に浮かぶ小豆島で、マッサージ師として自立し、ボランティア活動にも積極的にかかわり、忙しい毎日を送る室崎若子さん。全盲の彼女の生き方を変え、毎日の生活を支えているのは盲導犬です。

 「香川県盲導犬給付事業」の第1号となった盲導犬オルガとの出会いから、若子さん自身の大きな変化と周囲の人々との交流、そしてオルガの死。若子さんと盲導犬オルガを見守り続けてきた著者が、丹念に取材を重ね書き上げた心あたたまるノンフィクション。

 障害者の自立とは、盲導犬とは…盲導犬のあり方を通して、共に生きる社会とは何か考えていきます。

 

その2:

10年も前に発行された本である。
 オリーブの島・小豆島に住む、全盲の女性マッサージ師の方が「香川県盲導犬給付事業」第1号の盲導犬と共に暮らすようになる。その間の人と犬との共生の様子が綴られている。
 外へ出て街を自由に歩きたいという夢をかなえてくれたのが、盲導犬のオルガだった。
全盛期の毅然として働く姿には、一種の風格さえあった。現役時代は、いつも人々に注目され、華やかだった。本書は、その引退、そして終末看護、パートナー・オルガの死に至るまでを愛情こめて跡づけている。
 未来へ・共に生きる社会を目指して、二代目ローラ、三代目クイニーと共にボランティア活動にまで結び付けている。
 突き詰めて考えると、やはり生き物の「命」の問題である。一頭の盲導犬の「いのち」を通して人間と生き物(代表として犬)との共生について考えさせられることが多い。

 

*****

 

室崎さん、ありがとう。

小豆島にも鯉のぼりが翻っていることでしょう。


面接授業の楽しみ@高松 ~ 続編

2013-05-05 00:12:55 | 日記

あっという間に2週間経ってしまった。

記憶の薄れないうちに、高松行について記しておく。

 「三つの楽しみ」のうち、「学生と出会う楽しみ」について先に書いた。

ついで、土地の楽しみとSC所長方の知遇を得る楽しみについて。

 

高松は帰省の途上にあたるので、しょっちゅう通過しているのに降りたことがなかった。

夜の飛行機で着き、リムジンバスに乗り込んで通路側の席に座ったら、窓側の紳士が

「席、代わったげましょか、僕はすぐに降りるから」

言うが早いかひょいと腰をあげた。

お言葉に甘えたが、夜なので窓外の景色を楽しむことは叶わない。10分ほどして、最初の停留所で紳士は会釈もせずに降りていった。

親切だし気も利いているのに、愛想はどうもあまりよろしくない。

この印象を足かけ三日、繰り返して受けることになった。

 

4月下旬とは思えぬ氷雨の夜が明け、土曜日は面接授業第一日である。

ホテルを出るとお遍路さんが二人、JR高松駅前を編み笠に白装束で行く。懐かしい四国路の風景。一人は最近流行りのウォーキング・ストックを使っている。

フロントでは、香川大学は「歩いて行ける距離ではない」と言ったが、地図で2km弱だから僕にはちょうど良い。肌寒いが空は青く、中央通りを徒歩で南へ向かう。標識に松山159kmとある。ちょうど100マイルか。

 

角のビルに「能力開発塾」みたいな看板が立ち、若い職員が土曜の朝からやってくる子どもたちを迎えているのは、東京と変わらない。その真ん前に停めた小さな 乗用車から、小学校高学年と見える男の子が吐き出された。大きな荷物を肩から下げ、見れば一枚歯のゲタを履いている。これは勇ましい、讃岐流かと感心する。

 

途中、「菊池寛通り」との表示を見る。さては香川の人であったか。

弘法大師に平賀源内、そして菊池寛とは、スケールの大きい人物を輩出するところだ。

広々と気持ちの良い街だが、歩道を駆け抜けていく自転車の操り方は、東京に負けず無法で乱暴に思われる。徒歩30分で香川大学に無事到着。

 

所長の山崎先生が懇ろに迎えてくださった。三日前、幕張の教授会で挨拶を交したところである。

教室まで御案内くださって、学生の顔ぶれを見るなり「あ!」と立ち止まった。

袖を引いて別室へ移り、声を低くしてこまごまと注意をいただく。学生サービスの前線である学習センターには、いろいろと苦労がある。

 

*****

 

昼食と夕食と、この日は二度も山崎先生に御馳走になった。

昼食は近所のうどん。東京などでも見かけるようになった讃岐うどんのシステムは、麺の量を指定して受け取り、自分で湯の中をくぐらせる。具を選んで乗せ、会計を済ませてからタンクのツユをたっぷり注いでできあがり。

西の人間には、関東のうどんは醤油汁のようでいただけない。あたりまえの讃岐うどんが無性に嬉しい。山崎先生は生粋の地元っ子で、大学と同じ町内の出身だと いう。「一枚歯のゲタ」には首を傾げ、「天狗じゃあるまいし、そんなの見たことないなぁ」と、讃岐流との関連をきっぱり否定された。な~んだ・・・

 

夜はまた、漁師町の料理屋で魚を御馳走になる。漁師町というのは数十年前までの話で、その後、浜辺を埋め立てて土地を造成したから、今は往時を偲ぶ由もない。これに比べると松山の海辺は、古風を遺してのどかなものである。偲ぶ由もないといえば、塩田だ。かつて製塩のメッカだった香川から、塩田は完全に姿を消した。

 

何でかなぁ、どうして、小規模でいいから遺しておかないのだろう。

ノスタルジアばかりで言うのではない。小さな塩田をひとつ遺して、流下式、さらには入浜式の製塩を実演する。料金を取って見せ、そこでできた塩製品を販売すれば、立派な観光資源になる。

聞くならく、入浜式で作られた粗塩は、苦みと共に不思議な甘みがあったという。

香川でなければ味見できないと宣伝すれば、食道楽の日本人は喜んで金を払ってやってくるだろう。

そして、こういう古い技術がいつ何時どんな形で役立たないとも限らないのだ。

昨年のこの時期、岩手学習センターの面接授業の際に、斎藤先生から伺った「地熱発電」の話を思い出したが、これはまた別項にしよう。

 

齋藤先生には東北人のど根性が香っていたが、山崎先生は闊達自在で軽やかである。平賀源内はこんな感じの人だったのではあるまいか。

 

町内のクリーニング屋の息子であった幼年時代から、阪大を経て関西大学で半導体の物性研究に専念した青年期を経て、縁あって故郷に錦を飾って以来のことを楽しそうに語られる。成功した人生の回顧談でありながら自慢のイヤ味が少しもないのは、これが人柄というものか。

 

つい最近も誰かについて同じようなことを書いたな。この点にこだわってしまうのは、ごく普通の会話の中にも自慢高慢手柄話がなくてはすまず、自己愛の臭みをぷんぷん発散して回りの鼻をつまませる手 合が自分の周辺にいつもいるからだが、ひょっとして「類友」かしらん?医者に自己愛は珍しくもなく、それだけによくよく我が身を振り返れということかもな。自分のオナラは大して臭いとも思わないからね。

 

あ、そうだ!山崎先生は御自身の功績についても特に包まず話されるだろうが、他の人々が発見し達成した良いものについても、自分のことと同様に嬉しそうに語られる。良いものは良いもの、それを誰が見つけたかに拘泥がない。これが自由人というものだ。

 

実際、書家・後藤芝山(ごとう・しざん)の記念事業のこと、平賀源内制作と見られるエレキテルを民家で発見したこと、漢詩の専門家に面接授業を依頼したら素晴らしい内容であったこと、大学の裏山には古墳が発掘されており、これを探訪する面接授業があって自分も参加してみたことなど、先生の話題は実に豊富で楽しく、瀬戸内の魚を飽食する間、耳も頭も満腹堪能の思い。極めつけが「切り絵」である。

 

*****

 

日曜日の朝は快晴、エレベーターの相乗り客に「好いお天気になりましたね」と挨拶したら、「ほんとにね、きにょうは全くひどかった」と答が返ってきた。

「きのう」を「きにょう」と発音するのは、自分の知る範囲では松江あたりの方言にある。

瀬戸内は山陰から遠くない。

 

面接授業も二日目に入ると一気呵成。

心地よく疲れた頭で控え室の壁の絵を眺め、昨日のもうひとつの驚きを思い出す。

 

一見、切り絵と分かるものだが、構図が秀逸だ。

瀬戸大橋が建設中の姿であるのは、橋脚と吊り縄ばかりがあって肝心の道路・線路が未設置であることから分かる。その手前を横切っていくのは宇高連絡船、橋が完成すれば追われる身なのだ。さらに手前にたたずむ若い女性が、憂わしげな表情で胸を抱くようにしている。それらすべてを覆う、一面の夕焼け空・・・

 

 

 

思わず撮った写真は、ストロボの反射で稚拙なものだが、すばらしさの片鱗ぐらいは伝わるだろう。

 

この構図の見事さを感得するには、宇高連絡船についていくらか知っておく必要がある。

宇野と高松を結ぶゆえの命名で、三本の橋(これは偉業だ!)がかかるまでは本州と四国を結ぶ絆だった。飛行機が登場するまでは他の連絡航路とともに唯一の絆であり、飛行機に輸送の主役が移った後もローカルな実益と象徴的な意味をもつ絆であり続けた。

 

僕自身、何度もこれに乗っている。本州側から乗船し、きっかり一時間で高松に着く。降りれば四国で、乗り継ぐ予讃線は四国最大の幹線と言いつつこれが単線だ。(単線、わかりますか?鉄道に線路が1セットしか敷かれていないのだよ。田園都市線なんか、複々線化されて線路が4組併走している。線路一組で、なんで列車が衝突しないかって?頭を使い給え、若者たちよ!)

本当に、宇高連絡船を降りると、時計の針の進みがのろくなるような気さえしたものだ。

 

1903年(明治36年)からの前身時代を経て1910年(明治43年)開通、1988年(昭和63年)をもって廃止されたが、この間どれだけの人間がこの航路によって海を渡ったことか。その間には何度かの事故もあり、特に1955年の紫雲丸沈没では、修学旅行生徒を含む168名の死者を出してもいる。漁師町には、その際に遺体を安置した場所が現存しており、昨日は山崎先生がその話もしてくださった。

 

喜びも悲しみも幾年月、まもなく消えていく運命の宇高連絡船が、自分にとって代わろうとする橋の前を横切っていく。そこにたたずむ女性、そして夕焼け空。

構図も見事なら、それを描き出す切り絵の表現力の何と緻密で豊かなことか!

一瞬、滝平二郎がこの地を訪れたときの作品かと思ったが、まるで違っていて。

 

山崎先生が「ああ、それは萩原さんとおっしゃるアマチュアです。元・宇高連絡船の船長さんですわ」とおっしゃったので、二度びっくり。

 

「この人は、四国八十八カ所のすべてを切り絵にして、本にまとめています」と聞いて、三度びっくり。

 

「四国八十八カ所の方は、御本人の許可を得てファイル化したので、先生のお帰りまでにDVDに焼いといてあげましょう」とうかがって、四度びっくり。

 

帰り際に約束通りDVDを渡してくださり、本は一冊しかないのでと見せてくださったのをパラパラめくって、これはびっくりも決定打というものだ。

 

すごいよ、これは。

 

こんなのをDVD化しちゃって、先生いいんですかとこちらが気にするが、堂々と著者の許可を得てしたことと山崎先生は清々しく、許可する著者の恬淡たることもほとんど竹林七賢・清談の世界ではないか。

 

せめて1枚だけでもここにアップしたいと思ったが、なぜだかうまくいかない。

jpegでサイズも規定内なのに、何でだろう?

ともかく皆さん、ぜひ御覧になることをお勧めします。

データは下記の通り。

 

僕?もちろん買いますよ。だってこれ、すごいもの。

 

四国八十八か所霊場めぐり切り絵集
萩原幹生
成山堂書店
ISBN: 978-4-425-95401-8
定価:3,000円