2019年1月18日(金)
神仏は、よくせき人を試すものだという話の続き。
毎月一回手伝いにいく内科小児科クリニックのA君、気が向くとクリニックでとっている雑誌の中から面白そうな記事をコピーしておいてくれたりする。今回は愛媛関連のもので、実はA君の御両親が宇和島の御出身である。御父君の仕事の関係で東京が長くなったところまで同じだが、愛媛出身であることをアイデンティティの核として選択した僕とは対照的に、A君の方はせっかくの宇和島コネクションを弊履の如く捨てて顧みないのが面白い。
「いいところなのに、たまには帰らないの?」
「まぁいいかな、両親は遺骨を宇和島の教会付属墓地に埋葬してほしいと云ってるから、人生であと二回は行かなきゃならないけどね」
ちなみに彼も僕も一人っ子、彼は自宅近くに御両親を呼んで目を配っているから、僕よりよほど孝行者でもあろうが、父祖の地に対する感じ方がこうも違うかと面白い。で、今回の記事2本:
読めない?うん、読めないな。読めたらB社に怒られるからね、それに今回はポイントがはっきりしてるので。『ぶらりわが街 大人の散歩』という連載の「路面電車編」、左が道後温泉、右が大街道、「大街道」をどう発音するかでどこのもんかが分かる。それはさておき、「道後温泉」編の末尾の石手寺(いしてじ)の解説。
「ここは巡礼の元祖とされる衛門三郎ゆかりの寺。わが身の非道を悔いた三郎はお大師様の許(ママ)しを求めて四国を二十周し、二十一周目に息絶えたと伝わっています。回数でいえば、幕末から大正にかけて二百八十回巡拝した周防大島の人が最多でしょうが。」
そんな人がいたのか!いえ、280回ではなく衛門三郎の方ね。さっそくWikiからコピペする。
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天長年間の頃の話である。伊予国を治めていた河野家の一族で、浮穴郡荏原郷(現在の愛媛県松山市恵原町・文殊院)の豪農で衛門三郎という者が居た。三郎は権勢をふるっていたが、欲深く、民の人望も薄かったといわれる。あるとき、三郎の門前にみすぼらしい身なりの僧が現れ、托鉢をしようとした。三郎は家人に命じて追い返した。翌日も、そしてその翌日と何度も僧は現れた。8日目、三郎は怒って僧が捧げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし、鉢は8つに割れてしまった。僧も姿を消した。実はこの僧は弘法大師であった。
三郎には8人の子がいたが、その時から毎年1人ずつ子が亡くなり、8年目には皆亡くなってしまった。悲しみに打ちひしがれていた三郎の枕元に大師が現れ、三郎はやっと僧が大師であったことに気がつき、何と恐ろしいことをしてしまったものだと後悔する。
三郎は懺悔の気持ちから、田畑を売り払い、家人たちに分け与え、妻とも別れ、大師を追い求めて四国巡礼の旅に出る。二十回巡礼を重ねたが出会えず、大師に何としても巡り合い気持ちから、今度は逆に回ることにして、巡礼の途中、阿波国の焼山寺の近くの杖杉庵で病に倒れてしまう。死期が迫りつつあった三郎の前に大師が現れたところ、三郎は今までの非を泣いて詫び、望みはあるかとの大師の問いに来世には河野家に生まれ変わり人の役に立ちたい(石手寺刻版には「伊予の国司を望む」)と託して息を引き取った。大師は路傍の石を取り「衛門三郎」と書いて、左の手に握らせた。天長8(831)年10月のことという。
翌年、伊予国の領主、河野息利(おきとし)に長男の息方(おきかた)が生まれるが、その子は左手を固く握って開こうとしない。息利は心配して安養寺の僧が祈願をしたところやっと手を開き、「衛門三郎」と書いた石が出てきた。その石は安養寺に納められ、後に「石手寺」と寺号を改めたという。石は玉の石と呼ばれ、寺宝となっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/衛門三郎
衛門三郎と弘法大師(杖杉庵)
(・・・続けざるを得ない)