父の日は母の日に比べると
そのお祝いも 地味なもの ではないだろうか。
両親がいないような中で育った私には
どちらのお祝いもした事がないので
なんとも言えないが、、、
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子供の頃を振り返ると
母の日に赤いカーネーションを胸につけ
母親への感謝を示すのが
日本の習慣だったように記憶する。
それともあれは
母親に贈るカーネーションだったんだろうか?
うーーん それさえ ウボロ。
母の日の思い出はそんな形で残ってはいるが
父の日の思い出は全くない。
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大学在学中に精神分裂病と診断された私の父は
その後 阪大で
前頭葉外的手術であるロボトミーを受けた。
一時 仕事にも就き
結婚し家庭を持ったものの
ロボトミー患者に多く見られる 意欲の低下 からか
働く事もしなくなったと聞く。
離婚の原因はそれだけではないだろうが
見合い結婚だった母が家を出た理由は
想像も出来、納得もする。
私が6歳の時に
父は高知にある 精華園 という精神病院に入院した。
私の記憶にあるのは
強い精神薬で
口数も少なく 感情も見られない父、、、だ。
幼少の頃は 父を恐れていたが
小学高学年にもなると
それなりに精神病というものを理解していたのか
恐れはなかったが
どう交流していいか は 分からなかった。
感情の見られない父が
昔のアルバムに目をやりながら
目頭を熱くしていた様子を目に
硬直した自分、、、
父の背中から覗き込んだアルバムのページにあったのは
若い頃の父と母だった。
あれから 何十年という月日がたった今も
その場にかえる事が出来る程
鮮明に記憶に残っている のは
初めて
父の心に触れたように感じたからだろう。
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写真館で記念写真を撮るのが好きな父だった
二人で並んだ写真はアルバムに何枚かある。
スペアルームの壁に掛けられたブルテンボードに
S49,6,10と片隅に鉛筆で記された
高知新聞の切り抜きを見つけた。
俳句の好きだった父が寄せた句が
高新俳壇で評価された時のものだ。
"五月雨(さみだれ)のよく降る日なり海を見る。"
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父が入院生活を送った精華園は
海沿いにたち
祖母と見舞いに行った日
浜辺でお弁当を食べた日も
また想い出される。