”皆さんもそれぞれ
愛する人を亡くし深い悲しみ (Grief グリーフ)を
体験されているでしょうから
患者さんが亡くられた時
患者さんのご家族の気持ちは
きっとお分かりになる事でしょう”
こんな内容で話を始められたのは
ホスピスでスピリチュアルケアーに携わっておられる方だった。
私がこの言葉を聞きドキッとしたのは
家族を亡くした事はあっても
深い悲しみに心を痛めた事がないからだ。
”私には人の深い悲しみなど分からない。”
そんな事を思いながら話を聞いていた。
6歳の時から祖母と二人暮らしだった私にとって
祖母の突然の死はショッキングではあった。
”イジーさん 校長先生が貴方に話をしたいようですから
校長室に行ってください。”
中学の卒業遠足から学校に帰りつき
バスから降りた私に
一人の先生が私にそう言った。
中学時代 真面目だった私は
”何か 賞でも貰えるんだろうか。”
そんな期待もしながら
校長室のドアをノックした。
”イジーさん そこに座って、、。”
言われるように
校長先生が指さすソファーに座ると
私の隣に座った校長先生が私の手を取る、、、。
”イジーさんは おばあちゃんと二人暮らしだったね。”
”は、、、、、い”
小さく頷いた私に
”おばあさんが今朝 事故に合って、、、” と
校長先生が始める。
目の前に病院のベッドに横になっている祖母が広がる、、、。
” 、、、亡くなられて、、、”
そう続けられた校長先生の言葉がくうを通るや
幾重にもなって涙が頬をつたい始める。
病院のベッドも
そこに横になっていた祖母のイメージも消え
言葉で考える事も出来ずただ 泣くだけだった。
祖母の遺体は伯父夫婦の家に運ばれていた。
頭は包帯で巻かれ
布団をかけられ横になっていた祖母は
いつものように眠っているようでもあった。
祖母の枕元に座っていた伯母が
部屋に入って来た私の顔を見上げ
はっと驚いたような表情になる。
自分がその時 どんな表情であったかは分からないけれど
一滴も涙を流さなかったからではないかと
その時伯母の表情を見てそう思う自分がいた。
お葬式は伯父夫婦の家で行われた。
父も精神病院から外泊をもらい伯父夫婦の家に来ていた
お葬式が始まる前に父が私を居間に呼び
病院で貰って来たと言う薬を3錠
私の掌にのせ
それらを飲むように言う。
言われるまま口の中に入れ
すぐにトイレに行って吐き出した。
祖母が横たわっていたお棺は
頭の部分に小窓のようなものがあり
そこから顔が見えるようになっていた。
告別式?に来て下さった方々が順にお祈りをしていく。
その中に
学級委員と副学級委員が先生と一緒にいるのも見えた。
お祈りが終わり
お棺の小窓の部分をふさぐことになり
”釘を打つように”、、” と
私の隣に座っていた父に言われる。
言われるままに釘を打った、、、、。
普通だったら ここで 泣くのだろう
そんな事を思いながら涙なく釘を打った。
気持が冷めた自分を
それ以上に冷めた自分が見ていた、、、
そんな感じだった。
副学級委員とはクラスで仲も良く
”たれ目” というあだ名の彼女とは
好きなボーイフレンドの話とか
女友達の悪口とか言い合う事はあったけれど
私は彼女にも 誰にも
家の事情を話した事はなかった。
帰る前に
”たれ目”が私に茶色い封筒を手渡してくれた。
それにはクラスの人達からの手紙が入っていた。
一枚づつ読みながら
先生が私の家庭の事情と一緒に
たった一人の祖母を亡くした事を
皆に話してくれたことを知った。
皆それぞれ 精一杯の気持ちを書いてくれたように感じた。
その中の1枚を読んでいて
涙があふれ声を出して泣き始めた
学校の成績は今一つで
時には悪い事もする子だったけれど
心のある子からの手紙だった。
ホスピスでスピチュアルケアーをされている方から
その日こんな話もあった。
”家族を亡くし 葬式を終え
それから暫くした頃
ご家族の心が沈む事は多いので
ホスピスではその頃にご家族にカードをおおくりするんですよ。
そんなボランティアの仕事もあります。”
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テレビドラマでは家族が激しく泣くシーンが多くありますよね
そんなものもあってか 泣かない自分を見つめる自分がいました
それにしても私は 人が亡くなったことで泣く事が殆どないんです、、、。
激しく泣く事が出来る人がうらやましくもあります
従妹が、テレビドラマを観るように、わっーと泣いたのをみて
ぐっとくるものはありましたが
なんだか過剰表現で、だんだん覚めていった自分がいました。
従妹の母=義叔母が、祖父が亡くなった時に
火葬前の棺にしがみついて大泣き
みんながもらい泣きしたあと、真っ先に覚めていたのは
その義叔母だったなあ~と
遠い記憶がよみがえっていました。
韓国でしたっけか?泣き女という仕事の人がいるとか?
そんなことを考えたりしていたな。。。
一度 自分でも何だったのか分からない涙があったんですよ
帰国して学生時代の友人宅に泊まり その家を去る朝
お味噌汁を見ていて 涙がポロポロでて とまらなかったんです
私には珍しい 涙でした。
寂しいと言う感情もなく 涙だけ流れて、、、。
自分の感情を見つめてあげれていなかったんでしょうかね
見つめるには言葉で考える必要もあるだろうし、、
悲しみに関しては 自分でおいやる方なのかも知れません
朱哩さんからの手紙 伯父様 きっととても喜ばれるでしょう
とても素直な方と感じていますから、、。
当人がどれだけ今の感情が深いかというのはわからないですよね。
突然の死は心がなかなか現実として受け入れられずにその場ではぼう然とする事もしばしば。後からジワジワ来たりもしますね。
だから無理に泣く必要なんてないんだと思います。
私も先日祖母が亡くなりましたが、伯父に手紙を書こうと思っていたところです。今までろくに連絡もしてなかったのにどうかと思ったけど、やっぱり送ろうとこちらを読んで思いました。
家族を失った時 悲しまなくてはいけない、、、と思う自分がそうでない自分を見つめる、、感じでしょうか
でも祖母の事は多分 悲しむ事をしなかった、、どこか心の片隅に追いやってしまったのではないか、、と思う事です
今の私には15歳まで育ててくれた祖母や生んでくれた母のDNAが かなり濃くあるな、、と思いますね なんか話がそれてますが、、、。
>重いものがのし掛かってきて、立ち直るのに半年以上はかかったと思います。
お辛い時間だったでしょうが
それを見つめる時間を持たれた事は貴重な事だったんでしょうね。
お話ありがとうございました。
*びこさんへ
>そんなことはないと思います。
数年前まで付き合っていた女友達が愛犬を亡くした時、、、それから暫く経ってもまだ悲しんでおり 言葉がなかったです。
分からなかったんです 何故そこまで悲しむのか
>もう十分過酷な人生を送っていられたから
そう思われる事は多いようにかんじますが
私の場合小さい頃から不通とは違った環境のもとにいたので
それが私にとっては普通の事であり
過酷、、という感じ方はしていなかったと思います
祖母の死を十分悲しまなかった、、、悲しむ事が出来なかった自分を考える事です。
悲しむって大切ですものね
>お父様がお薬を出しだされたのも、お父様なりの精いっぱいのイジーさんに対する思いやりだったと思います。
はい 私もそう思います。
ただ 言えないんですよね
私が飲むべき薬ではない事も、、。
その気持ちの方があの時は強かったと思います
そう言う意味でここに書きました。
お心のあるコメントありがとうございました
*小父さんへ
>気が張っていて、、、
祖母が亡くなった事で私の生活環境も変わり それ以後気が張っていました。
肩こりが始まったのもこのころでした
手紙を読んだ時心を動かされたんですが
その割にその手紙も持っていないし 内容も覚えていないんですよね
その人は覚えていますが、、、。
>伯母さまがイジーさんが置
かれた状況に無理解だったとは思いません。
私も思いませんよ。そんな風にとれました?
例えば私が伯母の立場で母親を亡くしたけいちゃんが涙も流していないと ハッと驚くんじゃないでしょうか、、、
まあ あの時伯母がどう思ったか それは伯母しか知りませんし
ここに書いた事はその時思った自分の事だけです
細かい事までよく覚えているな と思いながら思い起こしました
>他人がそうそう経験しなかった悲しみを乗り越えてこられたんだと思っています。
うーーん まあ 環境は普通の人達とはちがったでしょうが 悲しみで言うと その深さを比べると言うのは出来ませんよね
皆 それぞれ 辛い思いをし乗りこえ、、
この祖母を亡くした悲しみにかんしては
私は乗り越えず 心の片隅に押し込んだのでは と思うのです。
だから もっと泣く必要があった、、と思いました。
人の悲しみが分かる為には自分自身も悲しみと向き合う必要がありますね。
小父さんご夫婦のお話他 心のこもったコメントありがとうございました
想像です。
気が張っていて、ふとその自分の内面に触れるような
言葉に出会ったり、言葉を掛けられたりした時突然
涙があふれ出す時ってありますね。
自分自身の経験でも、お悔やみを言った相手の人が
そのようなことになった経験があります。
>はっと驚いたような表情になる。
これも想像ですけど、伯母さまがイジーさんが置
かれた状況に無理解だったとは思いません。
伯母さまこそ、イジーさんに対して、校長先生のように
冷静に対処できなかったのではないかと思いました。
何と声をかけたらいいのか、あわてられた姿が浮かびます。
>一滴も涙を流さなかったからではないかと
カミユ作の「異邦人」という小説に似た設定があったと思いますが
伯母さまが、イジーさんの祖母さまに対する感情が
理解できないわけはないと思うのです。
(異邦人はずっと後で涙を流さないニヒルな人間だったとして裁判の判決にもそれが反映しました。)
また、イジーさん自身も祖母さまとの別れなど知識
では理解出来ても、気持ちの上では信じがたい、
理解できない状態だったことを想像します。
私は、イジーさんが「深い悲しみに心を痛めた事がない」なんて思いません。
母上のことも、父上のことも、そして祖母さまのことも
他人がそうそう経験しなかった悲しみを乗り越えてこられたんだと思っています。
さて、本題の「患者さんのご家族の気持ちはきっとお分かりになる事でしょう」ですが、
家内が出産して、病院で二度赤子の命を亡くしたことは、以前に書いたことがありますが、
一度目の総合病院では、車で我々が病院を立ち去る
時、医師、看護師さんほかたくさんの方々が見送って
いただきました。
二度目の大学病院では、私が医師の元に呼ばれて
助士ふたりから、赤子を解剖さてて欲しいと頼まれ
私は、そもままを病室に居る家内に伝えると「絶対に
やめて欲しい」と告げられ、また医師と助士にそう言ったらまだ、私に二人が頼んでいました。
丁重に断りましたが、亡くなった赤子を私たち手渡す時は、看護師一人で、はいさようならの感じでした。
もちろん、みんなでの見送りなど無しです。
私がここで書きたいのは、我々が病院を出るのは二回共、一緒の行為なんです。
だけど、前者の総合病院にはありがたかったとよく思い出すことです。
赤子は二人共、人工的に命を2週間くらい延ばした健康ではない子でしたが。
そんなことはないと思います。
イジーさんは、おばあ様が亡くなられる前から、もう十分過酷な人生を送っていられたから、おばあ様が亡くなられたからと言って、ある意味、それだけが特別なことでもなかったのかもしれません。
それにしても、周りの人々のやさしさに心打たれました。
よい校長先生、ご学友、ご親戚の方々であられましたね。
お父様がお薬を出しだされたのも、お父様なりの精いっぱいのイジーさんに対する思いやりだったと思います。
私は、そういう方々がいられたから、現在の素敵なイジーさんがいると思いました。
父が亡くなったのは私が18歳の時、殆ど一緒に暮らしたことがなかったせいか、涙は出ませんでした。
母が亡くなったのは27歳の時でしたが、母とも一緒に暮らしたのは中学の時まで。癌で亡くなりましたが、涙は出ませんでした。弟と妹は泣いていたようですが。。
生前気が強く、ヒステリックな母との暮らしは楽しい思い出はあまりなく、母というより一人の人間、というようなどこかさめた見方をしていました。
が、時間が経つにつれ心の中に寂しさとか悲しさ等とは違った
重いものがのし掛かってきて、立ち直るのに半年以上はかかったと思います。
感情は、特に子供の頃の感情は自分ではコントロール出来ないものです。
客観的に自分を見ることの出来るイジーさんは、素敵だと思います。長くなってしまってごめんなさい。