昨日久しぶりに晴れたと思ったら今日は朝から小雨、少し雨も上がったかと思うも午後からはまたしても雨・・・
そんな中、満を持してではございませんが、今季初となる城館跡調査、空模様を見ながら一箇所だけ探訪して参りました。
今季といいますか今年初の探訪舘跡は綾織町の「西門舘」、国道から程近い山城ながら、なかなか攻城できずにいた舘跡でもあります。
西門舘・・・別名・みさ崎舘 遠野市綾織町砂子沢
阿曽沼家臣、みさ崎右京が居りしなるところ・・・。
眼下(南側)は国道369号線、さらに日影橋付近がみえる。
主郭と思われる山は日影橋付近から見える国道脇の急傾斜な小高い山だろうと考えてはおりましたが、綾織郵便局側の峰続きの山野もまた怪しいと普段から思ってましたので、今回は裏側からの突入を決行、すなわち砂子沢の長松寺から入山、墓地を通って山野へ突入、藪をこいで猪突猛進、なんとか頂部に至るも空振り、やはり東隣のさらに高い山野に違いないと思い、少し下って今度は山登り、遠野山城名物斜面登り・・・・冬期間の身体のなまりがそのまま出てしまった形ながら、それでも一気に駆け上がる、息切れ激しく膝はガクガク・・・やっとの思いで少し平らな場所に行き着くことができました。
間もなく右手に画像の・・・・
第二の空堀跡・・・
ほぼ判然とした空堀跡を発見、ここまでの苦労と疲れが一気に癒された気分を味わう、しかも三重掘である。
またかなり大きく深い、外側の一重目の空堀はそれほどでもないが、内側にいくにしたがって深く、高く、大きい・・・こちらは舘の北側となります。
さらに・・・
三重目の空堀、背面の掘切。
成り行き上、今回のルート上、一番のお楽しみ、背面の空堀跡に到達いたしましたが、これは見事というしかない、鱒沢館のように上から覗き込むといったことではないが、複雑に入り組んで図面なんかは書けたものではないし、仲間内でいう遠野規格舘の典型というべきか、鱒沢館と松崎舘の中間に位置する規模、形は同じ地区内の西風舘の背面に似ている・・・しかし見応えは十分でもあります。
ということで、続きと詳細は管理人が開設しておりますウエブサイト「遠野松崎じぇんご弐」の中での「遠野阿曽沼氏」のコンテンツ内で後日掲載予定です。
段状の平場・・・・五段は確認できました。
内面には主郭と思われる一段高い平場(背面に掘)、さらに南に40m地点に土塁があってその上は平場が形成され現在八幡社が鎮座している。さらに一段下って国道が見下ろせる場所にも大き目の平場が展開されている。こちらには帯郭的な平場が周囲を取り囲んでいる。
こちらも詳細は当ウエブサイトにて後日掲載予定です。
さて、綾織の一地域を治めたとされるみさ崎氏、遠野の歴史では「西門舘主、みさ崎右京が居りしところ」さらに室町中期に遠野郷の実力者、宇夫方守儀の娘を室として迎え、婚姻による同盟が成った事、また西門舘下は宿場町として結構発達し、ちょっとした城下町風だったとも伝えられているが、遠野郷内の豪族達は謎の一族が多く、後世にもその事績なりはほとんど伝えられていない現状でもあります。
鎌倉初期、阿曽沼氏の代官として遠野へ入部した宇夫方氏の遠野西方面の脅威のひとつといわれる「みさ崎氏」・・・しかしその居舘は遠野規格と仲間内で呼ばれる戦国期特有の構えであり、宇夫方氏との婚姻後はどのようにみさ崎一族は繁栄したのか、没落したのかは不明であります。
この西門舘だけが往時を偲ぶものでもあります。
画像ではそれほど凄いと思わせる写りになってませんが、舘跡の遺構の数々、私は感動と興奮を覚えました。とにかく空堀は立派ですし、段丘も判然としております。
私的には、かなりの好感度の舘跡、その闇に包まれた歴史も含め、ウエブサイトにて考察をしたいと考えております。
最後に、以前に紹介の距離測定器等・・・今回は大いに役立ちました。
舘跡内は藪も少なく感度良好、しかも正確な方角も知れてこれまたうれしさ倍増ですが、画像の写りが割りと悪かったこと、二枚ほど白い球体が写っていた事、舘跡は何かしら背筋が寒くなることもしばしばです・・・汗
そんな中、満を持してではございませんが、今季初となる城館跡調査、空模様を見ながら一箇所だけ探訪して参りました。
今季といいますか今年初の探訪舘跡は綾織町の「西門舘」、国道から程近い山城ながら、なかなか攻城できずにいた舘跡でもあります。
西門舘・・・別名・みさ崎舘 遠野市綾織町砂子沢
阿曽沼家臣、みさ崎右京が居りしなるところ・・・。
眼下(南側)は国道369号線、さらに日影橋付近がみえる。
主郭と思われる山は日影橋付近から見える国道脇の急傾斜な小高い山だろうと考えてはおりましたが、綾織郵便局側の峰続きの山野もまた怪しいと普段から思ってましたので、今回は裏側からの突入を決行、すなわち砂子沢の長松寺から入山、墓地を通って山野へ突入、藪をこいで猪突猛進、なんとか頂部に至るも空振り、やはり東隣のさらに高い山野に違いないと思い、少し下って今度は山登り、遠野山城名物斜面登り・・・・冬期間の身体のなまりがそのまま出てしまった形ながら、それでも一気に駆け上がる、息切れ激しく膝はガクガク・・・やっとの思いで少し平らな場所に行き着くことができました。
間もなく右手に画像の・・・・
第二の空堀跡・・・
ほぼ判然とした空堀跡を発見、ここまでの苦労と疲れが一気に癒された気分を味わう、しかも三重掘である。
またかなり大きく深い、外側の一重目の空堀はそれほどでもないが、内側にいくにしたがって深く、高く、大きい・・・こちらは舘の北側となります。
さらに・・・
三重目の空堀、背面の掘切。
成り行き上、今回のルート上、一番のお楽しみ、背面の空堀跡に到達いたしましたが、これは見事というしかない、鱒沢館のように上から覗き込むといったことではないが、複雑に入り組んで図面なんかは書けたものではないし、仲間内でいう遠野規格舘の典型というべきか、鱒沢館と松崎舘の中間に位置する規模、形は同じ地区内の西風舘の背面に似ている・・・しかし見応えは十分でもあります。
ということで、続きと詳細は管理人が開設しておりますウエブサイト「遠野松崎じぇんご弐」の中での「遠野阿曽沼氏」のコンテンツ内で後日掲載予定です。
段状の平場・・・・五段は確認できました。
内面には主郭と思われる一段高い平場(背面に掘)、さらに南に40m地点に土塁があってその上は平場が形成され現在八幡社が鎮座している。さらに一段下って国道が見下ろせる場所にも大き目の平場が展開されている。こちらには帯郭的な平場が周囲を取り囲んでいる。
こちらも詳細は当ウエブサイトにて後日掲載予定です。
さて、綾織の一地域を治めたとされるみさ崎氏、遠野の歴史では「西門舘主、みさ崎右京が居りしところ」さらに室町中期に遠野郷の実力者、宇夫方守儀の娘を室として迎え、婚姻による同盟が成った事、また西門舘下は宿場町として結構発達し、ちょっとした城下町風だったとも伝えられているが、遠野郷内の豪族達は謎の一族が多く、後世にもその事績なりはほとんど伝えられていない現状でもあります。
鎌倉初期、阿曽沼氏の代官として遠野へ入部した宇夫方氏の遠野西方面の脅威のひとつといわれる「みさ崎氏」・・・しかしその居舘は遠野規格と仲間内で呼ばれる戦国期特有の構えであり、宇夫方氏との婚姻後はどのようにみさ崎一族は繁栄したのか、没落したのかは不明であります。
この西門舘だけが往時を偲ぶものでもあります。
画像ではそれほど凄いと思わせる写りになってませんが、舘跡の遺構の数々、私は感動と興奮を覚えました。とにかく空堀は立派ですし、段丘も判然としております。
私的には、かなりの好感度の舘跡、その闇に包まれた歴史も含め、ウエブサイトにて考察をしたいと考えております。
最後に、以前に紹介の距離測定器等・・・今回は大いに役立ちました。
舘跡内は藪も少なく感度良好、しかも正確な方角も知れてこれまたうれしさ倍増ですが、画像の写りが割りと悪かったこと、二枚ほど白い球体が写っていた事、舘跡は何かしら背筋が寒くなることもしばしばです・・・汗