「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

花館(鼻館)

2006-04-15 19:57:18 | 歴史・民俗
 いつ、誰が、なんのために・・・・謎を秘めている遠野郷内の城館跡、その館跡探訪も今年に入っての第3弾、まさに上記に書かれてある記述通り、しかも前評判通り・・・いやっ、それ以上か・・・、いずれにしても予想を遥かに超える感動と驚きを味わうことができた館跡探訪をいたしました。

 青笹町某地区・・・八重の空堀跡があるといわれる花館、今回は当ブログでもお馴染みのromiさん、地元の歴史に詳しいR吉氏のご案内をいただき、探訪できましたこと、この場をお借りいたしまして、お礼申し上げます。
 「ありがとうございました」
 後でお礼といった意味及び郷土史話の続きやらをお伺いしながら一席設けたいと思います。

 さて、まさに花館の感想は一言であらわせば 驚愕 にほかならない。
 伝承によれば安倍時代(平安)の築舘ともいわれますが、今回の探訪では南北朝時代以降、或いは戦国時代であっても不思議ではない作りでもあると考える。
 

頂部平場(南東側の帯郭)・・・単郭ながら頂部平場は南北70メートル、東西20メートル程で遠野の城館では広い部類に入る。

 さらに仲間内で遠野規格と呼ぶ形状に近いながら、主郭と思われる頂部平場の東側は断崖、南・西・は二段の帯郭が配置され南部分の下部に複雑に入り組む二重の空堀、当初、この二重の空堀前の小さな平場が主郭と思わせるほどでもありましたが、さらに上部には平場らしい形状が・・・しかし、その平場も実は帯郭的であり、さらに北側に一段高い帯郭、その上が頂部でありました。

 また西側も複雑に交差しながらの二重の空堀、峰を挟んでさらに下部には二重の空堀、またさらに三重の空堀が走り、頂部平場の背面に至る・・・が、驚愕するのはここからで、北側すなわち背部は確認したたけで6重の空堀、8重は確認できなかったが、いずれも複雑に入り組み、駆け下る様は圧巻というほか表現の仕方がみつからない・・・まだ空堀跡はあるかもしれません。

 とにかく判然と残される空堀跡、複雑に入り組んだり、その数の多さから簡略図も一度くらいの探訪では書けたものではない、とりあえず画像収集を中心に探訪を進めるも実はまだまだ画像は撮り残しております。(本日は60枚)

 
西側の空堀跡・・・峰の向こう側、北側方面にはさらなる空堀群が存在する。


西側の空堀跡


背面内側の空堀跡・・・5メートル前後の間隔で6重の空堀が山野を断ち切っている。8重といわれるようにさらに二重掘がある可能性が大である。

 驚愕の一言・・・規模は阿曽沼氏の主城、光興寺の横田城をもしのぐ規模と思われ、何に対しての防備なのか、館山全体に張りめぐらされる空堀の数々・・まさに「いつ、誰が、なんのために・・」謎の館でもあり、これだけの規模と防備を兼ね備えながら遠野の歴史ではその存在、館主等、ほとんど伝承されていない事実がある。

 ご案内いただいたR吉氏によれば、丑館との関係やらも若干話されていたが、これは大いに興味のあるところで、またこの花館に縁あるご子孫は、な・・ななんと私に何かしら関係ある御宅でもあったこと・・・そうなると菊池氏か・・・以前からの私の推測にも符合しそうな展開・・・これは考察にも力が入りそうでもある。
 また2度、3度の調査が必要でもあり、とにかくこの花館、いろんな意味で少し時間をかけて調べてみたい、そんな思いでもあります。

 とにかく凄い館跡・・・誰にも知られたくない・・・これが本音ながらもこれだけの史跡を地元に埋もらせているのももったいない、いずれとりあえずは睦月庵さんや稲用さんにも機会がございましたらご出馬願って共に調べていただきたい、遠野はおろか岩手、青森地域における村単位を治める館にしては規模が大きく、その遺構も群を抜いているものと思います。

 とにかく「すげじょ」・・・・。

 
コメント (2)
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