遠野阿曾沼旧臣壱として、前回エントリーしましたが、続編たる弐に葛西旧臣であった阿曾沼旧臣を掲載予定でしたが、追々小出しにご紹介することに変更いたします。
今回は、南部藩関連資料において、南部家以前の旧主に係る内容が記され、さらに数ある資料の中でも、最も古い記録ともいわれる「奥南落穂集」(花巻市史)遠野家ノ次第に散見される遠野阿曾沼氏旧臣についての記載いたします。
「栃内氏」
遠野郷土史関連では、江刺支族、栃内村の栃内館主である栃内兵部善兵衛の名が語られております。
善兵衛は盲目の兵法者ともいわれますが、地域の軍馬育成に尽力し、典厩と名乗ったとも呼ばれたともいわれます。
綾織の西風館落城後に主家より西風館を賜り、西風館典厩ともいわれるようですが、その後の足取りは語られておりません。
奥南落穂集には・・・
江刺支族、栃内勾當慶都、天正18年江刺没落の時、遠野に来りて潜居、広郷憐れみ扶持す。
栃内小左衛門広重 仕利直公百石
栃内善兵衛 和賀一揆加勢
他に栃内善右衛門
参考諸家系図には・・・
奥南落穂集とほぼ同内容が記されているが、勾當慶都江刺族120石
善兵衛、盲人也、江刺某の次男也、遠野栃内村に住す。岩崎陣討死
小左衛門茂広、慶長年中栃内村に百石(仕利直公)
藤五郎広任、仕重直公、郡山に住す。
これらを考察するに、栃内氏は、葛西氏没落により江刺氏も没落となり、遠野へ至り、阿曾沼広郷に仕えるも、阿曾沼広長の時の政変で、鱒沢方となったことにより、その恩賞として南部利直より旧領を安堵されたものと解釈される。
小左衛門とされる広重(茂広)が嫡家を継ぎ広重或いは子の広任は後に遠野を離れるも南部藩士としてその系譜が伝えられたものと思われます。
栃内氏は弘治年間の西風館落城に何かしら関ったと考察などもされているが、葛西氏没落後(天正末期)に遠野へ来たものと思われます。
盲目の兵法者、遠野騒動での遠野方の盲目の軍師は、栃内善兵衛その人ではなかったのか、慶長5年の和賀稗貫一揆加勢で戦死の栃内善兵衛とは、善兵衛の次男、善右衛門か?、それとも兵部とは善右衛門で子が小左衛門と善兵衛なのか、少し不明な点もあるも、大方このような流れではなかったのかと推測しております。
遠野との境、江刺郡要衝、人首城跡(奥州市江刺区米里)
「高屋氏」
高屋氏は、下野国の阿曾沼広綱が源頼朝から、遠野を賜り地頭代として重臣の宇夫方広房を派遣した際に、広綱の信任が厚かった高屋八郎を随伴させての遠野下向だったと語られ、以来高屋氏は遠野にあったのだろうという推測と共にその子孫の名は高屋四郎左衛門とも記され、逆にその事績は不明といった謎の部分も見られる内容でもあります。
宇夫方氏系図には宇夫方儀綱(南北朝後期の人か)の女が高屋弥三郎の室とあるも、これもまた詳細は不明。
奥南落穂集には・・・
高屋左近則政、江刺臣天正18年来、文禄3年卒
高屋四郎左衛門恒延、左近子、仕利直公50石
高屋才六則之、左近弟、仕利直公
他、恒方・恒方・則房・・・・。
駒木前野からみた松崎方面。
遠野へ下向した宇夫方広房と高屋八郎は最初に駒木に落ち着いたといわれる。
新城建設の適地探しを主な仕事としていたとも語られ、時代は違えど、またその景色もかなり違うと思いますが、物見山や高清水といった山々は当時と変らずといったところかと思います。(19.8.30)
しかるに参考諸家系図では・・・
高屋左近則政、天正18年、江刺重恒の子、彦三郎に従い深谷にて死す。
則政の子、四郎左衛門恒延には玄蕃恒忠、恒氏、恒次の三子有。
玄蕃恒忠は下川原氏、恒氏は遠野八戸氏家臣及川氏継承、恒次は仙台家臣
しかし、則政は天正19年遠野に住す。
四郎左衛門恒延は寛永2年に稗貫郡内に50石を給され、南部藩士の家系でもあるようです。
さらにその兄弟か子では、遠野八戸家臣の中津山氏、及川氏を継承したのではと思われる名もあり、高屋氏の系譜はその後も遠野と縁があったようでもあります。
高屋氏は天正年間に葛西領から遠野へ来た江刺旧臣であるのは、間違いないものと思われ、何故に宇夫方氏と共に下野から随伴してきたと語られているのだろう。
遠野南部家臣、及川氏や中津山氏、さらに下川原氏といわれる家との関り等、その関連で高屋氏は宇夫方氏との関り深き家として扱われたのだろうか、阿曾沼興廃記や阿曾沼家乗という古書は、宇夫方氏末裔によりまとめられたこともあり、その関係なのだろうか?
いずれ難解なことでもあり、その解明は不可能に近いかもしれませんが、何かしらの痕跡等を探し出せたらと思っております。
遠野阿曾沼氏居城・・・横田城跡
おまけ
野暮用で急遽、北上へ出かけてきた。
お昼時は過ぎていたが、無性に盛岡冷麺が食べたくなり、しかも朝食、昼食抜きだったのでビビンバセットを頼んでしまった。
最近、「スッケ」冷麺ばかり食べていたが、久しぶりの盛岡冷麺、やはり美味い、しかも私的には好みの冷麺であり、大満足であった。
今回は、南部藩関連資料において、南部家以前の旧主に係る内容が記され、さらに数ある資料の中でも、最も古い記録ともいわれる「奥南落穂集」(花巻市史)遠野家ノ次第に散見される遠野阿曾沼氏旧臣についての記載いたします。
「栃内氏」
遠野郷土史関連では、江刺支族、栃内村の栃内館主である栃内兵部善兵衛の名が語られております。
善兵衛は盲目の兵法者ともいわれますが、地域の軍馬育成に尽力し、典厩と名乗ったとも呼ばれたともいわれます。
綾織の西風館落城後に主家より西風館を賜り、西風館典厩ともいわれるようですが、その後の足取りは語られておりません。
奥南落穂集には・・・
江刺支族、栃内勾當慶都、天正18年江刺没落の時、遠野に来りて潜居、広郷憐れみ扶持す。
栃内小左衛門広重 仕利直公百石
栃内善兵衛 和賀一揆加勢
他に栃内善右衛門
参考諸家系図には・・・
奥南落穂集とほぼ同内容が記されているが、勾當慶都江刺族120石
善兵衛、盲人也、江刺某の次男也、遠野栃内村に住す。岩崎陣討死
小左衛門茂広、慶長年中栃内村に百石(仕利直公)
藤五郎広任、仕重直公、郡山に住す。
これらを考察するに、栃内氏は、葛西氏没落により江刺氏も没落となり、遠野へ至り、阿曾沼広郷に仕えるも、阿曾沼広長の時の政変で、鱒沢方となったことにより、その恩賞として南部利直より旧領を安堵されたものと解釈される。
小左衛門とされる広重(茂広)が嫡家を継ぎ広重或いは子の広任は後に遠野を離れるも南部藩士としてその系譜が伝えられたものと思われます。
栃内氏は弘治年間の西風館落城に何かしら関ったと考察などもされているが、葛西氏没落後(天正末期)に遠野へ来たものと思われます。
盲目の兵法者、遠野騒動での遠野方の盲目の軍師は、栃内善兵衛その人ではなかったのか、慶長5年の和賀稗貫一揆加勢で戦死の栃内善兵衛とは、善兵衛の次男、善右衛門か?、それとも兵部とは善右衛門で子が小左衛門と善兵衛なのか、少し不明な点もあるも、大方このような流れではなかったのかと推測しております。
遠野との境、江刺郡要衝、人首城跡(奥州市江刺区米里)
「高屋氏」
高屋氏は、下野国の阿曾沼広綱が源頼朝から、遠野を賜り地頭代として重臣の宇夫方広房を派遣した際に、広綱の信任が厚かった高屋八郎を随伴させての遠野下向だったと語られ、以来高屋氏は遠野にあったのだろうという推測と共にその子孫の名は高屋四郎左衛門とも記され、逆にその事績は不明といった謎の部分も見られる内容でもあります。
宇夫方氏系図には宇夫方儀綱(南北朝後期の人か)の女が高屋弥三郎の室とあるも、これもまた詳細は不明。
奥南落穂集には・・・
高屋左近則政、江刺臣天正18年来、文禄3年卒
高屋四郎左衛門恒延、左近子、仕利直公50石
高屋才六則之、左近弟、仕利直公
他、恒方・恒方・則房・・・・。
駒木前野からみた松崎方面。
遠野へ下向した宇夫方広房と高屋八郎は最初に駒木に落ち着いたといわれる。
新城建設の適地探しを主な仕事としていたとも語られ、時代は違えど、またその景色もかなり違うと思いますが、物見山や高清水といった山々は当時と変らずといったところかと思います。(19.8.30)
しかるに参考諸家系図では・・・
高屋左近則政、天正18年、江刺重恒の子、彦三郎に従い深谷にて死す。
則政の子、四郎左衛門恒延には玄蕃恒忠、恒氏、恒次の三子有。
玄蕃恒忠は下川原氏、恒氏は遠野八戸氏家臣及川氏継承、恒次は仙台家臣
しかし、則政は天正19年遠野に住す。
四郎左衛門恒延は寛永2年に稗貫郡内に50石を給され、南部藩士の家系でもあるようです。
さらにその兄弟か子では、遠野八戸家臣の中津山氏、及川氏を継承したのではと思われる名もあり、高屋氏の系譜はその後も遠野と縁があったようでもあります。
高屋氏は天正年間に葛西領から遠野へ来た江刺旧臣であるのは、間違いないものと思われ、何故に宇夫方氏と共に下野から随伴してきたと語られているのだろう。
遠野南部家臣、及川氏や中津山氏、さらに下川原氏といわれる家との関り等、その関連で高屋氏は宇夫方氏との関り深き家として扱われたのだろうか、阿曾沼興廃記や阿曾沼家乗という古書は、宇夫方氏末裔によりまとめられたこともあり、その関係なのだろうか?
いずれ難解なことでもあり、その解明は不可能に近いかもしれませんが、何かしらの痕跡等を探し出せたらと思っております。
遠野阿曾沼氏居城・・・横田城跡
おまけ
野暮用で急遽、北上へ出かけてきた。
お昼時は過ぎていたが、無性に盛岡冷麺が食べたくなり、しかも朝食、昼食抜きだったのでビビンバセットを頼んでしまった。
最近、「スッケ」冷麺ばかり食べていたが、久しぶりの盛岡冷麺、やはり美味い、しかも私的には好みの冷麺であり、大満足であった。