「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

八戸一族新田氏 弐

2008-10-28 17:40:48 | 歴史・民俗
 本エントリーで弐ということは、壱があってのこととなりますが、まずは過去のエントリーをまずはご覧ください。

こちら


 遠野南部家時代、新田家は世襲家老加判の家であり、祖は遠野南部家第5代、南部政長公の二男政持公と所伝では伝えられ、遠野南部家(八戸)の分家という位置付けで長らく伝えられております。

 遠野にあっては、鍋倉城二の丸に屋敷を持ち、代々新田小十郎を名乗っておりました。


鍋倉城址


二の丸跡



本丸跡


城下・・・市街地





 以前の過去エントリーでも何度か記しておりますが、遠野南部歴代の殿様は、盛岡城下の内丸(岩手県庁がある辺り、県公会堂)に3万坪という広大な敷地を有する遠野屋敷に住まいしており、鍋倉城は新田氏が城代家老として二の丸に、三の丸には福田氏、中館氏、他に沢里氏の屋敷があり、実質的に重臣達によって治められていた。

 城から城下を眺めていたのは新田氏をはじめとした重臣達であった・・・。



 新田氏菩提寺・・・対泉院








新田氏一族の墓所









 主家である遠野南部氏(八戸氏)の歴史について、通説や所伝の内容が近年史料等の研究成果がある程度加速し、かなり違う見解が示されておりますが、新田氏に関しても同様といえます。

 祖である新田政持公に関しては、南部政長公の二男とする所伝ではありますが、建武3年、浅利清連(秋田県比内地方に勢力があった武家)の軍忠状にその名が知られておりますが、「比内郡凶徒新田政持・・・」と比内郡内で武家方に反抗する勢力の親玉みたいな印象であり、以前から比内郡内にある程度の勢力を持っていた武家であること、また既に成人した一廉の武将であったことが推測され、政長の二男というよりも同世代の人物いう印象が残るのですが、詳しくは以前に妄想考察をしておりますのでこちらをご参照願います。



 遠野南部氏、遠野阿曽沼氏、遠野菊池一族、さらに遠野とその周辺の城館跡探訪、民俗的な事・・・・少しかじっては次から次へとフラフラしている状態が続き、どれかひとつをまずはじっくりと深く掘り下げるいった手法が出来ていないという反省もありますが、ひとつに関わると関連する場面と遭遇し、そちらも調べなければならないということで、歴史とは奥が深くとてつもなく広い世界だとさらに実感
しているところです・・・汗



 福田氏の墓所


 新田氏同様家老職であった福田氏に関してもその出目に関しては謎が多いのですが、こちらは機会がありましたらいずれ取り組みたいと考えております。



 銀杏・・・10/28




 一応・・・お知らせ

 山猫氏来遠近し、1日に迎撃ぶれんどの宴はいかがでしょうか?ご意見や参加の有無等をチラっとお知らせ願えば動きやすいです。
 よろしくお願いします。
コメント (18)
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