中館跡(青笹町糠前赤羽根)
二の郭
以前に中下菊池家系図の書籍を参考に遠野の菊池姓の概略を記述した経緯がありましたが、その中で出てくる「鳥越屋堡」(鳥小屋(とりこやとりで))とは何処を指すのか?青笹町内の鳥小屋近在にその堡(とりで)跡は残されているのか?
そんな思いがあって、鳥小屋~赤羽根地区の山野を見ながら車で流しておりました。
昨年、2008年師走、赤羽根地区の山野に空堀らしき遺構を発見、丘陵部への道があって車を乗り入れますと、こんもりとした土盛と自然石の墓石と思われる複数の墓所を見(中館一族の墓)、その背後の斜面に紛れもない館跡特有の空堀跡をみて、館跡であると内心小躍りしたことを思いだす。
平城ながらも空堀は良好に残され、しかも東は八坂神社の辺りから西端の山野までのかなり広範囲な館域であると確認しておりますが手持ちの資料では南部藩政時代初期の頃、八戸から遠野へ入部した八戸直義(遠野南部氏)の重臣、中館勘兵衛の屋敷跡と判明しております。(寛永4年入部)
この度、約一年ぶりに再訪しまして画像取材を主に行いましたが、中下菊池家系図に記された鳥越屋堡の事が思い出されましたので、あれこれ記したいと思います。
中館の空堀跡
中館氏の屋敷跡ということで、江戸期~・・・が主な使用年代といえます。
しかし、中館氏がこの地に移ってから本格的に土木工事をしたものなのか、遠野八戸家の家老職(400石)とはいえ、これほど広範囲な館域が必要だったのか、甚だ疑問ではあります。
城館屋敷跡の資料には、かつての住居跡等があった場所に屋敷を構えたと推測してますが、おそらく住居跡というよりも中世城館跡に屋敷を建てたのだろうと思います。
中館氏が来た際に若干の防御上必要な遺構の改修等は施されたと想像はしますが、現在見える遺構等が大幅に変わるような大規模な工事は実施していないと思ってます。
中世城館跡とは何を指すのか?・・・脳裏に浮かぶのは鳥越屋堡ということになりますね。
かつての水堀跡
中下菊池氏(系図)と伝承
中下菊池氏第2代、菊池九郎三郎睦成は、建治元年(1275)に鎌倉より奥州に来住して気仙郡前野(住田)に住し、阿曽沼氏に臣従し、4代二郎重隆の時に遠野青笹に来住、以来15代球磨太郎長元の代、約百数十年間、臼館(青笹町)に住していたとされ、青笹菊池一族惣領とされる。
一族の菊池兵庫介成景やその末裔、菊池成武と総帥権をめぐる戦いがあり、15代長元以降に臼館を放棄して鳥越屋堡に居を移したという・・・。
この系図に記されていることの信憑性はわからないが、地域で語られる伝承にも少なからず一致する内容もあり、そのひとつ遠野物語拾遺イクサバ伝承や同じ青笹の花館と臼館の戦い等・・・菊池一族同士の争いを伝えている。
ただし、花館は中館の東方、直線距離で約1.5キロに残されている大型城館跡である。
鳥越屋堡とは花館のことなのか?それとも地名や位置から中館が残されている山野の事なのか・・・伝承と史跡の狭間を未だに彷徨っている雰囲気です。
7月に遠野菊池の会総会で講演をいただいた郷土史家のH合先生の講演内容も中下菊池氏についてでしたが、中下菊池氏のご末裔はその後、附馬牛へ移って健在であったと述べられていたことを思い出す・・・。
画像のように光明を指すことはあるのか?