画像は2009年12月8日の内容です。
板沢館跡が残される山野
上郷町で設置の標柱
今回で三度目の探訪となる板沢館跡・・・。
館跡探訪を始めた頃、詳しい資料もなく、ただ感に頼ったり、地域で場所を聴取したりと随分と館跡探しにはそれなりに苦労もいたしました。
板沢館に関しては○区セ○○ーにメールをして、その場所を聞こうとしたのですが、帰ってきた返信は・・・「場所について知りたければ地区センターに来い・・・」という、なんともそっけないと言いますか後から怒りが込み上げてくる内容だったことを思い出す・・・。
今なら一般市民にこの内容では、ただでは済まないと思いますが、小生を同じ出処から給金いただく人間としてみたものなのか?いずれ絶対今後一切あんた達からは聴かないぞ・・・と思ったことは事実でした。
幸い、麓の曹源寺ご住職に会うことができ、詳しく館跡の位置や遺構、そして若干の由来等もお聞きすることができて初探訪したことを思い出します。
主郭背面(北西の段差)
中央部分(南東側)の帯郭(上部)
中腹部分
残存度良好の遺構群、気仙郡から遠野城下への最短ルート、浜峠口付近に配置された上郷地区最大の一大拠点といった位置付けの館、館主は平清水一族の菊池又市郎、そして本姓菊池の板沢氏歴代と伝えられている。
○板沢館(城) 南部領内48城破却の事
南部大膳大夫分国諸城破脚共書上之事
天正20年(1592)南部太守、南部信直は豊臣秀吉に対し、領内主要な城館48箇所について36城は破却、12城に関しては存続という内容を報告したとされる。
その中で、遠野については・・・
閉伊郡 横田 山城破脚 信直抱 代官九戸左馬助
同郡 板沢 山城破脚 淺沼藤次郎持分
同郡 増沢 山城 淺沼忠次郎持分
遠野では上記3つの城が挙げられるが、増沢(鱒沢)城は存続されたという12箇所に入っている。
城という位置付け、拠点という考え方では3城が遠野を代表する城館ということに成り得ますが、板沢館はそのひとつということで、重要視されていたことが伺われます。
しかし、遠野以外の城に関しても言えることですが、一応に伝えられる城主の名が一方で伝えられる人物でない場面も多々みられ、特に遠野に関しては鱒沢城の浅沼忠次郎以外は初耳であること。
横田城に関しては天正20年当時は南部信直傘下とはいえ阿曽沼広郷あるいは広長であるし、板沢城の浅沼藤次郎とは何者であったのか、また横田代官九戸左馬介とは・・・?
無論、南部領内の城館は48に留まらないはずですし、別資料には横田城には九戸左馬介と唐之者供・・・という語句が付いているものもあり、「唐之者供」に関しては以前ブログで掲載した際に、コメントをいただく皆様から秀吉の朝鮮出兵に関った者達の意とご教授いただいており、少なくても朝鮮出兵以降(文禄、慶長)に書かれたものということになります。
いずれ江戸期に入ってから書かれた内容との指摘もあり、その内容の信憑性も含み、どのような意図があったのか、という点も興味が尽きないところでもある。
ただ、板沢館は遠野を代表する気仙方面からの侵入を防ぐ、第一級の軍事、交通の要衝の城館であることは、間違いないものと思います。
麓の標柱設置という地元の方々には史跡を後世に伝えようとする意図に関して敬意を表するところでもありますし、出来れば館の概要図や説明を加えた説明板があれば、よい一層広く知れ渡ると思います。
滴水山 曹源寺(曹洞宗)
上郷町板沢
天正2年(1574)の開基と伝えられる。
土淵町の常堅寺の末寺といわれ、板沢館の板沢氏の庇護を受けていたという。
檀那と思われる人物に板沢泰之進、菊池左門とある。
手持ち資料では見つけ出せなかったが何かで見た記憶があって、その内容に小友平清水の西来院との由来も伝えられるとか?
平清水といえば小友平清水一族(本姓菊池)、板沢館主、菊池又市郎と新谷菊池系図に記され、平清水平右衛門景頼の兄とされる。
又市郎かその嫡子は板沢平蔵とされるが、「平」の字を使うところをみますと何かしら強い関連性があると見て良いのでは・・・・・・。
ちなみに曹源寺画像の右寄り中央にお堂が見えますが、「狢堂」である。
遠野物語拾遺187話に登場の狢伝説で有名なお寺さんが曹源寺である。
その昔、寺が無住で荒れ果てていた頃、歴代住職を喰い殺した狢を旅の僧が退治したという内容である。
おまけ
本日は青笹町の臼館探訪を行いましたが、その途中、土淵町飯豊近くで低く飛ぶ猛禽類を発見。
結構小さくて、胸羽毛が完全に白い、上手く近くの電柱に止まったので、即連射・・・ただしサブ機のE500で、しかも18-180のレンズ・・・でもトリミングすると、まずまずの写りということで・・・・。
さてトンビではない雰囲気ですが、いかがでしょう・・・・ノスリのような気もしますが・・・?