例年なら既に今時期のライフワーク?趣味の世界でもありますが、遠野市内をはじめ近隣市町村に残される城館跡探訪を開始しているところなんですが、今年の晩秋~初冬シーズンは、夜景や雲海撮りに、つい夢中になってしまって出遅れた感じがしないでもない・・・
でも幸いにも、まだ本格的な降雪もなく、小春日和な日々が続いていることもあって、多少の出遅れは今のところ問題でもなさそうで、そんな中、ようやく城館跡探訪を開始いたしました。
第一弾は、今回で4度目の探訪となりますが、3年ぶりの「花(鼻)館」・・・遠野市青笹町沢田・・・山城・・・を訪ねました。
舘の八幡
お供え物はありませんが、手を合せて探訪のご挨拶と安全を祈願する。
遠野での城館跡(山城)としては最大級の規模を誇り、ひとつの郷を支配した武家の居城(館)である鍋倉城は別格としても、松崎横田城、鱒沢館に匹敵する館域を誇り、残される遺構では、5重の堀切、8本の空堀が縦横無尽に走る様は圧巻という表現で語るに相応しい光景である。
館主は、宮澤左近と郷土資料には記されているが、館主含み館の歴史は多くは語られていない。
しかし、全く事績不明というわけではなく、少ないながらも同町青笹の臼館(丑館)との長きにわたる抗争が伝えられ、また遠野物語拾遺267話には「戦場の伝承」が語られ、臼館と飯豊館との争いがあったことが伝えられている。
飯豊館とは、花館のことと推測でき、今は沢田、飯豊は隣接した地域であるが、その昔は境もなく・・・というより同地域だったと想像しております。
空堀跡
本丸跡
南北約70メートル、東西約25~30メートル
本丸背後の堀切跡
近年、安倍氏に詳しい学者先生が花館を訪ね、紛れもなく安倍時代(前九年の役関連)の遺物(館跡)であると断言したとされるが、何重にもわたる空堀や幾重にも展開される帯郭の配置を見ますと、戦時用の厳めしい構えであることがうかがわれ、遠野でいう阿曽沼時代に使用されていた雰囲気が大いに感じられる館跡だと私は考えておりますが、こんなことを考えながら、これに臼館の菊池成景という武将を絡め、花館の宮澤氏も実は菊池一族で同族の争いか?遠野菊池氏についても妄想ながらも合せて掲載のつもりでしたが、ちょっと前から危惧していた事態を目の当たりにして、かなりガックリしたということで、考察する気さえ失せてしまったが本音でもあります。
伐採作業の跡
作業用林道
道の先
おっ~・・・いい眺め・・・
夜景撮りによさそう・・・汗
集落側から見ると・・・
昨年辺りですか?伐採作業が進められておりましたが、その際に館域にかからなければ良いですがね・・・と内心思ってましたが・・・
どうやら空堀や虎口の一部が破壊され作業用道が敷かれた雰囲気が・・・。
館跡が残される山野の場合、空堀跡なんかは重機で少し押せば道に早変わりという場面が多い、此処もそんなところですが、空堀跡に捨てられた木片多数、いつしか木片は土と還るかもしれないが、その前に木片から芽が出、枝となって堀跡を埋め尽くす雑木となっている例も随分とみており、数百年にわたり多少の姿の変化はあったかもしれないが、今の時代に大きく変貌することは残念でならない。
こうした城館跡、特に山城が残される山野は個人の持山という場面も多く、地域で貴重な遺産と認識するも何も出来ない場合の方が多い。
花館に関しては地域でも貴重な歴史遺産という認識を持った方々も居ると思いますが、このような場面となっていることは、あまり知られていないのでは?
もちろん、地権者がいてのこと、個人財産でもあるので、他人がどうこう言うことではないし、趣味の範疇で山野を探訪する私なんかが声を大にして訴えるということはできない・・・とにかくこれ以上の破壊が無いこと、最小限度に止めてほしいと願うのみであります。
「むがすあったずもな、いまはねずもな」 では悲しすぎますから・・・
青笹町糠前の石碑
水木しげる先生の「遠野物語」の表紙となったことで、少し有名になったかな?
遠野駅前に、表紙の拡大版があります。
おまけ・・・
夜景画像が大流行り・・・汗
高清水では飽き足らず、私は耳切、ある方々は山谷川、はたまた寺沢高原・・・いや~、皆さん寒いのに頑張り過ぎです・・・笑
小生は徒歩で暗いお寺さんをビクビクしながら・・・大汗
福泉寺山腹から・・・
イマイチカメラが・・・?・・・汗